第十三章 これこそ、それである

セス・C・リース

「しかし、これは預言者ヨエルが語ったことである。すなわち、『神は仰せられる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人の上に注ごう。そして、あなたたちの息子たちや娘たちは預言をし、あなたたちの若者たちは幻を見、あなたたちの老人たちは夢を見る。また、その時には、わたしの男女の僕たちの上にもわたしの霊を注ごう。そして、彼らも預言するであろう。』」(使徒二・十六~十八)

これはペンテコステの使徒の言葉である。ペンテコステの素晴らしい出来事を予め告げたヨエルの預言を繰り返している。特に、この午後、次の事実に注意することにしよう。聖霊の降臨、三位一体の第三格位のこの世への来臨は、直ちに神の御子の福音の宣べ伝えという結果になった。御霊の傾注の結果、息子たち、娘たち、男女の奴隷たちは預言した。「預言」という言葉は、よく誤解される。原語の意味は「泡立つこと」、「叫ぶこと」、「掘り抜きの井戸のように溢れ流れること」である。いま読んだ御言葉では、預言は神のすべての民がそれに召されているものである。なぜなら、神の御言葉を注意深く学ぶなら、預言は福音の実際的宣べ伝えのすべての局面を網羅する事実がわかるからである。「泡立」たない宣べ伝え、「溢れ出」ない宣べ伝えは、宣べ伝えではない。強くなっていかない宣べ伝えは、宣べ伝えではない。新約聖書の水準を満たすには、宣べ伝えは掘り抜き井戸のように泡立ち、溢れ出るものでなければならない。

現代説教として知られているものの形跡を求めて、われわれは神の御言葉を探したが、一つも見つからなかった。男たち、女たち、息子たち、娘たちが宣べ伝えたという箇所は見つかるが、いわゆる「真理」を説教化して体系的に示そうとする試みの形跡は見あたらない。使徒たちがかつて宣べ伝えた最大の説教は、ほとんどが彼ら自身の経験に由来するものだった。ペンテコステの日から今に至るまで、「天から遣わされた聖霊と共」になされた宣べ伝えは、聖なる無謀さによってなされたのである。また、人を束縛する人造の組織や人間的組織からの全き自由をもってなされたのである。

事実、神は今日、ご自分のすべての子供たちがなんらかの形で預言するよう召しておられる。ペンテコステの宣べ伝えは、神が心の中に行ってくださったことの、奔放かつ自由な表明である。それを束縛することはできない。また、それは束縛下では機能しない。百二十人の男女がいたが、彼らは一斉に語り始めた。一斉に預言し始めたのである。息子たち、娘たち、男女の奴隷たちが預言し始めた。神が授けられたことを彼らは語り、表明した。議会の前に召し出された時、パウロがしたのはまさにこれだった。ただ蛇口をひねって、流し出したのである。多くの人々は座席に座り、「自分は宣べ伝えるよう召されていません」「自分は話すよう召されていません」と言って弁解している。しかし、彼らは立ち上がって宣べ伝えに取り組むべきである。

私は教会の姉妹たちのために心配している。多くの人は人から認められるのを待っているが、これはきわめて嘆かわしい誤りである。愛する人よ、ペンテコステに立ち返るなら、人からの任命を待ってなどいられなくなる。人から認知されるのを待ってなどいられなくなる。後退した教会が任命の用意を整えるのを待ってなどいられなくなる。われわれは宣べ伝えなければならない。なぜなら、神がそれをわれわれの内に授けてくださったからであり、われわれはそれを表明しなければならないからである。

われわれは何を宣べ伝えるべきか?愛する人よ、宣べ伝えようとするなら、神がわれわれに命じておられることを宣べ伝えるべきである。われわれは科学や哲学を宣べ伝えるよう召されてはいないし、社会計画や高等教育に関する諸理論を発展させるよう召されてもいない。教会がするのをやめてしまった数多くのことを行うよう召されているのではなく、神の御子の福音、罪人の再生、信者のための聖霊と火のバプテスマを宣べ伝えるよう召されているのである。それは、人々が心の聖潔と生活の聖潔を知ることができるようになるためであり、人々が罪から贖われて、神を知り、永遠に神を享受することができる地点にもたらされるためである。神よ、われわれを現代的説教から救って、ペンテコステに立ち返らせたまえ。

平均的な説教者は地獄への自分の道を説教しており、教会員の多くは教会籍はあるものの、それは呪われた者たちの領域への通行証程度の役にしか立っていない。この国の至る所で人々が要求して受けているのは、人間的なものである。研究で造られたもの、人間の知性の水準にあるものである。しかし、神は「天から遣わされた聖霊と共に」イエス・キリストの福音を宣べ伝えるよう、われわれに命じておられる。われわれの教会の多くの講壇から恐ろしいものが注ぎ出されているのは、恐るべき事実である。私を知っている人なら、私が人を攻撃したり虐待したりするような人間ではないことを、ちゃんとわかっている。しかし、諸君、事実を知ることは、大きな重荷で圧迫されることである。そうである以上、私はあえて事実を言おう。われわれの民は生ける顧みを受けられるのであり、教会はこの末の日の説教の誤りから解放してもらえるのである。主よ、人々を無限地獄から救うものを、天からわれわれに与えたまえ。

われわれは何を宣べ伝えたいのか?自分自身を宣べ伝えたいのではない。われわれはみな、その類のことをやめさせたいのである。証しを「私」という代名詞で始めるのをやめるといい。やり方を変えて、「私は聖められた」「私は云々」と言う代わりに、神の御子を前面に出して、「主は私を聖めてくださる」と言うといい。主を前面に出し続けるなら、人々の理解度は向上するだろう。近頃の傾向はどこでも、神を後に追いやり、人を昇格させて前面に出すことである。悪魔がそうするようわれわれの手助けをしているのである。悪魔が望んでいるのは、説教者や信徒やその他全員が自分を前面に出し続けて、神を排除し続けることである。われわれにはそんなことはできない。われわれはイエスを宣べ伝えなければならない。

われわれは十字架を宣べ伝えなければならない。それに関して非難があることは承知している。しかし、不平を鳴らさずにこの非難にあずかる人には途方もない報いがあることを、私は知っている。迫害もあるが、われわれに現されようとしている栄光と比べたら、些細なことである。われわれが宣べ伝えるよう召されているのは、「イエス・キリスト、十字架につけられた方」である。罪人のための過去の経歴からの救いである。聖徒のための現状からの救いである。聖徒は聖霊に満たしてもらえるのである。

この御言葉の言葉が成就されるとき、われわれは勝利を得る。成功を得る。成功が保証される。この国の至る所で、人々が敗北を訴えているのはどういうことか?人々が自制して、「リバイバルが起きないことに深い痛みを覚える」と言うのはどういうことか?この午後にリバイバルが起きることは十八世紀前と同じくらい容易であることを、あなたは知っているか?神が神であり、真理が真理であるのが確実であるように、ある条件に続いて確実にリバイバルが起きることを、あなたは知っているか?

リバイバルが起きない理由は、われわれが天からの聖霊と共に宣べ伝えないからである。われわれの上に溢れ流れ、多くのゴミ屑を運び去って、永遠の勝利を与えてくれる、いつものミシシッピ川が必要である。多くの人は「上手に宣べ伝える」。「論理的」であり、「秩序立てて考える人」であり、「愉快に伝え」る。人々はそれを「崇め」、自発的に敬意を表明するが、だれも救われないのである!別の人は、なんら目新しい真理もなく、ほとんど秩序立っていない。また、素朴な真理を示すそのやり方には、反対を招く多くの点があり、気難しい人は怒ってしまう。しかし、彼らは回心するのである。そして、後退した教会員たちは激怒するが、彼らは神と調和していないことが示されるのである。そして、その結果、偉大な永続的リバイバルが起きるのである!

何が違うのか?一方の人は宣べ伝えたが、頭脳や人間的教育に頼った。他方の人は真理を宣べ伝え、聖霊に頼った。すこし前に、とても人気のある伝道者が、一連の不毛な集会の最後にこう述べた。「私には理解できません。私はある都市で、この同じ一連の説教をまさに同じ順番で説教しました。そこでは二百名の回心者があったのです」。聖霊は順序にしたがって進まれないことを、その説教者は知るべきである。聖霊は規則にしたがって進まれないのである!その人が宣べ伝えて御霊に頼った時、御霊は真理を尊ばれた。しかし、その人が真理の体系的提示に頼って他所で宣べ伝えた時、聖霊は退いてそれを尊ばれなかった。多くの時、聖霊は退いて、われわれの努力を尊んでくださらない。どこか他所で宣べ伝えたことを、われわれが繰り返そうとしているからである。

多くの説教者は上手に説教する。完全に正統的だが、全く益がない。なぜか?自分自身の考えに浸るあまり、この御言葉の成就に全くとまどってしまうからである。あなたは知っているだろうか?理解不可能なことが拒絶されて非難されるだけでなく、人々が超自然的に見えるものをすべて恐れる時、われわれは堕落しているのである。人々は狂信的になることを恐れている。天の神よ、われわれを助けたまえ!

ナイル川の流域は数千年間肥沃だったことで有名である。この肥沃さは毎年の洪水のおかげである。もしナイル川が両岸の間にとどまっていたなら、航行の役には大いに立っていただろうが、その土は食物を産出せず、飢饉になっていただろう。諸々の義務を単純にこなせない人でも、神のために大いなることを成し遂げられる。しかし、その人の魂の中に洪水が起きていれば、人々はその人から糧を得られただろう。神の家に、人々のための糧があっただろう。主よ、われわれを溢れ流れさせたまえ!

この世は興奮を称賛しているが、興奮を避けることが教会の一般的特徴である。そんなことでは魂の収穫は得られない。人々がわれわれのことをどう言おうと、われわれはもっと無鉄砲になるべきだし、もっと進んで宣べ伝え、祈り、歌い、叫ぶべきである。そうなる時、人々がわれわれを「任命する」かどうかは些細な違いにすぎなくなる。自分の頭の上に司教の手を置いてもらったかどうかは、聖霊があなたの上におられるなら、些細な違いにすぎなくなる。聖なる方の油を受けるなら、あなたは宣べ伝えて、回心者たちと勝利を得る。そして、神の御名は崇められ、ペンテコステが再来する。

人々が聖霊を受ける時、幼子でもリバイバルを起こせるようになる。説教者がリバイバルを起こせない時でも、一人の幼子が何度でもリバイバルを起こせるようになる。リバイバルが説教者のためではない時に、多くのリバイバルが教会に臨む。子供や、叫んで帽子を自分の頭の反対側に跳ね飛ばす「偏屈な老女」のおかげでリバイバルが起きることもある。しかし、天が裂けて勝利が臨まないかぎり、祈って神を待ち望む方法がわかる人はだれもいない。しばらくすると、一代変化が生じるだろう。多くの高ぶる輩は低くなり、多くの無価値な者は高くなる。裁きがなされる時、状況は一変する。多くの高ぶった説教者たちや、多くの長老たちは驚くだろう。また、無名の人々――彼らは神の勇者であるにもかかわらず、自分が並外れたことを行ったことを覚えてすらいない――も驚くだろう。

ああ、御霊の傾注のさいわいな結果よ。弱い男が力ある男になり、臆病で内気な女が自分の心の中で神が行われた御業を落ち着いた声で話す証し人になる。あなたはヤコブの聖めの出来事を覚えているだろうか?主がヤボク川の岸で彼に授けた祝福が、彼の全性質と全生涯をどのように変えたのか、あなたは思い出せるだろうか?

ヤコブとその兄エサウとの間に仲違いが生じてから何年もたっており、今、ヤコブは義理の父であるラバンとの滞在を終えて家に帰るところだった。その時、怒った兄が武装した人々と一緒に自分に会いに来ようとしていることを、彼は知った。ああ、ヤコブはどれほど心に恐れをいだいたことか!彼の勇気はどれほどくじけたことか!死に物狂いで彼は熱心に神を呼び求めた。「私はあなたに祈ります。私の兄の手から、エサウの手から私を救ってください。彼が来て、子供たちと共に母を撃つのではないかと、私は恐れています」。その時、主は来て、彼の意志を砕いて彼を完全な献身に導こうとされた。ついにヤコブは明け渡して、自分の名がヤコブ(押しのける者)であることを告白した。今、祝福が臨んで、主は仰せられる、「あなたの名前はもはやヤコブではなく、イスラエル(神の皇子)と称さなければならない。なぜなら、神の皇子として、あなたは神に対して、人々に対して力ある者であり、優れているからである」。

それ以後、この人の人生はなんと変わったことか。エサウは自分の兄弟に会っただけで征服されてしまった。一滴も血を流すことなく、直ちに平和が生じた。それ以後、ヤコブの人生は変わり、幸いな力あるものになったのである。

ペニエルはペンテコステに対応しており、神に対する力、人々に対する力をわれわれに与える。私の仲間の説教者よ、説教する時、自分の言葉に効力を持たせることを、あなたは望むか?人々が恐れおののいて神に立ち返ることを、あなたは望むか?望むなら、神の力、聖霊のバプテスマを受けよ。そこから自然に、人々に対する力が流れ出る。

このバプテスマ、この油塗りこそ、コーヘイを激辛のリバイバリストにしたものである。それが臨む前、彼は普通の説教者と同じように弱かった。しかし、御霊が傾注されるやいなや、彼は神のメッセンジャーになったのである。彼の言葉は、風が葉っぱを揺さぶるように、人々の心を揺さぶったのである。

この聖霊の油塗り以外の何物も、クルー族の少年だったサミー・モリスを魂を勝ち取る者にすることはできなかっただろう。彼は無知・無教養で、ジャングルを出て間もなかった。しかし、彼がニューヨークに着いた晩、彼という道具を通して、十七人が主の足下にもたらされたのである。これは素晴らしい力である。この力は、貧しい異教の少年をとらえて、数十年も訓練を受けてきた白髪の牧師よりも、魂を救う成功者にすることができるのである。この力は何か?ペンテコステの力である。ヨエルが述べている油塗りの力である。

近頃聖霊が無視されているその有様は、酷く恥ずかしいものである。あなたはこれをわかっているか?聖霊のこの聖なる油塗りを受けないかぎり、だれも神の御言葉を伝えるのに相応しくない。それにもかかわらず、人々はこの絶対に必要な唯一のもの以外のあらゆる装備を求めている。ヘブル語が何だというのか?説教術が何だというのか?社会学が何だというのか?修辞学が何だというのか?これらのものが人々の魂に神秘的な力を臨ませて、彼らを神にもたらせるのか?人々を罪のために泣かせることができるのか?否。ペンテコステのバプテスマだけがそうできるのである。

人々が奉仕に背を向けている様は憂慮すべきことである。昨年、八百人の奉仕者が宣べ伝えの働きから離れて、法律業や、ジャーナリズムの働きや、神に召されていない他の働きに就いた。

決して死ぬことのない魂にキリストのために宣べ伝えることほど、気高くて幸いな働きはない。その働きを怠り、放棄する人々がいる理由は、そのための備えがなかったからである。すなわち、聖霊を受けていなかったからである。ペンテコステを受けた人は、食事よりも宣べ伝えを優先する。また、話す人を雇うより自分で宣べ伝える。

「自分の賜物はささやかなものだが、宣べ伝えたい」と感じている人はここにいるだろうか?私はあなたに言う。神は大学卒業生を得るのを喜ばれるのと同じように、あなたを得ることを喜ばれる。黙示録が与えられたのは、ガマリエルの生徒だったパウロではなく、正規の教育を受けていないヨハネだった。神は、尋常でない大きな賜物を持つ人と同じように、貧弱な賜物しかない人にも、大成功とご自身の明確な啓示を与えてくださる。

諸君、人が聖霊を受けるとき、それは罪人の回心を意味することを、われわれは忘れている。また、クリスチャンが聖霊に満たされるとき、天空からの電気を流すスイッチを入れられるようになることを、われわれは忘れている。それによりついには、人々はよろめきつつイエス・キリストの足下に来るようになるのである。聖霊を受けるとき、あなたは宣べ伝えられるようになる。だれにも任命してもらう必要は無い。われわれの少年たちや少女たちも宣べ伝えるべきである。私がここにいるのは、あなたに「宣べ伝えよ」と言うためである。

なんとしても、宣べ伝えよ!「自分は無であり、なにもできない」とあなたは言う。神はあなたを祝福してくださる。無益でもかまわないから、神に機会を与えよ。神が望んでおられるのは、牧者の投石器と雄羊の角だけである。ミデアン人を混乱させて勝利を得るのに神が必要とされるのは、宿営に転がし込む三セントの大麦パンだけである。もし神がここにいる聖潔の民から機会を得ることができていれば、あなたはシンシナティの聖潔について恥じる必要はなかっただろう。洪水の時にミシシッピ川が谷間を流れて、ごみや邪魔物を洗い去るように、聖潔が諸々の通りや路地を流れていただろう。聖霊を受ける時、あなたは聖潔について弁解する必要はなくなる。人々は聖潔に印象づけられるようになる。神はあなたを祝福してくださる。聖潔自身が自らを擁護するのである。

われわれが「聖潔を擁護」しなければならない理由は、純粋なものを手にしていないからである。カルメル山で火が天から下った時、その火は不信仰を蹴散らした。火があなたの上に臨む時、不信仰はその呪われた頭を隠して永遠の恥を被り、神の民は勝利と勇気と力の風格を帯びるようになる。そのため悪魔は怯えるようになる。弁解しなければならないような「聖潔」から、神がわれわれを救ってくださいますように!十日の集会を開いて、聖潔のための弁解にすべての時を費やしておきながら、「どうして集会はうまくいかなかったのだろう?」とあなたは不思議に思っているのである!

私個人としては、どんな領域でも負けはしない。天が破産しないかぎり、また、御座から力がなくならないかぎり、私は自分の領域で決して負けはしない。シンシナティはとても困難な土地である。しかし神は昨晩、この場所で人々を床に倒れさせられた。その人々はまるで棺に入る用意ができているかのようだった。神はこの場所のこの祭壇で人々を救ってくださった。ここがまるで容易な土地であるかのようだった。「福音に対して頑なな」土地についての話をやめるべき時である。ここはありあまるほど乳と水がある土地である。ここは、人々が馬鹿げたことを宣べ伝えてきたため、人々がその馬鹿話に飽き飽きしている土地である。しかし、私は言うが、ここは真の福音が恐ろしいほど不足しているのである。聖霊による真の宣べ伝えは、いつでもどこでも成功するのである。

われわれは説教者やクリスチャン以外のすべての人に成功を要求する。なぜ彼らに成功を要求しないのか?われわれには時間がない。回心者を得ない人々を雇うには、人生はあまりにも短く、永遠はあまりにも長く、地獄はあまりにも恐ろしく、罪はあまりにも呪われている。

われわれは成功を得ることができる。子供でも聖霊の中で宣べ伝え、祈り、歌うなら、人々は泣き、笑い、叫び、回心する。だれにもその責任はないかのようである。それに対して、論理的で雄弁な正統的真理を携えた人が最善を尽くしても、だれも関心を寄せないらしく、だれも回心しない。しかし、その半分ほどの知性もないが御霊に満たされている老人が立ち上がって、僅かな言葉を発すると、会衆全体が燃え上がる。あなたは人が歌うのを聞いてきた――彼らはなんとみごとに歌うことか!人々はそれをどれほど崇めたことか。その声はなんと美しかったことか。しかし、だれも救われなかったのである。しかし、黒人の老女が聖霊の中で歌うと、全会衆が泣いたのである。

天の神よ、人々に涙を流させるものをわれわれに与えたまえ。すべてが乾ききっている今日、われわれには人々の心に触れるものが必要である。聖霊の火がこれをなす。多くの説教者は、ペンテコステを受けた後、それ以前の十年間で得たよりも多くの回心者をたった一週間で得た。ジェイムズ・コーヘイは、完全に聖められる前はありきたりの説教者だった。しかしその後、彼は燃える炎のようにイギリス中とアメリカ中を駆け回り、大勢の人々が神に回心したのである。今日、ありきたりの説教者はたくさんいるが、彼らも聖霊に満たされていれば、尋常ならざる説教者になっていただろう。自分を並外れた者と見なしている多くの説教者がいるが、もし彼らが聖められていたなら、自分のことを普通の説教者と見なしていただろうが、今よりも大きな成功を得ていただろう。

結論として、私は言いたい。神の召しがわれわれに臨んでいる。またシンシナティに来ることがあるのかどうか、私にはわからない。しかし、もしまた来て、あなたたちが今いるのと同じ巣の中に座っているのを見るなら、あなたたちは神から後退したということである。私はあなたたちを率直に対処できよう。自分の巣に羽根飾りを付けて、そこに落ち着いて、自分を顧みるなら、われわれは自分の経験を保てない。われわれは「宣べ伝え、祈り、歌い、叫」ばなければならない。すべての家に行かなければならない。地下室や屋根裏部屋に行かなければならない。川沿いの波止場に行かなければならない。あらゆる場所に行って、神の御子の福音を伝えなければならない。

あなたは自分の口と自分の金で、また自分の仕事で、福音を宣べ伝えることができる。神があなたと共におられるなら、あなたは非常に多くの方法で福音を宣べ伝えることができる。人々が聖霊を受ける時、彼らは真理を広める方法を探し出すことに、私は気がついた。ある有色人種の人が昨晩この集会の後、ホテルの一つに行き、よそ者を一人ここに連れてきた。神はその人を祭壇にもたらして救ってくださった。彼がデトロイトからはるばるここまでやって来たのは、この救いを得るためだったのである。彼は、自分が何のために来たのかわかっていなかった。その有色人種の人は彼を神のもとにもたらす手段だったのである。

この祝福を得るとき、われわれはなんらかの方法で宣べ伝えるようになる。われわれ全員が宣べ伝えることができる一つの方法がある。神が楽しい牧師職、素敵な家、千六百ドルの給料から私を召し出された時、私は一ドルの保証もなくそれをみな明け渡して、毎年粗末な家で暮らすことに同意した。神は私の魂の中に、「このメッセージをできるだけ多くの人に伝えたい」という燃えるような願いを起こしてくださった。だから、聖潔の本や聖潔の文献によって、宣べ伝え、書き記し、分け与え、頒布できることを、神は私に理解させてくださったのである。この国の至る所で、私が本や文書を配布してこの福音を広めるのを、神は祝福してくださった。このようにだれでも福音を宣べ伝えることができる。しかし、人々は座り込んで、「どうすればできるのかわからない」と言う。本を買って配ればいいのである。文書を取得して他の人々に与えればいいのである。あなたの聖められていない牧師や、あなたの聖められていない兄弟たちや姉妹たちに、福音を送ればいいのである。

天上にあるもののために金を投資すべき時が来ようとしている。今こそ、決して死に絶えないものに思いを馳せるべき時である。そうしなければ、われわれの魂は痩せ衰えるであろう。今にも干からびて吹き飛びそうな人々を私は知っている。それは、彼らが真理を広めることに関して神と歩調を合わせることに失敗したためである。事実、神がわれわれに与えてくださったものをすべて与える覚悟をする地点に達しないかぎり、繁栄は望めない。この午後、この福音を宣べ伝えるよう、神はわれわれを助けてくださる。可能なあらゆる方法で福音を宣べ伝えるよう助けてくださる。この午後、私が気遣っているのは、人々が聖霊を受けることである。預言させる御霊を人々が受けることである。御使いたちを仰天させるような仕方で預言する少女たち、僕の少女たちを私は知っている。

私は聖霊を受けた一人の少女を知っている。その少女は単純な英語を一言も話せなかったのだが、彼女のこの世の女主人とその夫は恐ろしい認罪に陥って、どうすればいいかわからなかった。ある朝、彼らは朝食の食卓に着いていた。素敵な朝食だったのだが、彼らは食べられなかった。通常、彼らは食堂でマリヤに仕えてもらうことはあまりしていなかったのだが、その朝はマリヤに居てもらわなければならなかった。自分たちを導ける人に他に心当たりがなかったので、彼らは彼女を迎えにやった――彼女は台所でバターケーキを揚げていたが、食堂に入って来て、この人たちをイエス・キリストに導くことができたのである。あなたが人の靴を磨いている時、その人があなたに救いについて話してもらうことを願うほどに、あなたは救いに満ちることができる。人々が聖霊を受けていれば、彼らはこの火を至る所で撒き散らせただろう。聖霊を受けるよう、神がわれわれを助けてくださいますように。

オハイオ州シンシナティ、一八九八年十二月五日