第十四章 聖所

セス・C・リース

「主の山に登るべき者は誰か?その聖所に立つべき者は誰か?両手が清く、心が純粋な者。その魂が空しい事に向かわない者、偽って誓わない者である。」(詩篇二四・三~四)

この詩篇二四篇が作詞されて用いられたのは、間違いなく、神の箱がオベデエドムの家からシオン山のあるべき場所に戻った、あの重大な時のことである。その箱は敵の手の中にあったが、敵にとってその箱は大きな呪いだった。その友であるオベデエドムの家では、その箱は大きな祝福だった。しかし、公の礼拝の場所にその箱を戻すべき時が来た。そして、生ける神を礼拝することがシオン山上で再開されたのである。

だから、「主の山に登るべき者は誰か?その聖所に立つべき者は誰か?」というダビデの問いはもっともな問いだった。なぜなら、神の箱が戻って、生ける神の礼拝が再開されるべきである以上、誰かが王の御前に出なければならないからである。誰かが主の主、王の王の御前に立って、祭司また僕として行動しなければならないからである。それで、霊感を受けた詩篇作者は「主の山に登るべき者は誰か?その聖所に立つべき者は誰か?」と叫んだのである。

王なる御方の御傍近くに行って、そこにとどまるのに相応しいのは、どのような人か?この務めのために資格づけられている人は誰か?霊感による答えは、「手が清く、心が純粋な者」である。最初に聖所について、次にそこに入るのに必要な条件について、短く注目することにしたい。聖所は、そこに神が臨み、御旨を啓示し、ご自身の民と交わる場所だった。聖所は、神が常に臨在される場所、仕える者たちに神が語られる場所だった。旧契約の「聖所」は、新契約における「聖潔の状態」を象徴する。神の御言葉を注意深く学ぶなら、神の臨在が聖所の中にあったように、今日、神の直接的な絶えざる臨在は聖潔の状態にある人の中にあること、あるいは、全き聖めを経験した人の中にあることがはっきりとわかる。全き聖めでは、清い心が正常な状態であり、聖霊はそこに絶えず住まわれるのである。

この場所について注目したい最初の点は、それが誉れの場所であることである。天の王の直接的臨在の中に入ることは、大いなる誉れの場所に入ることである。地上の王の御前に出ることは誉れであると常に考えられてきた。自分の国の最高為政者と握手するために、人々は長い道のりを行く。王族の前に一瞬でも立つことを許されるなら、人々は大いに光栄に感じる。自国の議員の前ですらそうである。マッキンリー大統領と握手するのを待ちながら二時間立っていたことを私は思い出す。そんなことをするのは愚かだと感じたが、地位のある人々を敬い崇める気持ちがわれわれの内にある。しかし、諸君、真の誉れとは天の王の臨在の中に入ることである。この御方と握手するだけでなく、主の主、王の王、宇宙の最高為政者の直接的臨在の中に生きることである。この御方が万物を造られたのであり、その御力によって万物は支えられているのである。

この聖所の中に入るのは大いなる栄誉だと感じる。聖潔にまつわる非難を気にしすぎるあまり、王なる御方と共にいることをあまり栄誉に思わない人々もいる。事実、その人々の振る舞いから判断するに、彼らは神のために徹底的な人々、完全に聖められている人々の前に出る時、大いに困惑するようである。しかし、われわれの中にはこれをかなり昔に克服した人もいる。われわれは次のことを知るようになった。神の御前に出ることは、栄光の門のこちら側で人に与えられる最高の栄誉なのである。また、あらゆる不義から清められ、あらゆる罪から救われること、聖霊に満たされること、王の王の絶えざる臨在の中に生きることを許されること、王の血統に連なって紫の衣を着、王の食卓に座すことは、はかりしれない特権なのである。

彼らは蔑まれ、非難され、拒絶されているが、この平信徒の人々こそわれわれの仲間である。この群れに属する栄誉にあずかっている事実を、われわれは大喜びしたいと思う。愛する人よ、あなたはわれわれのことを恥に思う必要はない。この群れの中にいることを恥ずかしく感じる必要はない。もちろん、あなたが詐欺に引っかかって、宣べ伝えていることを実行しない人々と一緒にいる場合、また、あなたが間違って悪い仲間と共にいる場合、あなたはその人々と手を切った方がいい。しかし、諸君、聖なる少数の人々こそ、あなたがこの世で得られる最高の仲間なのである。彼らは勇敢に突き進む人々であり、地的誉れよりも天の王と共に歩むことを重んじる人々である。地的称賛よりも天の微笑みを顧みる人々である。

私たちの間ですでにその中に入っている人々について、あなたたちは何も弁解する必要はないし、何の言い訳もする必要はない。決してとまどいを覚える必要はない。われわれは完全にくつろいで、満足している。もしあなたに同情心があるなら、他の人々に同情せよ。われわれは王の臨在の中に入ることを許されており、何の言い訳も望まない。われわれは授かり得る最高の栄誉を得た。われわれは聖所に入ることを許された。これを恥に思う人々もいるが、彼らは「持たざる」人々である。

聖潔の集会の周りにしがみついて、パンくずをもらいに来る人々――というのは、彼らがそこから来た所では、すべてが萎れて干からびているからである――そして、「集会所で倒れた」ことを知られるのを恥ずかしく思う人々は、われわれが今晩話している事柄に心を打たれたことが決してない。あなたが王の臨在の中に入る時、それをすべての人に知ってほしいとあなたは願うようになる。また、それが三つの世界で公表されることを願うようになる。天のすべての観客がそれを知るのを嬉しく思うようになる。それが地獄の回廊中に響き渡るのを願うようになる。また、地がそれを知るように自分自身心がけるようになる。

また、聖所は友情の場所である。王の直接的臨在の中に立つには、あなたは王の友でなければならない。あなたは王と親しい友人の間柄でなければならない。あなたは他の人のおかげで王の臨在の中に入ることを許されるかもしれないが、そこに用事がない限りとどまることはできない。自分の用件を伝えて去らなければならない。たとえマッキンリーと会談することに成功したとしても、そこにとどまることはできない。

もちろん、あなたが大統領の友人なら、一晩中とどまることができる。あなたがたまたまその息子だったなら、あなたは彼と共に住むことができる。しかし、偉人の前にとどまる特権を保証するものは親しい間柄であり、御言葉が述べているように聖所に立つ特権を保証するものは親しい関係である。われわれは神と親しい間柄でなければならない。友人以上の者でなければならない。神の親族でなければならない。

われわれが王の血統なら、王の食卓に座すことができるし、王たちの会議場に座すことができる。もし息子なら、われわれは王宮の諸々の権利を持つことができ、地下室から屋根裏部屋に至るまでホワイトハウスの諸々の特権を持つことができる。もしたんなる客にすぎないなら、もちろん、われわれは客の滞在場所にいなければならない。もし僕なら、台所か僕たちの所にいなければならない。しかし相続人、子供なら、その家全体に対する特権を持つことになる。ご存じのように、宮殿のような家では客は常に自由を感じるわけではない。私はすべてがあまりにも優雅な家に泊まったことがあるが、まるで自分がヤード尺を呑み込んだような心地がして、退散できないかと願った。しかし、完全にくつろげる家、自分自身の家のように感じる家がある――あなたがそこに入る時、あなたは自分自身の家に入るのである。

しかし、愛する人よ、あなたはご存じだろうか?神の友になるには、あなたはこの世の敵にならなければならないのである。あなたはご存じだろうか?王と親しい間柄になるには、あなたは他の人々と手を切らなければならないのである。あなたはご存じだろうか?あなたの花婿の二心無き愛情を得るには、あなたはこの世に媚びを売るのをやめなければならず、他の友人たちに色目を使うのをやめて、天と地の王なる御方に自分自身を完全にささげなければならないのである。片手でこの世をつかみ、他方の手で神をつかもうとしている限り、われわれは神と親しい間柄になることはできない。

それゆえ、あなたはこの世、この世的な施設、キリスト無き団体や秘密結社と手を切らなければならない。王と共に住んでいるなら、他の誰かの虜になることはできない。私はこれを確信している。これを支持する神の御言葉をわれわれは持っている。また、これは天で永遠に決着済みである。王と親しい間柄になるには、自分自身を否み、この世が偉大な良いものだと称するものをすべて放棄し、イエスと共に低い道を取らなければならない。推察するに、とても多くの人が中に入りそこなう理由はこれである。祭壇で暫くのあいだ泣いて、御霊の認罪の下で心が柔らかくなっているように思われるのだが、何らかの障害に「ぶつかる」と、その涙は枯れ果て、祝福を受けずに後退してしまう人々を、われわれは見かける。彼らは、王と共に進むつもりなら手を切らなければならないものを携えて来るが、この世のものを抱きしめることを選んで、天の王に背を向けるのである。

愛する人よ、私はこの世のものと手を切って、永遠のものを固守することを選ぶ。地上のものをすべて去らせることを選び、永遠にながらえるものを選ぶ。私は意図的にこの世や教会の高い地位や誉れに固執するのをやめて、この狭い道を取ることによって訪れるどんな非難も歓迎する。なぜなら、蔑まれた卑しいナザレ人と共に上って天に行く決意だからである。モーセが天を得るために人気や王族の身分を手放したように、私はこの下界で抱きしめていたものを手放す。それは、天と天が意味するあらゆるものとに向かって両手を広げるためである。

また、聖所は安全な場所である。王の好意にあずかる時、あなたは王の護衛に守ってもらえる。王と親しい間柄になる時、あなたは王と同じように安全である。王の好意とその微笑みがある限り、王を守るすべての人やすべての銃があなたを守ってくれる。あなたは完全に安全である。

「聖潔は危険である」「全く聖められることは、とても危なっかしいことだ」とわれわれに言う人々もいる。背高帽をかぶり、白ネクタイを締め、コートにはボタンがたくさんついている説教者たちで、「そんなに高く上ったら落ちてしまうかもしれませんよ。そうしたら、落ちて酷いことになるでしょう」とわれわれに言う人々もいる。しかし、この事柄の根本原理を彼らは理解しそこなっている。聖潔は高く上ることでは全くないことを、彼らは理解していない。聖潔は下に降りることである。下に降りて下にとどまる時、どうして落ちることがありえよう?できるのはせいぜい転がることくらいである。

実は、人々が聖められる時、彼らはかつて経験したことのない保障、安全、神の保護を経験するのである。この地上を歩む最も安全な男女は、罪から自由な人々、自分の魂の地下室から弾薬の最後の一粉まで取り除いた人々である。地下室に弾薬を保管するのは危険であることを、誰もが知っている。火薬は丸一年そこにあっても無害かもしれないが、いつの日か爆発してあなたの家は粉々になるかもしれない。あなたがなすべき最善の事は、あなたの地下室から弾薬を撤去することである。安全を確保したければ、そのようなものをすべて取り除かなければならない。全く聖められる時、多くの問題を引き起こす爆発物から解放される。人は全幅の信頼に足る者ではない――その魂が清められ、悪魔のすべてのダイナマイトから解放されて、聖霊に満たされない限り、私は決して人に全幅の信頼を寄せはしない。

あなたが税金を払う時、「少し高いな」と感じることが時々あるかもしれない。政府の案件を賄うためにこんなに多くの金を支払う必要性が、あなたには分からないかもしれない。しかし、外国を旅行すると、この政府の力にあなたは感謝するだろう。異国の地にいても、あなたはこの国の保護を受けられる。星条旗が翻っている所ではどこでも、行儀良く振る舞っている限り、あなたは完全に安全である。それはまさに、あなたがこの国の市民だからである。あなたが天の市民権を得る時、海や陸のすべての人、キリストの指揮下にあるすべての軍艦、天の大砲が、あなたの背後に控えている。たとえ地獄が総力を挙げてあなたに向かって来たとしても、神は――必要なら――天を空っぽにしてあなたを顧みて下さる。あなたは天の王の臣下だからである!

これは安全な場所である。安全を望むなら、王と友になれ。数年前、アメリカ生まれのあるイギリス人の水兵がスペイン当局によって突然裁かれ、死罪になった。アメリカ領事は「性急な裁判では不十分である」と述べて、イギリス領事と協議し、その人に新たな聴取をするべきであると合意した。スペイン当局は新たに裁判を行うことを拒否して、その人は銃殺のために引き出された。十二人が一列に並んでまさに銃を撃とうとした時、アメリカ領事が歩み寄ってその人の上に「星条旗」を放り投げた。また、イギリス領事も進み出てその人を「英国国旗」で包んで、「撃てるものなら撃ってみろ」と言った。人々は銃を下ろし、その人は新たな裁判を受けることになった。綿の布切れにすぎなかったのだが、その背後には地上最強の二つの国家が控えていたのである。

血が染みついたキリストの旗で包まれる時、あなたは安全である。なぜなら、悪魔はそれを撃てないからである。悪魔は十字架で、広く開かれた墓で戦った。悪魔はその園で、十字架と広く開かれた墓で、征服された敵になった。あなたがなすべきことは、ただ復活の朝を悪魔に示すことだけである。そうするなら、悪魔は永遠の恥を受けてその頭を隠す。血が染みついたイエスの旗の下にいるなら、天の全衆群が必ずわれわれを顧みてくれる。天の全大砲がわれわれを助けてくれる。神が安全である限り、われわれは完全に安全である。これが異端のように聞こえる人々もいるかもしれないが、そうではない。これは神の恵みの力である。われわれのために開かれた岩の裂け目の中に、われわれは安全に座している。この裂け目の中にとどまる限り、いかなる悪魔もわれわれを傷つけられない。なぜなら、われわれは王の支援と直接的保護を受けているからである。

また、愛する人よ、聖所は権威の場所である。王の好意にあずかる時、あなたは影響力のある地位につく。エステル王女が王の好意にあずかった時、彼女は事を成し遂げた。謁見室に入るのは危険な企てのように見えたが、「死ななければならないなら、死にます」と彼女は言って、王の前に出た。王が彼女を見て、彼女が王の好意を見い出した時、王は彼女に金の笏を差し伸べた。それは王国を治める笏だった。彼女が近づいてその笏の片隅に触った時、彼女は王座の権威に触れて、彼女の民は解放されたのである。なぜか?彼女は王の好意にあずかり、権威ある地位についたからである。

ヨセフがエジプトの王と共に影響力を持つようになった時、彼はこの世を統治する人の傍らに立った。そして、彼の言葉は帝国中で権威あるものとなった。なぜか?彼が権威ある地位にあったからである。ヨセフの人となりによるものではなかった。直前まで、彼は穴の中に、牢獄の中にいたからである。問題は彼の人となりではなく、彼の地位だった。われわれが何者なのか、どこから来たのかは全然関係ない。スラムから来たのか五番通りから来たのかは全然関係ない。救われて完全に聖められるなら、われわれは権威ある地位につくのである。この地位にあるとき、われわれはボタンを押して、天の力を稼働させ、途方もないことを成し遂げることができる。

王の御前に立つ時、われわれは祈って天から火を呼び下し、友人たちに罪を認めさせることができる。彼らが教会に行かないので、あなたは十年間彼らに宣べ伝え、叱りつけ、文句を言うかもしれないが、彼らは救われない。しかし、権威ある地位につく時、あなたはスイッチをオンにして、五分で彼らを認罪に導けるようになる。

また、聖所は尽きない供給の場所である。王の厚遇を受けている時、あなたは望むものをすべて得ることができる。それは尽きることがない。なぜなら、王はすべての恵みを満ち溢れさせて、「どんな境遇でも常に満ち足りる」ようにして下さるからである。それは、われわれがあらゆる良い業に富むようになるためである。さて、われわれはこれを理論的に受け入れてきたし、「私は王の子である」と歌ってきた。しかし、まるで御父が乞食であるかのように生活するという誤りを犯してきたのである!「私は王の子である」と歌うことと、すべてを持っているかのように語り、行動し、生活することとは別問題である。われわれは昇降機や倉庫や貯水槽ではなく、管であり経路である。それを通して神は救いの川々を注いで、地上の飢えている数百万の人々を潤されるのである。われわれが蛇口を開けさえすれば、神はわれわれを通して祝福を注いで下さる。一生われわれは経済を学ばなければならない。この世のものをふんだんに持つことがどういうことか、われわれは一度も経験したことがない。だから、自分の五セント硬貨を勘定して、どれくらい十セント硬貨を支払わなければならないのかを確認しなければならないわれわれにとって、何かが十分にあるというのは凄く贅沢なことである。ああ、誤解しないでほしい。われわれは有頂天なのである。なぜなら、決して供給が尽きない地点にわれわれは達したからである。われわれは決して小麦粉の樽の底をあさったりはしない。支払い不能な請求に会うこともない。なぜなら、千の丘に牛を持つ豊かな御父をわれわれは持っているからである。謙って神と共に歩む男女が欠乏にあうことはない。

私はあの少女に同情する。その少女は屋根裏部屋で育てられて、あまり物を見たことがなかった。彼女が海辺に連れて行かれた時のことである。「海をどう思う?」と尋ねられて、少女は「たくさんあるものを見れて嬉しいです」と答えた。私は感謝で一杯である。私は貯水槽から水を注いできた。その貯水槽はとても大きいので、人々に欲しいものをすべて与えても、なお余りがある。僕であるわれわれはすべて使うこともできるし、与えることもできるのである!望むなら、あなたは貧民になることもできる。しかし、私は貧民になろうとは思わない。私は億万長者になって、僕や、従僕や、馬車や、自分の望むそのようなものすべてを得ようと思う。

あなたは徒歩で行くこともできるが、私は馬車に乗ろうと思う。聖書が教えているように、ペリシテ人を戦車に変えることができる。今のように多くの敵がいる限り、私は決して徒歩では進まないし、「一輪車に乗る」こともない!あなたも私も決して貧乏になってはならない!授業の集会で、自分たちがいかに弱いかを決して言ってはならない!自分たちがどれほど困難な時を過ごしてきたのか、どれだけ多くの十字架や損失や浮き沈みを経験してきたのかを告げる必要は無い。われわれのなすべきことは王について話すこと、王の御業を告げることだけである。そうするとき、われわれにはなすべきことがたくさんあるようになる。ハレルヤ!

さて、数分のあいだ、この聖所に入るための条件について見ることにしよう。聖所は栄誉の場所、友情の場所、安全な場所、権威の場所、尽きない供給の場所である。しかし、入場券がなければ入れないのである!天に入るための十二の門があって、その門を十二人の御使いが守っているのが確かなことであるように、次のこともまた確かである。すなわち、この聖所は炎の剣とケルビムによって守られており、ここで述べられている条件を満たさない限り、中に入れないのである。

最初に述べられている条件は「清い両手」である。もしわれわれの両手が人の血を流していて清くないなら、もし賄賂を受け取っているなら、もし他人の財産を盗んでいるなら、われわれは中に入れない。盗んでいる人々が大勢いる。その人々は金を盗んでいるわけではない。人の名声をほんの少しだけ掠め取って、元に戻すのを拒んでいるのである。「清い両手」とは、内側も外側も完全に清く、公正・完全であることを意味し、キリストのような性質を意味する。毎日、神と人の前で疑惑や非難を超越した歩みをすることを意味する。このような歩み、このような生活を、初代教会の七人の奉仕者たちは送ったのである。彼らは正直に報告する者たちであり、信仰と聖霊に満ちていた。彼らには「清い両手」があった。彼らの外面生活は正しかったのである。

あなたの外面生活が完全に正しいものでなくても、あなたはそれを正すことができる。「決して始末できない問題がある」「自分の両手を清くすることはとてもできない」とあなたは言うかもしれないが、「あなたにはできる」と私は言う。自分で正せるものをすべて正した時、あなたは自分に出来る限りのことをしたのである。神は人に出来る以上のことを決して要求されない。人がなしうる限りのことをして外面生活を正す時、その人は「清い両手」を持つのである。

あなたの注意を喚起したいもう一つの条件は、われわれは今、純粋な心を持たなければならないことである。純粋な心を持つことがわれわれには無理だったら、聖霊はこれを聖所に入る条件として決して示されなかっただろう。神はわれわれに達成不能なものを示して、われわれを愚弄するようなことはなさらない。神がわれわれに清い心を示して、われわれがそれに飢え渇くようにされる時、神は清い心を持つことを可能にして下さるだけでなく、それをすぐ手が届く魂の戸口に置いて下さるのである。

今晩ここにいる人は誰でも清い両手と純粋な心を得て、聖所に入ることができる。聖所に入る人々は、これらの条件の下で入る。聖所の中にいない人は、これらの条件を満たさない限り、自分の両手を洗い、自分の心をイエス・キリストの血により清めない限り、決して聖所の中に入れない。今晩、われわれの中の幾人が聖所の中にいるだろうか?

シンシナティでの説教、一八九八年十一月二十九日