第十五章 レベカの召し

セス・C・リース

「そこで彼は言った、『私はアブラハムの僕です。主は私の主人を大いに祝福して、大いなる者とされました。主はまた彼に羊、牛、銀、金、男女の奴隷、らくだ、ろばを与えられました。主人の妻サラは年老いてから、主人に男の子を産みました。主人はその所有をみなこれに与えました』。」(創世記三四・三四~三六)

これは「主人の持ち物をすべて治めていた」アブラハムの僕の長の言葉である。彼はきわめて繊細で重要な用件――アブラハムの一人子イサクの嫁探し――のために遣わされた。この出来事はとても教訓的であり興味深い。また、きわめて印象的な方法で、新約の教会の聖霊による召しを描写・象徴している。教会はイサクの偉大な本体であるイエス・キリスト、神のひとり子の花嫁になるよう召されている。

二二章から二四章の出来事がこの順序で起きたのは偶然ではない。ここでこれに注意することが大切である。

1.イサクがささげられ、死者の中から戻される。

2.イサクの母であるサラが葬られる。

3.アブラハムの僕がイサクの妻を得るために遣わされる。このイサクは死者の中から戻された人である。

この型の本体は新約聖書の中に見られる。新約聖書のすべての出来事の中で最も際立った目ざましい出来事は、神のひとり子の死、第二のイサクの犠牲である。次に、ユダヤ主義が埋葬され、拒絶されたユダヤ人が葬られる。第三に、聖霊が来臨して、この世から教会、「花嫁」、小羊の妻を選び、召し出される。型の目的は教訓を与えることである。なぜなら、「前に書き記されたものはみな、われわれに対する教訓のためだからである」。

アブラハムとその僕との間で交わされた誓いの目的は、イサクのために助け手を得ることであった。これは時が始まる遥か昔に、全能の三位一体の議場で制定された恵みの契約に対応している。神はこの誓いを承認する必要があったが、ご自身よりも偉大な者がいなかったので、ご自身によって誓われた。神の誓いの目的はこの世の贖いだけでなく、教会が全く聖められることだった。それは教会が「花嫁」、小羊の妻となるためである。だから、われわれの全き聖めは神の永遠の誓いに基づく。神に感謝せよ、われわれの全き救いは神が後で考案されたことではないのである。

次に、アブラハムの僕の証しに注目しよう。彼には述べるべき明確な決定的証しがあった。彼は聖霊を象徴しているだけでなく、御霊に満たされて御霊によって力づけられている弟子たちをも象徴する。「私はアブラハムの僕です」が、この人の言葉だった。聖霊に満たされる時、われわれははっきりした明確な証しを持つようになる。この人は自分がアブラハムの僕であることを知っていた。彼はそう推測したのでも、望んだのでも、仮定したのでもない。彼は知っていたのである。なぜなら、彼は「私は……です」と述べたからである。自分が何者なのか、どこから来たのかはっきりしていなかったなら、彼は決してレベカを射止めることはできなかった。自分がキリストのものであることをはっきりと知っていないなら、クリスチャンが他の人々をキリストに勝ち取る見込みはない。

われわれが聖霊を受ける時、聖霊は義認とカルバリを大いに強調して明らかにされる。それゆえ、自分の回心についてどんな疑問があったとしても、疑問はすっかり無くなる。ペンテコステを経験していなければ、多くの人は自分の回心の時を特定できなかっただろう。ペンテコステを経験した時、御霊の照らしの下で、自分が回心したことを彼らははっきりと理解したのである。

われわれは明確な積極的証しを持たなければならない。昔のユダヤ人は、軍隊で地位を得る前に、自分の家系を示す必要があった。それと同じように、自分が救われていることを知らない人々は、神の試みを経た勝利の軍隊で地位を得るのにふさわしくない。しかし注意せよ。僕であるエレアザルは、自分の主人が誰なのかに関して率直な証しをした後、もはや自分自身についてはなにも述べず、父とその息子について直ちに示し始めたのである。「彼は自分から語るのではありません」。彼は父の資力について語る。「主は私の主人を大いに祝福して、大いなる者とされました。主はまた彼に羊、牛、銀、金を与えられました」等。

愛する人よ、われわれの主人を適切に示さないかぎり、われわれが大成功を得る見込みはない。彼は偉大な神である。神は数え切れない無限の富を持っておられ、千の丘の牛と、諸々の世界が渦巻く宇宙とを所有しておられる。なんと多くの人が神を不正確に伝えていることか!「連中の神はとてもちっぽけな神である」と世人は考えているにちがいない。

信仰を告白する多くのクリスチャンは、彼らの神が自分たちのために常に多くのことをしてこられたことを知らない。彼らの生活は、神は彼らに完全な勝利を与えることができず、すべての罪から救えもしないことを示唆している。彼らの霊性は、彼らが礼拝していると告白している神を辱めている。こんなよろめき、ぐらついている、痩せこけた個々人、「曲がった道」を造り出し、「禁じられた道」から進み入る連中が神の子供だと、一体誰が思うだろうか?こんな痩せこけた姿の連中が王の食卓に座るなどということがありえるだろうか?救いに対するなんたる茶番か!天に対するなんたる侮辱か!

自分の主人は富んでいてとても偉大な者であることを僕がレベカに明らかにした後、主人には一人息子がいること、そして、自分は今その息子のために妻を得る使命を帯びていることを僕は彼女に告げた。エレアザルがこれほど絶賛しているこの世継ぎにレベカは惹かれた。「わたしが父からあなたたちに遣わす慰め主、父から発する真理の御霊が来る時、彼はわたしについて証しします」。「彼はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、それをあなたたちに示すからです」。

神の資力の大きさを啓示することにより、また、キリストの性格の至高の素晴らしさを実証することにより、御霊は人々を勝ち取って恵みと救いにもたらす。僕はレベカに遠方にいるとても魅力的な人物を示し、その人物と結ばれる幸いを示した。その人の妻になるなら、イサクのものはすべてレベカのものになる。エレアザルの振る舞いは卓越した試金石である。この試金石により、われわれの務めの妥当性が試される。最も霊的な教えは、キリストを極みまで救うことのできる方として、常に十分に示す。このような教えには、人の理論や理屈の余地はない。自分自身を宣べ伝えることを願う人は、これらのおもちゃをとても上手に使いこなすだろうが、聖霊の説教者はイエスを指し示す。

エレアザルの探求の結果は、きわめて著しい決定的なものだった。この僕の言葉は彼女の心をイサクに勝ち取った。彼女は僕の話にあったイサクと会うために、親族や故郷を離れて異郷の地へ行く用意を整えた。

銀や金の宝石それに衣服は、レベカにとって近づきつつある財宝の保証だった。昔の習慣はもはや許されない。花婿に会うために、高貴さという紫の衣裳を身に着けなければならない。明け渡した罪人はボロ衣を脱がされて新しい衣を着、正気になって、天の富の見本を得る。レベカは今や真にイサクの許嫁である。その栄誉にふさわしい衣服を着なければならない。イサクの花嫁になることに同意するだけでなく、実際本当に自分自身と自分のすべての持ち物をその目的のためにささげなければならない。

「そこでエレアザルは、『私を主人のもとに帰らせてください』と言った」。しかし、「老人」の父親や、レベカと地的な絆で結ばれている人々は反対した。「少なくとも数日は、彼女を私たちのもとにとどまらせてください」。これは決定的瞬間である。テストがなされなければならない。レベカはどうするのか?イサクに対する彼女の愛はとても強くて、自分を取り巻くものから愛慕の情を全く断ち切るほどのものなのか?自分の家に背を向け、父母、兄弟姉妹、家や土地を捨てて、イサクに向かって進むのだろうか?彼女の聞いた話が本当なら、これらのものに執着することは、愚行にも劣る行いである。イサクの生涯と財産に共にあずかる者に本当になれるなら、なおもラバンの羊の世話をするのはなんと愚かなことか。そんなことをすれば、彼女の前に示されたものをことごとく軽んじることになるだろう。あっさりと諦めてしまうには、この将来の見通しはあまりにも輝きに満ちている。そこでレベカはためらわずに立ち上がり、単純ではあるが素晴らしい「私は行きます」という言葉で旅立つ決意を述べた。「後にあるものを忘れて、前にあるものに向かって身を伸ばしつつ、上に召す賞に向かって前進した」のである。

真に回心した者はみな、実際的な献身と真の聖潔の問題に速やかに直面するようになる。ここで、天然の人や地的絆は抗議して、この分離をしばしのあいだ遅らせるよう固執する。数週間、数ヶ月、義認の光の中を歩んでいる人で、聖潔の問題、「天然の人」、「肉的な思い」、世的なあらゆる係累からの十分かつ完全な分離という問題に直面するようにならない人はほとんどいない。「私は行きます」という人々と共に、聖霊は道中ずっと一緒に旅をしてくれる。そして、「この時代」の「夕暮れ」に、おそらく今世紀の夕暮れに(そうでないと誰が言えるだろう?)、おそらく今晩、慰め主がわれわれに大いに語り聞かせてくれたキリストがイサクのように外に歩み出て、その目を上げて、その妻が天の雲に包まれてご自分に会いにやって来るのをご覧になるだろう。キリストは彼女を力強い御腕で引いて祝宴の間に導き、王の食卓に座らされるだろう。「こうしてわれわれは永遠に主と共にいるようになるのである」。ハレルヤ!