第十六章 変装した恵み

セス・C・リース

「あなたは人々にわれわれの頭の上を乗り越えさせられた。われわれは火の中、水の中を通った。しかし、あなたはわれわれを豊かな所に導き出された。」(詩篇六六・一二)

欄外では「潤った所」となっており、「肥沃な所」を意味する。この御言葉が示す偉大な主たる真理は、クリスチャンが経験する困難の効用である。国々の歴史において次のことは事実である。逆境は国家の繁栄に常に役立つ。北国の住人は南方や熱帯の地の住人よりも常に優勢だった。住みにくい天候、不毛な土地、逆境のせいで、エネルギーと逞しい力が必要だったのである。

反対と抑圧のおかげで、われわれの父祖たちは革命と英雄的行為を余儀なくされ、最終的に独立した。イスラエルはパロの抑圧のおかげで失った以上のものを得た。抑圧されればされるほど、彼らは増えて成長した。政治的・社会的大混乱の時に、最強の人々が育まれた。ワシントン将軍、アブラハム・リンカーン、グラント将軍、ロバート・E・リー、その他多くの人のような人々は、平時には決して前面に出なかっただろう。しかし、国家が極めて大きな戦いをしていた時に、彼らは輝き渡ったのである。この国とスペインとの間でなされた最近の戦いがなければ、ホブソンやデューイーのことを決して耳にしなかった人々は数百万にのぼるだろう。反対や困難には、魂の中に眠っている極めて強力な資質を呼び覚まして、最上の人々を活動に導く効用がある。聖書に出て来る傑出した人物たちはみな、困難という学校で学んだ。モリヤ山のあの恐ろしい悲劇まで、アブラハムは「忠信な者の父」とは決して呼ばれなかった。ヤコブは厳しい訓練という戦車に乗って、最高の偉業に上り詰めた。王座に至るヨセフの道はエジプトの獄屋を通る道だった。王座に至るダビデの道は九年間に及ぶ迫害と抑圧の谷間をくぐり抜ける道だった。王になることがどういうことか、またそれと同時に、冠を受けるには待たなければならないことを、彼は知っていたのである。パウロは足枷のついた状態で皇帝の家族に宣べ伝えた。ジョン・バニヤンはベッドフォードの牢獄で最高の働きをした。諸々の時代の極めて傑出した人々は、地と地獄の攻撃を受けている時に輝き渡った。教会がかつて見たことのない最暗黒の時こそ、教会が極めて素晴らしい勝利を勝ち取った時でもあった。

これは教会全般に言えるだけでなく、個人にも言える。抑圧、反対、貧困に強いられて、多くの人の生活は道徳的栄誉と霊的偉大さに導かれたのである。神に対して忠信で、歴史の天空で特別な星々のように輝くであろう人々が数千人いるが、彼らは境遇に強いられなければ取るに足りない無価値な者だっただろう。境遇に強いられて、彼らは安楽な場所から、居心地の良い場所から、大きな争いと凄まじい戦いの中に導かれた。そして、その戦いが大きければ大きいほど、勝利も大きかったのである。戦わない限り、決して大勝利は得られない。勝利を望んでいるのだが、勝利を得るのに必要な戦いを恐れているように思われる数千もの人々がいる。試み、誘惑、困難、試練から尻込みする人々は、戦うべき敵がいなければ――戦うべき戦いがなければ――敵に対する大勝利は得られないことを理解できない。代々にわたる勝利を知りたければ、進んで暗闇の軍勢と取っ組み合いの戦いをしなければならない。それは、この世、肉、悪魔に対して、死、地獄、墓に対して、われわれに勝利を得させる御力を、神が示す機会を得るためである。

困難の効用は何か?試練や誘惑の益は何か?たいていの人はこれらのものを恐れる。人々は厳しい誘惑や試練を災難と見なしている。これらのものがわれわれに臨む目的は何か?第一に言いたいのは、それらのものによってわれわれの真価が試されるということである。神は決して無価値な魂を試みたり試したりされない。だから、厳しい試練を受けているとき、それはわれわれがそれに値するからなのである。悪魔はすでに自分のものである人を決して誘惑しない。だから、悪魔が人々を厳しく誘惑するとき、それは彼らが悪魔の爪から救われていて、悪魔が取り戻したがっているからなのである。毒草は穀粒や小麦のように篩いにかけられない、とイザヤは言う。なぜか?篩いに値しないからである。穀粒や小麦は篩いにかけられる価値があるが、毒草にはない。あなたや私に篩いにかけられた経験が一度でもあるなら、それはわれわれはそれに値すると神が考えておられるからである。神は小麦から籾殻を取り除きたいのである。他の人々は比較的安楽な境遇にあるのに、あなた自身は厳しい時を過ごしているのを見い出すとき、ただこう考えよ。おそらく、彼らには試練を受ける価値はないのだが、神はあなたの中にその類の試練によって発達させられるものをご覧になっているのである。それは発達・成形可能なものである。成形・切削・研磨によってのみ美しくなるダイヤモンドのようである。

悪魔がわれわれを狙うとき、それは悪魔がわれわれを得ていないからである。だから、悪魔の足や角の音を聞く時、下を見てゴミを拾う代わりに、悪魔がわれわれを得ていないことを神に感謝すべきである。悪魔は獲得済みの人々を狙ったりしない。肉的安全の揺りかごの中に寝かせておく。悪魔はアヘンを投与して彼らを眠らせ、その良心を麻痺させる。だから、彼らは奮い立って回心しないのである。悪魔が自分の使いの全団と共に狙う人々は、その爪から救われて解放された人々である。だから、悪魔は彼らをもう一度捕獲したいのである。

だから、試練はわれわれの価値を証明する――われわれが何者なのかを示す――試み、反対、厳しい試練の時の行動の仕方から、われわれが何に耐えられるのかが分かるからである。高い圧力の下でも大丈夫なら、順調な時も大丈夫である。しかし、諸君、順調な時は大丈夫でも、強い北風の中では大丈夫ではないかもしれない。神はわれわれの鋼索の強さをわれわれに知らしめるために、時として激しい強風を送られる。神はシオンの昔ながらの船が航行に適していることをわれわれに見させるために、時としてわれわれを嵐に翻弄させられる。神は時として、われわれを狙う敵をその全軍勢と共に遣わされる。それは、その上に足を下ろして安全に感じられるものをわれわれが持っていることを、われわれが知解できるようになるためである。これによりわれわれは勇気、強い確信、霊の大胆さと勇気を得る。そのおかげで、極めて恐ろしい姿をした死をものともせずに、神のために戦場を突き進めるのである。

また、反対、困難、試練は、われわれの魂のまどろんでいる機能を目覚めさせ、われわれの内にある最善のものを発達させてくれるので価値がある。もしわれわれに潜在的な力があるなら、もし未発達の機能があるなら、それらのものが発達させられるようわれわれは望むべきである。人生の行程から察するに、神はご自身の民に対して、抑圧を信仰と聖なる働きへの刺激剤とされたように思われる。神は抑圧により、われわれの内にある最善のものを目覚めさせて、人の内にある最も強力な資質を完全に活動させられる。父の古時計の重りが、時計を動かし続けた。重り、重荷、困難のおかげで、われわれは進み続ける。神はわれわれの帆を広げて、強風の中でも航海できるようにしてくれる。われわれの帆は逆風を一杯に受けて、われわれは船首を風に向けて進む。そして、極めて強力な反対に直面しつつ、われわれは勝利へと突き進むのである。

二人の人が困難に直面した。一人は「この山のせいで先に進めない」と言って屈服した。もう一人は「この山は登るためのものである」と言って頂上に登り、遥か遠くの土地を見渡した。神の意図は、われわれに反対するものがみな踏み石に変わることである。われわれが困難を乗り越えることである。反対を受ける時、あなたは戦車に乗り込んで、柔らかいクッションに座り、おとなしくせよ。そうするなら、下僕が扉を開けてあなたを外に出す時、自分が高い地点にいること、体が大きくなって服が着れなくなっていることに、あなたは気づくのである!しかし、もしあなたがその戦車の車輪の下に落ち込むなら、車輪はあなたを押しつぶして痛めつけ、あなたは打ち負かされる。

愛する人よ、乗り込もうではないか。われわれに反対するすべてのものを乗り越えようではないか。われわれに臨むことを神が許されるものはみな、われわれがその山頂から別の山頂に登って勝利へと突き進むためのものであると見なそうではないか。古代パルティア人は、殺した敵の力がことごとく直ちに自分のものになると信じていた。だから、征服した困難から受けるべき力を受け取って、それをわれわれのものにしようではないか。それは、われわれが小人ではなく巨人になるためである。

決して屈服してはいけない。決して一時的敗北さえも喫してはいけない。この瞬間から、雲が分かれてイエスが来られるまで、われわれは勝利し続けなければならない。神は容易に手が届く所に永続的勝利のための条件を備えて下さった。だから、われわれは台所にいても居間にいても、スラムにいても上流階級にいても、毎瞬勝利することができる。われわれは神のために至る所で勝利を得ることができる。ただしそれは、われわれが神に信頼して、備えられている利用可能な資源を用いさえすればの話である。決して恥じたり、混乱したり、困惑したりする必要はない。「主に信頼する人々は決して困惑させられることはない」。ハレルヤ!

また、愛する人よ、われわれの敵や困難や反対の意図は僕となることである。カナンの巨人はイスラエルの糧となるためだった。神は巨人を糧に変えるすべを持っておられた。そうであるからには、われわれのすべての敵、反対、困難を、われわれを助けてくれる友人に変える力を神は持っておられる。イスラエルは束縛から解かれて「ペリシテ人の肩に乗って」故郷に帰る、と預言者は言った。ペリシテ人はイスラエルの敵だった。イスラエルはペリシテ人を乗用馬に変え、それに乗って故郷に帰った。そうであるからには、われわれは困難や反対を乗りこなし、われわれに立ち向かうものをすべて僕にできるにちがいない。悪魔さえも捕まえて、悪魔に自滅用の武器を造らせ、悪魔のいかづちをその頭上に降りかからせることができるにちがいない。そして、イエス・キリストによりわれわれはこの世、肉、悪魔に打ち勝つことを、悪魔に悟らせることができるにちがいない。

われわれは勝利のうちに自分の棺桶の上に立ち、自分の羽で羽ばたくべきである。そして、われわれはイエス・キリストにより圧倒的な勝利者であることをサタンに理解させるべきである。ああ、何たる臆病さ!ああ、何たる卑屈さ!ああ、何たるもたれよう!ああ、何とめそめそした、ひ弱な類のキリスト教!神がわれわれをあわれんで下さいますように!今日必要なのは赤子ではなく兵士である。臆病者ではなく英雄である。入院している人々ではなく――そのような人は十分にいる――進んで前線に行く人々である。前線に行って神のために最善を尽くさない限り決して満足しない熱血漢を、天の神がわれわれに送って下さいますように!

われわれの中には僕を雇ったことのない人もいる。しかし、われわれは敵を僕に変えることができる。僕を雇うことはできないが、巨人をビスケットに変えて、われわれを害しようとした人々を餌食にすることができる。私に対して極悪なことを企んだ人々が、私に最大の祝福となった人々だった。私の最大の敵の中には、私の最大の恩人になった人々もいる。人々はそうするつもりはなかったのだが、私を祝福して助けてくれたのである。後になって、彼らはできるものならそれを取り返したいと思ったことだろう。

敵はわれわれの味方であることを、われわれは理解するべきである。なぜなら、「神がわれわれの味方なら、誰がわれわれに敵対しえようか?」。神がわれわれの味方なら、万人がわれわれの味方であり、万事がわれわれの味方である。そして、「主を愛する人には万事が共に働いて益となる」。また、「この軽い艱難はわれわれのために働いて、遥かに卓越した永遠の重い栄光をわれわれにもたらす。われわれは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」。どうか神が、見えるものに対してわれわれの目を閉ざし、見えないものに対してわれわれの目を開いて下さいますように。王の麗しさと遥か彼方の故国を見ようではないか。

次に、他の人々が辛い時を過ごしている時でも、われわれは楽しい時を過ごすようになる。この地点に達する時、あなたは自分を蹴飛ばす人に恩義めいたものすら感じるようになる。私はしばしば蹴飛ばされてきたが、振り返って「ありがとう」と言ってきた。私を大いに祝福してくれたのである。致し方ないことである。私を助けてくれるすべての人に、私は恩を感じる。人が全く聖められて聖霊に満たされる時、人々はその人を蹴飛ばすかもしれないが、それはフットボールを蹴る以上の影響をその人に与えない。もちろん、ボールが対応するには数瞬必要だし、聖められた人でも蹴られればそれを感じる。われわれは人々から感覚を取り去る聖潔を宣べ伝えているのではない。聖められた人でも対応するのに数瞬必要だが、次の人に対応する用意がすぐに整う。十分な救いを受けている人々は、蹴飛ばされ、平手打ちされ、虐待されても、常に上機嫌である。なぜなら、蹴飛ばされ、平手打ちされるたびに、彼らの内にある良いものが発達して、さらに優った所にふさわしい者となるからである。

ささやかな迫害を恐れるこの恐れから、神がわれわれを救って下さいますように。われわれのキリスト教はあまりにも弱々しくて繊細な類のものなので、何の役にも立たない。あまりにも病んでいて、戦いの役に立たない。あまりにも女々しくて、公の場に適さない。あまりにも神経質でめそめそしており、喜ばせるのが難しい。また、神のために何事をなすのにも、あまりにも多くの注目と、弁解と、言い訳を必要とする。聖潔運動の渦中にある場所を訪れても、戦う準備が出来ていて、戦争のために意気揚々と歩いている人は、聖潔の民の中に十人に一人もいない。戦いが終わったと思うと、たいていの人は安堵の吐息をつく。しかし神は、戦いを要求する思いを私の中に吹き込んで下さった。だから、戦いがある所に生きられないなら、戦いを生じさせることを私はするだろう。もし何かを引き起こすとしたら、私は戦いを引き起こす。シオンで安楽に過ごしている民は、停滞と滅びという特徴をますます帯びるようになることがわかる。神がわれわれを助けて、この種のキリスト教からわれわれを救って下さいますように。そして、実際の戦争の圧力に耐えうるものをわれわれに与えて下さいますように。困難や反対には、われわれの価値を実証し、神のためのわれわれの働きに役立つわれわれの最善の資質を発達させる効力があるだけでなく、神の資源を用いるようわれわれを駆り立てる効力がある。閉ざされた場所に入る時こそ、天の銀行から大金を引き出す時である。壁に押しつけられる時こそ、五十万ドルの小切手に署名して、天の窓に顔をしっかりと向け、出納係なる御方が私に注意してくれるまでそこにとどまる時である。パウロが言うように「耐えられないほど圧迫されて」いる時こそ、天の資源を最大限に引き出す時である。われわれが大いに引き出すことほど、神が喜ばれることはない。それは、われわれが事業全体の総裁である神に信頼していることを証明する。われわれは王国の無尽蔵の富に信頼する。そこで何が起きても恐れない。ただ大いに引き出すだけである。

過去数ヶ月の間、私は為替手形をいくつか振り出すことを余儀なくされた。振り出すことになるとは夢にも思っていなかった手形である。しかし、ここで今晩、あなたたちに告白しなければならない。手形が速やかに決済されなかった件で、私はこれまで天の銀行に支払いを一度も要求してこなかったのである。神の倉庫はすぐそこにあって、信仰の人が叩くのを待っている。勇敢に神を信じる人は、たちまち貧しい乞食から億万長者になる。そして、信仰のペンをさっと走らせることで、永遠の富を十分に活用して、天の貴族階級に仲間入りする。私はボストンの四百人に属するよりは、むしろ天の貴族に属したい。この世の差し出すものをすべて得るよりは、天の選民の一人になりたい。

われわれの救いは大いに素晴らしく、壮大で、驚異的である。そのため、それに文句を言った人はいまだかつて誰もいない。全世界が一度に救われたとしても、天の天使や大天使は余裕である。神がわれわれを目覚めさせて下さいますように。神がわれわれを今の状態からさらに優った状態にもたらさなければならない時でも、私は「アーメン」と言う。母鳥の鷹が子供の鷹に飛ぶことを教えたい時、母鳥は巣を掻き乱す。頻繁に綿を取り出して刺を残す。時としてそれが効を奏さないこともあり、大怠け者の若鳥は巣にとどまることを欲する。母鳥は羽ばたいて外に出て模範を示し、若鳥たちに勧め、飛ぶことを試みるよう懇願する。その後、母鳥が巣を引き裂いて、若鳥たちに行動を促すことも珍しくない。もちろん、母鳥は母親としての情を持っていて、若鳥が飛んで落ち始めると、いつでも羽をその下に広げるのである。

母鳥の鷹が巣を引き裂いて綿を取り出すのは、あわれみによる。鳥が巣の中にとどまるのを許されるなら、何の役にも立たなくなり、羽も無駄になることを母鳥は知っているのである。教会の中には、巣の中で座り込んでいる人々が大勢いる。彼らは完全に麻痺していて、ほとんど頭と胃袋で出来ている。神が巣を掻き乱すようなことを送らない限り、彼らは決して飛ぶことができない。多くの時、あなたが最も恐れたことは、神があなたを優った場所にもたらすためにあなたの巣を掻き乱すことだったのである。近頃、不穏な状況を感じるが、勇気を出して、私のために何か優ったものが用意されていることを神に感謝することを私は学んだ。

神の御言葉を読むと、ダビデが王として立てられた時、ペリシテ人が彼を攻撃しにやって来た出来事が記されている。ダビデが王になる前は、ペリシテ人はダビデを攻撃しにやって来なかった。なぜか?ダビデは攻撃に値しなかったからである。しかし、彼が王として立てられるやいなや、ペリシテ人は彼を狙ったのである。ペリシテ人がわれわれの周りで轟音を立て、ヅカヅカと歩き回り、吠え猛るのを耳にする時――それはわれわれがまさに昇進しようとしているのを彼らが聞いたからであると、どうしてわれわれは考えないのか?どうしてわれわれは物事の好ましい面を見ないのか?また、神はわれわれを優った場所、潤った場所、肥沃な場所にもたらそうとしておられると、どうして考えないのか。そこでは干上がることは決してないのである。

決して干上がらない場所に入ることは、われわれに対する大いなる祝福であると私は思う。私はこれまで多くの干上がった教会を訪問してきた。だから、潤った場所に行くのはとても嬉しい。私は天からの火を祈り求めて、最近の冷たい多くの教会を目覚めさせなければならない。「完全な救い、人々に涙を流させる完全な救いのリバイバルを与えて下さい」と、私は神に祈っている。「教会は後退し、罪人は群れをなして地獄に行こうとしています。この事実のために流す涙を与えて下さい」と、私は神に祈っている。あなたや私が信じているように、もし人々が地獄に行こうとしているのなら、われわれはそれについて何か言わなければならない。私は地獄の燃えさかる門のところまで罪人たちを追いかけて行き、彼らが中に入ることに抗議するつもりである。神は燃えさかる門から魂を連れ戻して獲得し、彼らを神の軍隊の中に植え付けておられる。

われわれが中に入って、臆病者になったり、めそめそしたり、作り笑いをしたりする代わりに、神に対して真実になるなら、本当に途方もない可能性が拓かれる。聖霊と火のバプテスマによって人々が全く聖められる時、人々はマンネリから抜け出して修理屋から去るようになる。どっちつかずの状態を脱して、悪魔の全軍勢の中を突き進むのに十分な原動力を持つようになる。この力を持たない人は、これを経験していない。私はあなたたちに言いたい。いま話しているこの輝かしい経験を真に経験した人々は、地も地獄も恐れない人々である。一万の悪魔どもも恐れないのである。

この国の聖潔の民を止めることはできない。彼らは至る所で命をかけている。何もしないでいるよりは、むしろ死ぬことを望んでいるからである。何もしないよりは、むしろ宣べ伝えることを望んでいるからである。彼らはこの世で安楽な時を過ごすよりも、むしろ神の御子と共に苦しむことを望んでいる。この世が差し出すものをすべて得ることよりも、むしろ自分に臨む非難にあずかることを望んでいる。この罪深い時代に安楽な時を過ごしている人々は、裁きのときに辛い時を迎えるだろう。この世が地獄に落ちつつあるのに何もしないで座っているなら、かの日狼狽に満たされるだろう。あなたが良しとしてくれるなら、私は今、辛い時を迎えたいのである。今、消耗したいのである。力があるうちに、行って神に仕えたいのである。割れるような頭痛がする時に、宣べ伝えたいのである。だが、決して安楽に座り込みたくない。決して自己憐憫に耽りたくない。決して自分を憐れんだりしたくない。「自分は辛い時を迎えている」等と決して早合点したくない。「後方に下がってもいいですか?」等と決して求めたくない。「私を前線に遣わしてそこにとどまらせて下さい」と私は神に求めている。愛する人よ、前線にいかなる勝利、成功、輝かしい征服があるのか知ってさえいれば、われわれは全員前線に行くことを望んだであろう。

キューバにおける最近の戦争で戦ったラフ・ライダーに所属していたトマスは、致命傷を負って毛布の上に横たわっていた。彼の仲間たちはその毛布を持って、彼を向こうの日陰に移そうとした。すると、彼は立ち上がってこう言ったのである、「自分を前線に運ぼうとしているんですよね?前線に運んで下さい。連中は私の隊長を殺した。前線に運んで下さい!」。そこで、仲間たちはいくつもの岩石を越え、茨を突き進んで彼を運んだ。通った後には血の筋が残されたが、彼は「前線に向かえ!」と叫び、遂に意識を失って死亡したのだった。

「スクリブナー・マガジン」でこの記事を読んだ時、私は言った。「一介のラフ・ライダーが祖国のためにこのような行為をすることができたからには、今はクリスチャンたちが自分の痛みや試練を忘れる時である。今は自己憐憫をやめる時である。今は自分の苦しさを忘れて、『前線に向かえ!』と叫び、敵を塵の中に踏みにじって、敵の土塁のてっぺんに血に染まった神の御子の旗を立てる時である」と。神は私の中から臆病な血を最後の一滴まで取り去って下さった、と私は慎んで信じている。もし臆病な血が一滴でも残っているのが分かれば、私は血管を切り開いてその血を取り出す。いつまでたってもへつらい、駄々をこね、お世辞を言い、人々に迎合し、諸教会に迎合し、牧師たちに迎合し、長老たちや司祭たちに迎合し、金持ちや背高帽をかぶった人や白ネクタイをした人に迎合しているとは、なんたることか!神がわれわれを憐れんで下さいますように。諸君、教会やこの世がわれわれに与えうるあらゆる賛辞よりも、神の御子の微笑みのために尽くすようになる時が来るだろう。

「あなたは人々にわれわれの頭の上を乗り越えさせられた。われわれは火の中、水の中を通った。しかし、あなたはわれわれを豊かな所、潤った所に導き出された」。締めくくりに注目したいのは、この御言葉が述べている二つの要素は自然界の中で最も恐ろしくて破壊的な二つの要素――火と水――だということである。神は人を火の中、水の中でもくぐり抜けさせることができる。そうである以上、神は地獄の門の此岸のどこでもわれわれを保つことができる。われわれは勇敢に神を信じる。何が来ようと関係ない。火や水の及ぼす影響はただ、われわれを潤った所に導き出すことだけである。その所で、かつて以上にわれわれは喜ぶのである。

しかし、聖霊によるバプテスマによって全く聖められない限り、決してこの経験を知ることはできない。なぜなら、これだけがわれわれを肉的な性質から解放して、全能なる神に対して絶対的に忠実な者にするからである。だから、今晩話したようなクリスチャンになりたければ、この第二の祝福、このペンテコステ、聖霊によるこのバプテスマを求めて見い出さなければならない。臆病者になりたくない人、臆病さから徹底的に解放されたい人、「十字架の兵士と小羊に従う者」になりたい人、神の御子のために生死をかける覚悟のある忠誠心のあつい人になりたい人が、今晩この聴衆の中に大勢いると私は信じる。この幸いなバプテスマを受けるなら、われわれはみなこのような人になれる。いかなる代価を払っても「勇敢に突き進む決意」を持って歩む覚悟のある人は、今晩ここに何人いるだろうか?

オハイオ州シンシナティでの説教、一八九八年十一月三十日