第二章 イエス・キリストの良き兵士

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 十三巻―― 一九三三年六月二十二日 ―― 二十五号

一九三一年九月三十日に、南部地区集会で、セス・C・リースによってなされた叙任式の説教

二テモテ二・三「それゆえ、あなたはイエス・キリストの良き兵士として困難を耐え忍びなさい。」

「兵士」という言葉は訓練と鍛錬、権威への服従を意味するだけでなく、難問、反対、困難、試練、征服をも意味する。それは荒野を通る長く退屈な行軍の形を取るかもしれない。要塞での重労働かもしれない。食糧不足かもしれない。辛い道を意味するかもしれない――しかし、この働きは安楽、贅沢、豊かさとは全く無縁である。

この御言葉の著者は老兵だった。あなたも気づいているはずだが、彼は軍隊の言葉や絵図を度々用いる。それは、次のことをわれわれに印象づけるため、永遠に残る印象を与えるためである。すなわち、われわれの召しは何か本質的なもの、何か最も重要なものへの召しなのである。それで彼は「良い」「良い兵士」という言葉を、兵役忌避者、脱走兵、臆病者と対比的に用いているのである。

良い兵士は決して不平を鳴らさない。どんな命令にも従わなければならない。良い兵士は、自分の個人的好みに関係なく、上官の権威を認める。

あなたが今朝ここにいるのは、ピルグリム・ホーリネス教会のクリスチャン奉仕者の候補者としてである。われわれがあなたに与えるのは、一つの機会にすぎない。占領していない領域は広大である。兵士としての忠誠を証明する機会が欲しければ、われわれがその機会を与えることができると思う。しかし、結果を考えずに、安楽、快楽、豊かさが欲しければ、今やめることを勧める。

いと高き神の僕として、私はあなたたちに言う。あなたは職業を選んだのではない。これは法律、医学、他のいかなる職業とも似ていない。あなたは召されているはずであり、もしあなたがイエス・キリストの福音を宣べ伝えるよう神から召されているなら、あなたの奉仕によってそれが証明されるだろう。もしあなたの奉仕があなたの召しを実証できないなら、あなたの召しは偽物にちがいない。なぜなら、この聖戦の神は誰かを敗北に召すことは決してされないからである。備えは整っており、われわれが成功するのに十分である。ウェブスターが言うには、成功とは「事業の目的を立派に成し遂げること」である。

あなたの事業の目的は、第一に、イエス・キリストによる神のメッセージを人々に伝えることである。これがすべてである。あなたは魂を勝ち取るよう召されている。「私に従いなさい。あなたたちを人をとる漁師にしてあげよう」。「恐れてはならない、今から後、あなたたちは人をすなどるようになる」。さて、一年中魚釣りをしても何もとれない、と決めつけてはならない。二十匹以上取るべきであり、百匹取るべきである。「今から後、あなたたちは人をすなどるようになる」。私はこの事実をあなたたちに印象づけたい。

良い兵士は正装行列、軍服、見せ物以上のものに召されている。あなたたちは結果を出すよう召されている。奉仕の結果を間違いなく出すよう召されている。イエス・キリストはこの世、肉、悪魔を征服して、「あなたたちの中におられる方は、この世の中にいる者よりも偉大だからである」と宣言された。「私は決してあなたを離れず、あなたを見捨てない」と彼は宣言された。そして、この力は聖霊のバプテスマによって与えられる。あなたたちは、「私は聖書的な回心をして、その後、まったく聖められて、説教するよう召されました」と言って、われわれのところに来る。もしこれに関して何か疑いがあったなら、われわれはあなたたちの上に按手しようとしなかっただろう。私はあなたたちに触れようとしなかっただろう。しかし、われわれは確信しているし、知っている。資源に関する限り、失敗の余地はない。あなたの指揮官の剣は、挫折した目的という墓の上に掲げられることはない。われわれが出て行くのは敗北するためではない。われわれはここでもどこでも勝算がある。「神以外の」多くの者たちがわれわれに反対するかもしれない。「この戦いはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである」。神は撤退を命じたことは一度もない。敗北を被ったことは一度もない。もし神と歩調を合わせて進み続けるなら、あなたは膨大な余力を残しつつ、生ける勝利者、征服者となるだろう。

私はあなたたちに道徳規範――あなたのクリスチャンとしての行動――について命じる。まず第一に、現世の問題について、借金を拒絶せよ――借金を拒絶せよ。借金しなければ、払うべき借金はないだろう。われわれの奉仕者の多くは、借金を抱えているせいで束縛されている。束縛されているだけでなく、狼狽している。「生きなければならない」と彼らは言う。これは間違いである。あなたは生きる必要はない。われわれは命を守っているのではないし、あなたに生きる必要はないことを承知している。飢えることは罪ではないことを承知している。飢えることは何も問題ではない。私はここにいる人たちのためだけに話しているのではない。その他の人にも聞いて欲しい。借金を払う方法が分からないと、あなたたちはそう考える言い訳をして、そのような思いの中に入ってしまう。「そうだ、私の家族は生きなければならない」。生きる必要はないのである。長生きする必要はないのである。イエスが来られない限り、彼らはすぐに死ぬだろう。われわれの言葉遣いの中に馬鹿げた表現がたくさん入り込んでしまっている。

われわれはまっすぐ進まなければならない。自分の勘定を払わなければならない。一ドルに対して百セント払わなければならない。また、クリスチャンとしての品位を保つために、期日通りに支払うか、申し分の無い手配をしなければならない。借金を抱えていて、債権者からの手紙に答えようとしない説教者たちをわれわれは知っている。「骨しゃぶり」を自称する人々を私は知っている。彼らはあまりにもしみったれた説教をして、骨をしゃぶるほどである。私の意見では、連中は殺す価値もない。私は彼らに私の骨をしゃぶってほしくない。借金してはならない。経済的困窮に陥ってはならない。天の株式会社以外のいかなる株も買ってはならない。聖潔の人々は、財を築けそうな何か華々しいものを売り出して、膨大な浄財を浪費してきた。鉱山株で金儲けした多くの人々を私は知っている。われわれは投機してはならない。富むことを願って株や債権を扱ってはならない。この宇宙でわれわれを豊かにしてくれる唯一のものはキリストの富――「キリストの測り知れない富」――である。

私はあなたたちに命じる。異性に対する振る舞い、異性の前での振る舞いに注意せよ。社交的でないと見なされる方がよっぽどましである。私はこれまで何度もそう言われてきた。私は社交的ではない。私は「人付き合いが上手」ではない。あなたたち兄弟たちよ、女性に触れてはならない。女性とあまり長く握手してはならない。既婚であれ未婚であれ、行儀良く振る舞うべきである。

この地区はあなたたちを信任しようとしている。この信任は財産や金銭上の信任よりも大きな価値がある。財産や金銭上の信任を裏切る人にいかなる罰が科せられるのか、あなたたちは良く知っている。この信任はさらに重大なものなので、罰も大きくならざるをえない。あなたたちがいつでもどこでも誠実であると、この地区は信用する。あなたの人生に法律的に正当な嫌疑がかかるほど、あなたがわれわれの信用を裏切ることがあれば、あなたは資格を返上するべきである。また、私に関する限り、福音を宣べ伝える者たちが自分に委ねられた信用を裏切るなら、彼らは資格を失うべきだし、私は彼らをこの世界に決して戻らせない。私は彼らを赦し、彼らを天に入れて下さるよう神に祈る。しかし、聖潔の旗をわざと塵の中で引きずって、不適切な振る舞いで聖なる教会の顔に泥を塗るようないかなる男女も、私は決して二度と信用しない。イエス・キリストの王国の権益に比べたら、個人的友情など私には無に等しい。最も大切な友情といえども、私にとっては一オンスの値打ちもない。持ちうる最も大切な関係――兄弟、姉妹、父、母も、イエス・キリストの王国についての私の関心と、あなたや私のために苦しんで死んで下さったキリストを敬う私の気持ちに比べたら、一オンスの値打ちもない。

善良に行儀良く振る舞え。この人たちについては以上である。さて、私はあなたたちの残りの者に向かうことにする。この人たちと交わりを持つことになるはずの奉仕者たち、長くこの道を歩んできたと思われる奉仕者たちよ、この人たちに対するあなたたちの姿勢によって、この人たちの内に逞しい性格や忍耐力が育まれるのである。

さて、平信徒たちよ、私はあなたたちに命じる。彼らに温かい手と熱烈な愛情を与えて、彼らに知らせよ。彼らが真っ直ぐ進んで清くある限り、あなたたちは彼らの友であることを。また、彼らが倒れる時、彼らはあなたたちと共に倒れることを。一般的な諸々の原則に基づいて私はこれを言いたい。務めが適切に顧みられているかどうか注意することに、平信徒はもっと関心を抱くべきである。彼らがどんな目に遭うかはあまり大したことではないし、彼らは辛い目に遭うだろうが、あなたたちは彼らのために何かするべきである。そうするなら、花束が彼らを殺すことはないだろう。彼らが生きている間にそうすることの方が、彼らの棺の上に花を乗せて車を一杯にするよりも、彼らにはありがたいだろう。私は依然として信じているが、われわれは終わりの時代におり、イエスがいつ来られてもおかしくない。主の来臨を阻む、まだ成就されていない預言があるとは私は信じない。主を待ち望めと主は私に言われた。主が五年間来られないことを知っていたなら、私はその五年のあいだ主を待ち望まなかっただろう。しかし、主がいつ来られてもおかしくないことを私は心から信じる。これは私を助けて常に主に対して正しくあらせてくれるだけでなく、試練の時の大きな救いである。何度も私は大きな悲しみの中で、あるいは厚い雲と暗闇の中で床についた。そして、眠りに落ちる寸前に言うことといえば、「多分主は今晩来られ、この問題は過ぎ去るだろう」だった。起きたとき主がおられなかったら、私は何と言っただろうか?「まあ、主は来られなかったが、昼までに来られるかもしれない」。これは状況を大いに楽にしてくれるので、「自分は百年、一時間、一ヶ月生きながらえる必要はない」とあなたは考えるようになる。あなたはただ次のことを確信する。すなわち、主は夜になる前に戻って来られるのであり、主が今日戻って来られるなら、明日のことを思い煩っても仕方ないのである。私は素晴らしい時を過ごしている。大騒ぎしていないが、素晴らしい時を過ごしている。主が証人である。私が「夜歌っていること」を主はご存じである。