第三章 王の便りを伝える使者たち

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 十四巻―― 一九三四年十二月十三日 ―― 五十号

「私はまた主の言われる声を聞いた、『私は誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろうか?』」

この節で宇宙の神が求めておられるのは大使たち、絶望的なほど堕落して失われている世界に王の便りを喜んで伝える任命された使者たちである。これほど偉大な素晴らしい御方が、ご自分の偉大な働きを助けてもらうために人にお願いするとは、たとえようもないほど奇妙なことである。奇妙ではあるが、神は身を低くして勧誘し、その嘆願の根拠を示して下さる。神は世界の福音化を求めておられる。われわれは国外宣教や国内宣教について話すが、神は決してそうされない。神の福音は失われた世界のためなのである。

第一に、神の最初の訴えは感謝の気持ちに訴えるものであることに注意せよ。われわれは感謝してしかるべきだし、福音がわれわれのためにしてくれたすべてのことのゆえに、深く感動してしかるべきである。この確かな根拠に基づく嘆願は、われわれを徹底的に刺し貫くべきである。兄弟よ、今日あなたが森の中にいない理由、裸の未開人、人肉を食らう食人族でない理由は何か?可能な唯一の答えは、パウロとバルナバがマケドニア人の招きを聞いて、はるばる太古のイギリスやドイツに行って、われわれの祖先たちが住んでいた新大陸にキリストの福音を植え付けてくれたことである。

不信心なアメリカの旅行者、学識ある愚か者がフィジー諸島を訪問した。そして、現地の一人のクリスチャンと会話して、神を礼拝するために大勢集まる彼らの熱心さをからかった。彼は言った、「アメリカやヨーロッパでは、われわれはこんな時代遅れの教えを後にしました。そんなのは時代遅れです」。現地人はある岩を指さして言った、「あの岩が見えますか?その横にあるかまどが見えますか?あなたはご存じないのでしょうか?もし福音がなければ、われわれはとうの昔にあの岩の上であなたを殺し、あのかまどの中であなたを焼いていたでしょう」。これが福音がわれわれのためにしてくれたことである。今日、数千の人が、自分たちが飲んできたこの水路を、恩知らずな足で汚しているのである。

第二に、神の第二の訴えは人類に対する、苦しむ同胞たちに対するわれわれの愛に基づく。あまりにも文明化されているこの時代はそれを利他主義、他人を思いやる気持ちと呼ぶ。しかし、神はこれを愛と呼ばれる。これは福音の核心である。これは戦場の兵士、危険の中にある消防士、溺れている人を救う船員、歴史を築く男女を元気づける。もし人類に対する愛を少しでも持ち合わせているなら、コンゴのゴム商人のあわれな傷ついた被害者たちの訴えに感銘を受けるはずである。福音が彼らを救う唯一のものである。東洋の地のすさんだ子供たちや軽蔑されている女性たちを思いやるべきである。希望の歌の代わりに悲しみの哀歌を歌って自分の赤ん坊を寝かしつける、ボリビアの哀れなインド人女性を思いやるべきである。

第三に、福音は常識に訴えるものでなければならない。損得に関する商取引として、地上にこれに比肩する投資は他にない。ジョン・ワナメーカーは年をとってから異教世界を訪問し、「私は吐きそうになり、若い時にこれを知っていれば良かったのにと思った」と述べた。彼はこの旅で得た知識により、この古い世界の代わりに宣教の働きに投資するようになったのである。

偉大な探検家であるヘンリー・スタンレーは、「宣教の成果は奇跡以外のなにものでもなかった」と言った。シャフツベリーのアールは、「アメリカ人の外国宣教の働きは比類ないものである」と言った。アルフレッド・ラッセル・ワレスは自由主義的思想を持つ科学者と見なされているが、「宣教士たちは南洋諸島での働きを大いに誇ることができる。四十年前この国は荒野だった。また、人々は裸で、自分の家を人骨で飾る野蛮人だった。だが今はまさしくエデンの園なのである」と述べた。

第四に、福音は人の心の最も気高い願望に訴える。ウガンダのタッカー司教はハニントン司教に続いて殉教した貴人だが、この福音をもたらしてアフリカ人の心を変えた。野蛮な酋長のムワンガは、彼の忌まわしい情欲に応じない幼い少年たちを火あぶりにした。今日、その場所には世界で最も大きな教会の一つが立っており、五千人の回心者で混み合っている。また、その土地の全域で、数百の教会堂がクリスチャンで満たされている。あの暗黒の土地で、数万人のクリスチャンがわれわれの福音の歌を歌っているのである。

タッカー司教はロンドンの芸術家で、彼が「荒廃」と名づけた一枚の絵を描いて有名になった。それは父無し子を引きずってロンドンの通りを行く、一人の哀れなロンドンの少女の絵だった。その顔は涙で腫れ、その光景全体は星も光もない夜よりも暗かった。しかし、この絵が協会に飾られて、彼の世界的名声が不動のものになった時、神は彼に語りかけて、「悲しみ苦しんでいる人たちを救うことの方が、それを画布の上に描くことよりも優っているのではないでしょうか」と尋ねられた。彼は神に立ち返り、最暗黒のロンドンに行って、この大都市のスラムに飛び込んだ。ハニントン司教の後任が募集された時、タッカーは「もしそこがロンドンよりも暗い所なら、私が行きます」と言った。

第五に、この偉大な章が訴える訴えの中で最も強力な訴えは、われわれの前を進んで道を導いて下さる開拓者キリストの訴えである。あなたはスコットランドのある軍隊の物語を読んだことがあるだろう。連隊が動揺していた時のことである。その隊長はロバート・ブルースの心臓を収めた壺を取って、第一軍の遥か前方にそれを放った。敵軍の中にまで放ったのである。そして振り向いて叫んだ、「諸君、ブルースの心臓はあそこである。それは諸君の前に行った。彼を愛する者は続け」。その効果は目覚ましかった。全軍がこれに応じて敵に飛びかかり、ブルースの心臓を救って、戦いを勝利に導いたのである。

それゆえ、イエスの心臓はわれわれの前を進んで、敵軍の中にある。あなたは彼を愛しているか?われわれはこの真実な心に従って行って勝利するか?あなたたちの数人の前で、イエスの心臓はスラムへと下って導いている。それはあなたたちの前で暗い異教国へと進んで行った。それはあなたたちの前でこの国の極めて激しい戦いの前線へと進んで行った。そこでわれわれは高き所にある霊的悪と戦っている。それがこの国の聖潔の指導者たちを獲得することができるとは私は信じない(注)。ああ、愛する人よ、この前線に駆け参じてこの戦いに勝利しないなら、われわれは永遠の後悔と恥を被るだろう。

編者注: セス・リースのこの文章はいささか曖昧である。彼はこう言っているように思われる。イエスの心臓はこの霊的戦いの極めて激しい前線に進むようクリスチャン兵士たちを召しているが、聖潔の指導者たちの中にはこの召しに応じようとする者が誰もいない――イエスの心臓は彼らを獲得できず、彼らをその所に導けなかったのである――もし本当なら、厳粛な訴えである。