第四章 前進せよ――前進せよ!

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 十五巻―― 一九三五年二月七日 ―― 五号

ヨルダン川を渡って歌を歌うことと、叫んでエリコの壁を崩し、アイでアカンを石打ちにして殺し、前進して良き地をすべて獲得することとは、まったく別の事柄である。ヨシュアがイスラエルに前進を命じた時、その土地はすでに制圧されていたと言える。南部諸族はベテホロンで征服され、北方諸王国はメロム川で打ち破られ、三十一人の王たちの首は刎ねられてその体は彼らの足下に横たわっていた。また、三十一の要塞を彼らはしっかりと掌握していた。しかし、所有すべきものがまだたくさんあったのである。また、自分に割り当てられた嗣業を獲得すべき個々の部族に関しては、彼らがあまりにもたるんでいたため、「あなたたちはいつまでくずぐずしていて、あなたたちの父である主なる神があなたたちに賜った土地を獲得しに行かないのか」とヨシュアは檄を飛ばさなければならなかった。

キリスト教会は何ともたもたしていて、世界を福音化して全土を獲得することに無様にも失敗してきたことか。教会が外国の地で信仰を告白する三百万の回心者たちを得る間に、異教徒は二千万人増えているのである。教会が世界を救うのに、どれほど長くかかるのか?十九世紀もたったのに、世界の三分の二はキリストを知らず、十分の九は救われていないのである。

個人的経験に関して、昔ながらの敬虔さと使徒的生活とに立ち返るには、獲得すべきものがたくさんあることは確かである。聖化は瞬時的なものであるだけでなく漸進的なものでもあることを、多くの人は忘れているようである。聖めを受けることや、生来の罪を粉砕されることは瞬時的であり、聖霊がその宮に臨まれるのは突然である。しかし、生活の中でその効果が現れるのは漸進的である。聖化は終わりではなく、勝利の生活の始まりにすぎない。前進して主の幸いな御旨を知るとき、あなたは豊かさと言いようのない富の無尽蔵の鉱山を見い出す。主はその癒しの力についてあなたに告げ、あなたを優しく導いて、主が望んでいるのはあなたに対してすべてのすべてとなることであることを見せて下さる。その後、あなたが主と甘い交わりをしている時、ある日のこと、主は地上に再び戻って来ることを、主はあなたに囁いて下さる。主は御計画を優しくあなたに開いて下さる。そして、あなたが信頼に足ることをご覧になる時、主はあなたを主の奥義に導いて、地上の知者たちが何も知らないことをあなたに示して下さる。主は書き記されていること以上にあなたを賢くするのではなく、あなたに聖書を解き明かして下さる。それで、あなたは素晴らしいものを見い出すのである。

主は艱難の中であなたに新しい喜びの泉を与えて下さる。主はあなたの力を新しくして「力から力へと」進ませて下さる。あなたの信仰は著しく成長し、あなたの愛は冷たくなる代わりに熱くなる。われわれの心は一瞬のうちに清くされるが、時がたつにつれて、われわれの命は主のかたちに同形化される。われわれは純粋で可愛いものを愛してきたが、主がわれわれに望んでおられるのは失われた愛なきものを愛することである。われわれは友人たちを愛してきたが、主がわれわれに望んでおられるのは敵を愛することである。また、われわれは多くの高遠な観念を抱いてきたが、主は思いを遥かに越えたものにわれわれを召しておられる。われわれの小さな貯水池は一杯だが、主はわれわれに土砂降りの雨を降らせて下さる。その雨はさらに大きな水路に押し寄せて、さらに水かさを増す。われわれは多くのものを持っているが、後にあるものを忘れ、前にあるものに向かって身を伸ばさなければならない。あなたは祝福の小さな圏内を往来して自分の霊的私有地を見渡してきたが、目を上げて「遥か彼方の地」を見るよう主はあなたに命じておられる。

祝福の一つの頂に登ると、その向こうに次の頂が見えてくる。進み続けるなら、われわれはアクサの祝福に至る。アクサは結婚する時、父親のカレブに自分の正当な嗣業である南の土地だけでなく、上と下にある泉をも要求した。彼女の土地は南の地で焼け付く太陽の下にあり、燃えるような熱でしばしば干上がった。しかし、山々から冷たい爽やかな水が流れてきて、その土地を肥沃にしたのである。低地の泉が役に立たず、貯水池や湿地が干上がっても、彼女には上と下にある泉があり、その泉は決して枯れなかったのである。

だから、われわれの地的喜びが役に立たず、地的資源は干上がり、この悲しみの低地の泉や貯水池がすべて役に立たなくても、われわれには依然として上なる泉がある。上から流れてくる喜びや祝福があり、酷暑の夏の間、悲しみと試みという荒れ果てた地にも流れるのである。状況がいかなるものでも、われわれは常に上なる泉を見つけることができる。アブラハムはモリヤ山上でも上なる泉を見い出すことができた。モーセはメディアの山々で見い出した。ダビデはジクラグの廃墟で見い出した。ダビデは主にあって奮い立った。ハバククは、イチジクの木が役に立たなかった時、自分の泉を見い出した。彼は雲の彼方から飲み、とうとう歌えるようになった。詩篇作者は最も暗い日に上なる泉を見い出し、とうとう歌えるようになった。その歌を聞け、「一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせる」。パウロとシラスは真夜中にピリピの牢獄の中でそれを見い出した。彼らが歌うと、牢獄の扉が開いた。ジョン・バニヤンはベッドフォードの牢獄でそれを見い出した。メアリー・ダイヤーはボストン公園でそれを見い出した。

確かに、過去の業績に安んじるのは容易である。しかし、祝賀の冠は前進する者たちに与えられる。われわれは自分たちの古い測り縄をすべて越えて身を伸ばさなければならない。神のために最善のことを成し遂げた人々は、すべての境界線を突破したのである。アブラハムは神のために開拓した。ヨナはニネベへの最初の宣教士だった。アウグスチヌスはサクソン人の間で、オスカーはスウェーデンで、ルターは改革の働きにおいて、ミュラーは信仰において、フォックスは深い霊性において、ホィットフィールドは野外説教において、ウェスレーは歌において、カーレイは宣教において、ブースは大衆に関して傑出していた――この人々は昔ながらのワンパターンに安んじることができず、突破して、新しい広い水路を切り開いたのである。しかし、自己を否む宣教士の自己犠牲について、われわれは今日門外漢である。われわれが与えうるものに不足しているせいで他の人々は地獄への道に群がっているというのに、ここに座して安楽にしているどんな権利がわれわれにあるというのか?