第六章 御父の愛

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 十九巻―― 一九三九年四月十三日 ―― 十五号

「父が私を愛しておられるように、私もあなたたちを愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ一五・九)

北極の雪と北の荒海を乗り越えた最も偉大な探検家の一人であるナンセン氏が愛する妻に別れを告げた時、夫の船に名前をつけ終えたばかりの妻は、「さあ行って下さい。神があなたを祝福して下さいますように。私はあなたを大いに愛しているからこそ、あなたを行かせるのです」と言った。何ヶ月も過ぎた。ある日のこと、鳥のつつく音と羽ばたく音が窓辺に聞こえた。妻が窓を開けると、小さな鳩が飛び込んで来た。鳩は家に着いた嬉しさのあまり、妻の手の上でくつろいだ。妻はその翼の下に、無事を告げる夫からの便りが結ばれているのを見つけた。その小さな鳩は北極の広大な雪を横切って、この孤独な婦人に甘い知らせをもたらしたのである。その知らせは彼女の心に臨んだ――人間的観点から見て――かつてないほど甘美な知らせだった。

まさに同じように、純白の天の鳩は広大な空間を横切り、うねりを上げる諸々の時代を突っ切って、今日、このメッセージを携えてわれわれのもとに来て下さった。先の御言葉はわれわれに対する愛の知らせだからである。

個人的にこの知らせを鳩の翼からほどいて、それを自分の心に結びつけたらどうなるだろう?この御言葉の甘美な言葉が、あらゆる過酷な試練、試み、戦い、難局のときに、われわれと共にあるならどうなるだろう。苦難のどん底の中にある時、極めて厳しい長引く試練の中にある時、この短い御言葉の内容を思い出すことを学べたらどうなるだろう?その愛は、状況の如何によらず、あなたの心を感動・興奮させるだろう。この知らせを聞いて、この愛を感じることができれば、われわれの敵が何を言い、どう思うかは些細な事である。

これは素晴らしい知らせである。私がこれから自然に思うのは、イエスに対する神の愛である――御父は御子を愛しておられる。私はここでとても静かに歩まなければならない。永遠の諸々の神秘にまさに直面するからである。ここにわれわれは御父、御子、聖霊を見る。奇妙なことに一であり、さらに奇妙なことに三であって、愛情から発しうる最も真実で、最善で、純粋で、気高いすべてのものをもって、互いに愛し合っておられる。ここにわれわれは御父を見い出す。御父は御子を愛しておられ、「これは私の愛する子、私は彼を喜ぶ」という推薦の言葉を御子に賜った。これはみな説明不可能であって、理解不能なほど神聖であることを、われわれは知らなければならない。

この愛は親族の愛であることに注意しなければならない。これは御子に対する御父の愛だった。何度も何度も新約聖書の中に、「これは私の愛する子である。(中略)彼に聞け」といった、御子に対する神の愛の表現が現れる。われわれの狭く限られた領域においてすら、家族関係、親子の間の愛は何と甘美なことか。たとえ暗い影――過ち、誤解、思い違い――がわれわれの道に降りかかっても、それでも親族の愛情は何と甘く麗しいことか。この強い愛情が人の胸を揺り動かす遥か昔に、御子に対する御父の愛は天の宮廷の中に隠されていたのである。花嫁が花婿を愛する遥か昔に、イエスは御父と聖霊に愛されていたのである。われわれには決して理解できない愛情をもって。

次に気づいたのは、神は絶えず耳を傾けるような愛をもってイエスを愛しておられるということである――神は彼のすべての嘆願を聞いておられ、その叫びに答えられる。御父のイエスに対するこの愛は永遠で神聖なものであるため、御父はその愛するひとり子の叫びを常に聞く用意をしておられた。そして、御父が御子を愛されたように、イエスもわれわれを愛して下さった。だから、愛する仲間のクリスチャンよ、祈ろうとする時、絶えず耳を傾ける愛をもってイエスはあなたを愛しておられることを思い出せ。われわれの不幸話を聞こうとしない人々もいる。彼らはわれわれが来るのにうんざりである。しかし、イエスの愛はご自分の者の哀れな叫びに、至高の天の至高の知恵にしたがって、耳を傾けて答えてくれる愛である。彼は決してしくじらない。他の人々は眠り、無関心になり、ぐずぐずと不熱心になって、その同情を呼び覚ますことはできない。しかし、イエスはご自分の聖徒たちのすべての叫びに注意して下さる。

こんなにも愛している御子の上に神ご自身が課せられた重圧に比べたら、われわれは何と僅かしか耐えられないことか。人類を贖うことは神や御子の側の義務ではなかった。力強く押し進む愛のエネルギーが、希望と救いの知らせと共にわれわれに届いた。その愛の性質と、その愛がいかに試練に耐えるのかを思え。御父と御子の間には罪や誤解の影がまったくなかった。永続する友情はこの世ではとても希である――誤解や偽りのただ中でも持ちこたえる友情はとても希である。これからわかるように、われわれの心が彼に対して忠実である限り、誤解や罪や無知によって決して損なわれることのない愛が、われわれと救い主との間に存在するのである。私には信頼に足る数人の友人がいる。私が不在の時に私のことで何を聞いても、彼らは常に同じままだった。何年も別々に過ごしたのち再会しても、気後れすることは無かったし、真の友人の間であっても時として忍び込むもやもやも無かった。イエスは常に同じである。あなたは極めて悪意に満ちた計画的な人々によって嘘を言いふらされてきたかもしれないし、偽りを言われてきたかもしれない。しかし、あなたが恵みの御座で彼に会う時、彼は耳にしてきたことの影響を全く受けない。なぜなら、あなたの心は彼の心と一つになって脈打っているからである。

聖徒が最大の戦いを戦おうとする時、イエスは一意専心に案じて下さる。イエスは私を大いに愛して下さっているので、私が戦いで傷つくことを許されたが、決して負けることを許されなかった。イエスはあなたを愛するあまり、あなたが安逸と快楽に耽ることを許されないかもしれない。時間の中においても永遠においても、もっと険しい道があなたにとって最善であることを、彼は分かっておられるからである。主を賛美せよ!生ける神の軍隊に属していることを私はどれほど喜んでいることか。いつの日か、天の高原でわれわれは精査されるだろう。その時、ぼろぼろの剣、ズタズタの旗、戦いの傷は、ウオール・ストリートの測り知れない富よりも価値を持つだろう。

また、われわれはその愛の中にとどまらなければならないことがわかる。どうすればそうできるのか?私の理解では、これはまさにその愛の中に生き、その愛の影の下で生きることを意味する。住む所によってあなたの世界はガラッと変わるのである。

ある人がB公爵に「あなたが拠って立つものは何ですか?」と尋ねた。公爵は「私の頭です」と言った。その意味は、自分の知性、自分の才能に信頼している、ということである。この路線で切り抜けることを見込んでいたのである。自分の頭に拠って立つ人々が大勢いる。しかし、人が自分の頭に拠って立つ時、その人が神の愛の中にとどまることはほとんど不可能である。愛とは心に影響を及ぼすものである。われわれは愛の中に生きなければならず、われわれの心を専ら愛に治めてもらわなければならない。ある人々は教義、信条の中に生きていて、自分が信じていることを絶えずあなたに告げる。奇妙に思うかもしれないが、聖書の探求や聖書の研究の中に生きている人々を私は見てきた。自分たちが御言葉の中に見い出したものを話して、人をうんざりさせんばかりなほどである。しかし、彼らは十分な滋養を得ていないので、彼らが神や人類を少しでも愛しているとは誰も全く思わない。愛の中に生きないなら、自分の霊性を失ってしまうほど何かに占有されるおそれがある。黙想なき活動のせいで、多くの人々が死にかけている。何度も私は主に、「他の何ものかによって占有されるあまり、一人で黙想する時間、一人でいる時間、主の愛の中に生きる時間が取れなくなるようなことがありませんように」と求めてきた。あなたを邪魔するものを拒むことによって、また、あなたを助けてくれるものを努めて選ぶことによって、あなたはこれを実行することができる。

神はあなたを愛しておられ、イエスもあなたを愛しておられる。彼はあなたを愛するあまり、あなたのために死なれたのである。この御言葉の意味は途方もない。あなたは試みを受け、おそらく不安になって、このメッセージを忘れるかもしれない。しかし、この鳩の翼の下に結ばれているこのささやかな知らせを思い出さなければならない。ある時、ビリー・ブレイが自分のジャガイモを掘っていると、悪魔が背後に歩み寄って来て、「ビリー、今回の神の仕打ちを見たかい。こんな小さなジャガイモをこれまで見たことがあるかい?」と言った。ビリーは言った、「お前は悪魔だな。お前に言いたいのだが、私がお前に仕えていた時はジャガイモを全然もらえなかった。引き下がれ」。小さなジャガイモしかとれないかもしれないが、もっと悪い可能性もあったのである。あなたは耐えるのが困難な時を過ごしているかもしれないが、状況はもっと悪かったかもしれないのである。

ああ、邪魔するもの、がっかりさせるもの、われわれを意気阻喪させるものから遠ざかれるように、また、その愛の中に生き続ける地点に達することができるように、神がわれわれを助けて下さいますように。その愛は御父が御子を愛する愛であり、イエスがわれわれを愛する愛である。「父が私を愛しておられるように、私もあなたたちを愛しました。私の愛の中にとどまりなさい」。