第八章 中心たる十字架を見ること

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 二十一巻―― 一九四一年三月二十七日 ―― 十三号

「そして、民衆は立って見ていた。」(ルカ二三・三五)

十字架のこの不可解な悲劇――悲劇中の悲劇――を目撃した人々の間には、きわめて多彩な感覚があったにちがいない。この悲劇は壮大な世界中の出来事をすべて色あせさせてしまった。このような奇妙なしるしを伴うこの奇妙な行動は、その場に居合わせた者たちに多様な影響を及ぼしたにちがいない。

そこには、心が鋼鉄で良心が焼け焦げている人々がいた。救い主の体に釘を打ちつけたこのローマの兵士たちは、強奪品以外なにも顧みず、そのためにくじを引いた。

首長たちは悪魔のような残忍さで、自分たちの餌食の苦悩をあざ笑っていたにちがいない。復讐してやったと思っていたからである。

遠く離れて立ち、自分の主の十字架刑を目撃した時、どれほど奇妙な感情がペテロの胸に渦巻いていたことか!どんな犠牲を払っても、できるものなら自分が主の心に突き刺さった矢を引き抜きたい、と思ったであろうことは想像に難くない。

次に私が思うのは百卒長のことである。地が揺れ始め、岩が汚れた裏面をさらし、救い主が死なれるあいだ太陽が輝くのをやめた時、百卒長は感動のあまり、「まことにこの方は神の御子だった」と叫んだ。

忠実で、愛に満ちた、落胆している女たちのことを考えてみよ。自分たちが信頼を寄せていたこの御方の無力な苦悩を彼女たちが目撃した時のことを。

この丘の周囲にはこのように異なる階級の人々がいたが、他にもいた。救い主の隣の十字架上には、罵りと呪いの言葉を発する者がいた。その人が怒り狂っている間、イエスをはさんだ反対側にも人がいて、あわれみを求めて嘆願していたのである。

「成就した」とイエスが言われた時、彼は悔い改めた盗人を腕に抱き、彼を燃える炎の中から救い出した戦利品として、一緒に永遠の門をくぐられた。一方の盗人は地獄の業火の中にいたが、他方は神の御子の温かな血で白く洗われて門をくぐったのである。

母親たちよ、彼の母親の心を満たした悲しみを少しでも理解できるだろうか?彼女は「剣があなたの心をも貫くでしょう」という三十年前のシメオンの言葉を思い出した。

代々、男たちも女たちも「立って見ていた」のである。二千年間、人々は中心たる十字架に目を向けてきた。時代が過ぎて行くにつれて、十字架はますます偉大さと気高さを増しつつ人類の目の前に迫ってきた。聖書のどのページも、この多くの面にわたる栄光の新しい光や異なる面を見せている。

第一に、十字架は死として述べられている。死の光景は常に印象的である。しかし、この死は普通の死では全く無かった。この人は死ぬ必要がなかった。死ぬことを選んだ方がそこにいたのである。彼の最高の任務は死ぬことだった。彼の十字架上に、アダムの種族に属する全員が、「彼は私のために死んでくださった」と書き記すことができる。

これは死の光景以上のものである。磔殺は最も厳しい死罪としてローマ人が選んだものであり、それには二つの理由があった。磔殺は最も苦しく、最も惨めだったからである。苦しみの中、筋肉は張り詰めて極度の緊張状態に至る。無力な体は引き裂かれた肉体の自重で吊り下がり、激しい苦しみで徐々に死んでいく。傷つかない生体器官は一切ない。彼は盗人たちの間に盗人として吊されたのである。

彼の死は自発的だった。たった一つの言葉や行動で彼は百万の天使に命じることができた。そのどの天使も彼を救えただろう。「良い羊飼いは羊のために命を与えます。わたしにはそれを捨てる力があり、取り戻す力もあります」。彼が「成就した」と言われるまで、死は訪れることができなかった。人の性質は最悪の敵である死から逃げるのが普通である。しかし、他者のために自分の命を捨てるというこの一つの至高の目的を生涯貫いた人がここにいた。

彼の死は受難であり、受難は苦しみを意味する。彼は死に至るまで自分の魂を注ぎ出された。彼の苦しみは激しかったにちがいない!

これは辛苦とも述べられている。辛苦は人の苦しみの最も最も厳しい形である。

これは逝去と述べられている。逝去は死以上のものである。馬は死ぬが、決して逝去しない。逝去は去ることを意味し、未来の命、活動の継続という思想を伝える。これが意味するのは、彼は別の領域に移り、死の門を通り抜けて、さらに高くさらに栄光に満ちた務めに入られたということである。

また、彼の死は植え付けとも述べられている。「もし私たちが彼の死の様の中に共に植えられているなら、彼の復活の様の中にいるようにもなります」――ローマ六・五。植え付けは葬式ではなく庭を示唆する。

われわれは自分の愛する者たちの命無き遺骸を暗い墓の中に葬るのではない。むしろ、「この種は芽生えて、十倍美しい芽、花、実となる」と確信しつつ、生ける種を手放すのに似ている。

彼の死は高揚と称されている。モーセが荒野で蛇を上げたように、十字架は全世界が彼を見られるようになるために上げられることである。

彼の死は成就であり偉大な勝利である。彼はサタンと対戦して征服し、その王国を打ち倒された。だから、われわれは小羊の血を通して勝利者とされるのである。

それは和解だった。十字架は新創造の記章である。ここで加害者と被害者は会って握手する。それは今も将来も、永遠にわたって常に、霊感を与え続けるのである。

(誌面からの再刷、一九三二年十月二十日)