第十章 主の訓練

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 二十一巻―― 一九四一年十一月二十七日 ―― 四十八号

「わが子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。(中略)さて、すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものに思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル十二・五、十一)

人の思いにとって最も大きな問題の一つは、愛する天の御父の統治下における人の苦難の神秘である。この問題にヨブは直面した――なぜ敬虔な人が苦しんで悪人が栄えるのか?ダビデも聖所の中に入るまでこの問題に悩まされた。聖所の永遠の光の中ですべては明らかになったのである。

神の子供たちの苦難は怒りによる罰ではなく、霊的性格の訓練のために、教育的目的で送られる。「訓練」と訳されているギリシャ語は文字どおりには「子供のしつけ」を意味する。あなたが子供のしつけを耐え忍んでいるからには、神はあなたを息子を扱うように扱っておられるのである。

この訓練は喜ばしいものではないかもしれない。厳しいものに思われるかもしれない。訓練は時として火のような試練の中で臨む。それは外圧かもしれないし、あるいは尖った鉄があなたのまさに魂の中に入り込むかもしれない。何重もの誘惑により、あなたは重苦しいかもしれない。ヨブや他の多くの人のように、この訓練は病を通して臨むかもしれない。「義人の苦しみは多い」。しかし、これらの苦しみや試練のおかげで、霊性はとても高度に磨かれるのである。あなたの最上の家具は、激しい研磨で数回磨かれ、さらに仕上げ磨きを数回受けた。サタンは神の僕たちの訓練において教育的要素としてしばしば用いられてきた。

「クリスチャン奉仕者の三つの主要な必要条件は、誘惑、誘惑、誘惑である」と言ったのはルターである。

地獄から漂ってくる空気の焼けるような炎は、きわめて厳しい苦しみを生み出す。その赤々と燃え上がる力の下で、「わたしの魂は悲しみのあまり死にそうです」とイエスは言われた。

パウロは耐えられないほど圧迫されて、生きる望みを失うほどだった。

エレミヤは言った、「私の民の娘たちの苦痛のゆえに、私は苦痛を受けている」。「ああ、私の頭が水になり、私の目が涙の泉になればいいのに。そうすれば、ほふられた私の民の娘のために、私は昼も夜も泣くことができたのに」。

われわれの周りにあるいかなる物質も、性格と比べたら無にすぎない。あなたの金や銀は、溶解する世界の炎の中で、たちまち灰燼に帰すだろう。あなたが行うことは刈り株のように燃えてしまうが、あなたという人は永遠に存続する。汚れている人は将来も依然として汚れているだろう。聖なる人は将来も依然として聖いだろう。苦難を通して高度な研鑽を受けている人は、永遠の白色光の下でますます輝くばかりだろう。

後になると訓練は実を結ぶ。これから思い出されるのは、自然や霊における神の過程では時間が必要不可欠な要素だということである。信仰は待つことを学ぶ。われわれの軽い艱難は束の間にすぎない。実を結ぶことでは時間が一つの要素である。最も甘くて最も香ばしい果物は、霜だけでなく八月の太陽にもさらされてきた。太陽の恵みを受けた実をならせる木は、その前の冬の寒い準備期間を耐えたのである。

訓練は永続する深い慰め、平安、喜びを生み出す。「夜は泣いても、朝になると喜ぶようになる」。悲しみの後に訪れる平安にまさるものはない。これはみな、それによって鍛えられる人々の所に訪れる。ロザハムはこれを「良く訓練された」と訳している。

次にまた、開いた傷口を残すひどい悲しみや熱い涙もある。なんの慰めもない打ちひしがれた心の人もいる。萎れてしまって甦りようのない希望もある。しかし、悲しみをどう受け入れるのかに、それによってどんな訓練を受けるのかに、様々なことがかかっている。われわれは主の訓練を軽んじてはならないし、責められて気落ちしてもならない。

「萎えた手を上げよ」。「あなたの心配をすべて主に委ねよ。主があなたを顧みてくださるから」。

あなたはある少年の話を聞いたことがあるだろう。父親が懲らしめの鞭を掴んでまさに子供に振り下ろそうとした時、少年は父親の腕の中に飛び込んで鞭を避けた。そのようにあなたは神の偉大な父心に、「たとえ彼が私を殺しても、私は彼に拠り頼む」と言うほど近づくことができる。最後に、あなたの足のために、まっすぐな道を造れ。すべての人と平和を保ち、主に対して聖くあれ。内側も外側もまっすぐに生きよ。