第十一章 両方の道を見ること

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 二十一巻―― 一九四一年十二月二十五日 ―― 五十二号

「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを低くして、あなたを試し、あなたの心の内を知り、あなたがその命令を守るかどうかを知るためであった。
それで主はあなたを低くし、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナで、あなたを養われた。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記八・二、三)

神の民が何かの大問題に直面したり、重要な一歩を踏み出すよう召される時はいつでも、神は有り余る備えと指示を与えて下さる。ほとんど常に、神の民は自分たちの過去の歴史を振り返り、自分たちが歩んで来た道を熟考し、過去の出来事における神の自分たちに対する取り扱いを概括するよう要求される。この御言葉が語られた時のイスラエルがそうだった。彼らの荒野の放浪は終わろうとしていた。ヨルダン川が再び彼らの道の前に広がっていた。そして、彼らは約束の地の中に入るよう命じられた――これは彼らの先祖たちが失敗したことだった。彼らの偉大な指導者はモアブの平原に彼らを集め、この三つの説教を彼らに説いた。彼は道中における神の優しさを振り返っただけでなく、神政政治の偉大な諸原則と神聖な律法――その下で彼らの国民生活は確立されることになっていた――を告げた。

彼らが新たな規則を伴う新たな故郷の境界に立っていたように、われわれもまた過ぎ去った年の墓場に立っており、新しい年の揺りかごの所にいる。しかし、われわれは新しい時代の境界にいるのである。歴史全体がそれに向かって進んで来た目標にわれわれは近づいている。これが「両方の道を見ること」というタイトルを用いる理由である。われわれは生者と死者――過ぎ去った年と生き生きとした未来――の間に立っている。過去がいかなるものであれ、あるいは、過去にいかなる事が成し遂げられてきたとしても、それはすでにない。過ぎ去った、永遠に過ぎ去ったのである。われわれはカナンよりも遥かに素晴らしい嗣業である王国に近づいている。その王国の栄光は決して過ぎ去ることがない。二つの年の間に立って、両方の道を見ようではないか。そして、この御言葉が示すところを短く考えようではないか。

神の導きを思い起こそうではないか。放浪している時でも神がこの民を導かれたことがわかる。力と時間を浪費したこの四十年の間ずっと、神は彼らを見捨てられなかった。彼らが荒野に逆戻りしても、神は彼らと一緒に向きを変えて共に進まれた。「彼らが苦しむ」と神もまた苦しまれた。「いにしえの時代、神は彼らを担って運ばれた」と御言葉は告げている。あなたたちの何人かが自分の道を選んだ時ですら、憐れみにより、神はあなたたちに善をなす機会を忍耐強く待ちながら、あなたたちの傍らで共に進んで下さった。「あなたたちは悪を図ったが、神はそれを益に変えて下さった」とヨセフは言った。神の御手は万物の上にあり、神の臨在は近い。これを覆すほどの曲がりきった道、奇妙な摂理、深い悲しみ、悪い環境はない。「すべてのことは共に働いて益となる」のである。

神の導きの御手だけでなく、善に満ちた御手についても考えよ。「最終的にあなたたちに益を施すため」。これはこの道の最初のうちは、あるいは旅の最中も、必ずしも明らかではないかもしれない。しかし、この道の終局は祝福以外にありえないことを、生ける信仰は理解する。多くの時、神の計画は謎であり、極めて辛い試みであることが時々ある。しかし、神に時間を与えよ。そうするなら、神はそれを成就して下さる。「あなたの夜はすぐに終わって、輝かしい日になる」。

小さな子供が定期船の甲板に立っていた時のことである。小犬がひとりの船員に噛みついた。すると、逞しい船長はその犬を掴んで船外に放り投げ、ただちに焼き鉄を握ってその船員の腕をひどく焼いた。子供は恐れて父親のもとに駆けつけ、「ああ、あのひどい船長が犬を海に放り込んで、あの人の腕を焼いてしまったよ」と叫んだ。父親は説明して言った、「あの犬は狂犬病だから、乗客の命を救うために犠牲にしなければならなかったんだよ。あの人の腕を焼いたのも、病原菌を殺して狂犬病を予防するためなんだよ」。こうして、船長の行動はひどいものではなく優しいものだったことを、その子供は理解させてもらったのである。

御父の訓練についても考えよう。「主はあなたを低くし、あなたを飢えさせられた。それはあなたを試し、あなたの心の内を知るためであった」。昨年を振り返ると、残念なことが十分ある。だが罪はない。なぜなら、神に感謝すべきことに、神は私を罪の外側に保ち、罪から守って下さったからである。残念なことに、信仰が今以上に伸びることはなかったし、陸も海も空も加速している今日この頃、時間を今以上に活用することもできなかった。この道を霊的にもっと進むべきだったように私には思われる。神の訓練は私に自分の無価値さだけでなく、神の十分さをも教えてくれた。祈りの答えは時として遅れることも教えてくれた。

われわれの目をもう一方の道に向けようではないか。神がわれわれを導いて下さっている良き地について考えようではないか。「あなたたちの神である主はあなたたちを良き地に、水の流れと泉と沢のある地に導かれるからである」。この予型の大部分は今日の聖潔体験において成就されるが、これらの鮮やかな比喩はこの世で使い尽くせるものではない。これらの比喩は無限の資源と永遠の真理について述べている。「私の泉はすべてあなたの中にあります」。この泉とは聖なる喜びの流れであり、祝福の高嶺からだけでなく、悲しみのどん底からも流れて来るのである。「欠けることのないパン」。

戦時中、「小麦の無い日」や「砂糖の無い日」があったが、このような日は「乳と蜜の流れる地」の絵図ではない一つの例である。オリーブ油とザクロがこの地でも豊かだったが、彼らは巨人から造ったパンについてわれわれに告げる。これはまさに敵の手の中にあったものから得た筋肉、骨、筋骨の宝を意味する。最大の祝福は戦って征服することによる。神の最上のものを知りたければ、われわれは征服していないものを征服し、山岳地帯にあるその要塞を占領しなければならない。われわれは敗北の中から勝利を、貧困の中から豊かさを引き出すことができる。

この終わりを迎えつつある時代の科学や天才たちは、物質の世界でこれを行っている。どうしてわれわれが霊の世界でこれに負けて良いわけがあろう?カンザスで私は不毛で無価値な岩山をよく旅した。その荒野は貧困そのものだった。だが、冒険的精神の持ち主たちは穴を掘り下げていって、その貧困の下にあった大きな富を発見した。この不毛の岩山から巨大な富が得られたのである。

原始時代の未開人たちはクリプル・クリークやヨハネスブルグの金のあたりや、ペンシルバニアの炭田やカリフォルニアの油田のあたりを何世紀も徘徊した。しかし、彼らはこの隠れた富について何も知らなかった。多くのクリスチャンは大きな富の近くで暮らしているが、それでも霊的貧困の中で死ぬ。もし神の深い事柄を望むなら、われわれはそれを探さなければならない。最も困難な場所が絶好のチャンスであることが分かるかもしれない。災害や一見敗北のように見えるものの中から、われわれは最高の教訓と最高に豊かな恵みを引き出せるのである。

(誌面からの再刷、一九二九年)