第十二章 救うのに力ある主

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 三十四巻―― 一九五四年三月十五日 ―― 二十号

「何ゆえあなたの装いは赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のように赤いのか。私はひとりで酒ぶねを踏んだ。」(イザヤ六三、二~三)

この輝かしい詩的光景は私の魂をくまなく感動させる。まるで極めて感動的な絵の赤々と燃え上がる眺望や、われわれの主の極めて生き生きとした光景のようである。

1.私の知性と心の画布の上に投ぜられた最初の光景は、戦士の光景だった。主は天からこの破れ目、人類の滅びをご覧になったが、支える者が誰もいなかった。主は守る者が誰もいないのを怪しまれた。「それゆえ、私の腕が私に救いをもたらし、私の憤りの中で、それが私を支えた」(イザヤ六三・五七)。天の境界線に神はその軍隊を動員された。戦隊と師団が次々とその境界の平原に進軍し、全軍が戦闘配置についた。天で反乱を起こしてその住人の三分の一を奪い去った神と人の大敵は、その暗闇の地獄の軍勢を呪われた燃えさかる平野に集めていた。これは悠久の時の中で最大の戦いのための最大の備えだった。いと高き王国が与えるすべての武具をまとった戦士としてのキリストが私には見える。

2.この絵画が示す第二の絵は、流血の野から帰還する征服者の絵である。彼はイスラエルの旧敵であるエドムとの戦いから戻ってくるところである。戦いは過ぎ去り、戦争は終わった。勇気、戦い、恐怖は、この御方の背後にすべて過ぎ去った。勝利者であるこの御方が輝かしい威光と栄光に満ちた衣服をまとい、御力の偉大さを示しつつ行進されるのが私には見える。この絵図は人類の贖いの預言全体にも言える。

贖いの最初の約束は、女の裔と蛇の裔との間の戦いの約束だった。モーセとパロ、イスラエルとアマレク、ヨシュアとカナン人の間の戦いや、その他多くの戦いは、この箇所や他の箇所で描写されているこの大きな戦いの型にすぎない。エデンからハルマゲドンまで戦いがある、という漠然とした印象がある。

この絵図の前面にキリストが立っておられるのが私には見える。キリストは戦って勝利を勝ち取り、敵を滅ぼされた。まさにここでわれわれはこの光景を見て、教訓を学ぶべきである。すなわち、この戦いはわれわれの戦いではなく、神の戦いなのである。また、彼はあらゆる時代の勝利を含む勝利を勝ち取られたのである。その結果、われわれが参入するどの戦いも、勝利が保証されているのである。イスラエルの戦士であるダビデは片手でゴリアテに立ち向かい、ペリシテ人の全軍をその指導者を打ち負かすことで打ち破った。そのようにイエスは地獄の軍勢の指導者、神と人の大敵に、荒野で、園で、十字架上で、ヨセフの新しい墓で立ち向かい、永遠に追放された。キリストは昔と同じような征服者として、墓場の暗い棺の中から出て来られた。この世、肉、悪魔、死、地獄、墓は、すべて彼の戦車の車輪に鎖でつながれたのである。こういうわけで、われわれは彼の勝利を得ており、どの戦いに参加する時も「神に感謝せよ、神は常にキリスト・イエスにあってわれわれに勝利を得させて下さる」と叫ぶのである。

これが事実である以上、われわれは決して敗北する必要はない。このようにして「私たちを愛して下さった方によって私たちは圧倒的な勝利者になる」のである。レフィディムのあの大きな戦いでは、アマレクは肉の型である。この戦いで勝利を勝ち取ったのは人の力ではなく神の力である。モーセが両手を上げていた時だけ、イスラエルは優勢だった。モーセの手が疲れて重くなり下に下がった時は、アマレクが優勢になった。そこで人々はモーセを石の上に座らせて、日が沈むまでアロンとフルがその両手を支えた。これは聖め――肉の磔殺――の型だった。人々はモーセを羽毛ベッドの上ではなく石の上に座らせて、日が沈むまで一日中その両手を支えたことに注意せよ。この上げられた信仰の手は御衣の裾に触れるのである。

3.この光景が示す次の印象的な絵は救い主である。「義しく語り、救うのに力ある者。それが私である」。人の戦士は利己的である。彼らが戦う目的は個人的野心、個人的権力、誉れ、名声である。人の血の川々が流されてきた。利己的で強欲な英雄が世界征服者と称されることがあることに、人の心は痛みを覚えてきた。しかし、贖いのこの大きな戦いでは、われわれの力強い将が前線に出て来てこの戦いを戦い、世を打ち破り、暗闇の力からわれわれを救って下さった。救えるようになるためだけに、彼は征服されたのである。彼は常に虐げられている者の勇士である。

この教訓に私は四つの特徴を見る。第一に、彼は義なる救い主である。彼は義の要求を踏みにじらなかった。破られていた律法の要求を受け入れ、それを完全に満たされた。罪の罰金を支払って、義の要求にことごとく応じられた。だからわれわれは無法者ではないし、牢獄を破ったわけでもない。われわれは引き出されて裁判にかけられたが、彼が罰金を払って下さったので、見事に無罪判決を受けたのである。彼は十字架から降りて、この請求書の始末を拒むこともできた。しかし、十字架にとどまることを選んで、最後の一円まで支払って下さった。だから、われわれが出て行く時、われわれは顔を上げて、債権者に会う恐れを感じることなく進めるのである。彼はすべての負債を完全に片付けて、その記録を抹消して下さったのである。

第二に、彼は救うのに力がある。彼はあなたの諸々の罪を帳消しにできるだけでなく、習慣の力を打ち破って、すべての積み重なった腐敗や生来の肉性からあなたの心を清めることができる。彼はあなたの体を癒すのに力がある。罪の結果から救うのに力がある。極みから極みへと救うことができるのである。

第三に、彼は唯一の救い主である。「私は見たが、助ける者が誰もいなかった」。他の物や人がすべて試されたが、みな失敗したのである。

第四に、矛盾、あるいは救いと破壊の奇妙な混ざり合いが分かる。贖いの偉大な根本原理は破壊による救いである。十字架は死による命、敗北のように思われるものによる勝利、悲しみによる喜び、涙による微笑みを意味する。ノアとその家族は、この世の滅びによって救われた。イスラエルはエジプトの初子の死によってエジプトから解放された。

4.第四の偉大な絵図は受難者の絵図である。これは大きな犠牲を伴う勝利だった。「何ゆえあなたの装いは赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のように赤いのか」。これはゲッセマネの園とカルバリを物語っている。彼の受難の特徴の一つは、道中の孤独さだった。「私はひとりで酒ぶねを踏んだ」。分離と寂しさの感情が加わった孤独ほど痛ましい苦難があるだろうか?あなたはこれまで苦しんで、「誰も自分のことを理解してくれないし、気遣ってもくれない」「誰も自分の悲しみにちっとも同情してくれない」と感じたことはあるだろうか?それはあなたが説明できず、彼らも理解できないことだった。何と滅入る感覚か!彼は性質上孤独であり、周囲からかけ離れていたため、不作法や荒っぽさや間違いはすべて彼に未知の痛みを与えたにちがいない。助けが必要な最暗黒の時に、彼の弟子のほとんどは彼を見捨てて逃げてしまい、彼ご自身の御父も顔を覆ってしまわれた。まことに彼はひとりで酒ぶねを踏まれたのである。

5.贖いの哲理の最大の奥義の一つは、彼の最大の苦しみは彼の最大の栄光だったことである。われわれにも言えることだが、苦しみはわれわれの訓練の一部であり、われわれの最大の喜びになる。われわれは贖いのための犠牲的苦難にはあずからないが、参与すべき他の苦難がある。その苦難は来たるべき時代にわれわれの栄光になる。人生最大の悲劇の時に彼がひとりだったように、われわれも彼と共に隠遁して孤独にならなければならない。われわれの中には今そのような境遇にある人もいるが、落胆することをわれわれは拒否する。激闘の中で気落ちすることを拒否する。戦いの煙と砂ぼこりが巻き上がる時、われわれは最大の栄光を享受するのである。

6.結論として、使徒パウロが言ったことに注目せよ。「彼は高いところに上った時、とりこを捕らえて引いて行き、人々に賜物を分け与えた」(エペソ四・八)。古代の戦争では、流血の野から帰還した征服者は、鎖につながれた捕虜の中で最も著名な者を引き連れていた。数万の捕虜を捕らえていた敗軍の将や高官たちは、勝者が戦場から帰還する時、今や勝者の戦車に鎖でつながれる。そのように、イエスは暗闇の軍勢の六大指導者をその戦車の車輪あるいは傍らに鎖でつないで高きところに帰還された。この世、肉、悪魔はその片側に、死、地獄、墓は反対側にあって、この大指導者たちの捕虜たちがみな列をなして後に続いたのである、

何という帰郷をわれわれはすることになることか!悪魔は永遠に底なし穴の中に閉じ込められる。この世は火によって贖われ、諸元素は燃える熱で溶解する。肉は十字架につけられたままであり、地獄の門は永遠に閉ざされる。死自身は死に、墓はその勝利を失う。神ご自身がわれわれの目から涙をことごとく拭い、人々に賜物を与えて下さるのである。

また、征服者は戦利品を前線でよく戦った者たち、戦いで助けてくれた英雄たちと分かち合うのが慣例だった。そのようにキリストは聖霊の賜物と真の教会への遺産である九つの賜物を与えて下さっただけでなく、試練の中で忠信だった者たちに最終的に報いて下さる。彼らは戦利品を永遠にキリストと分かち合う。冠をかぶり、王座に座し、王杖を振り、町々を治める。御言葉が「もし苦しむなら、われわれもまた彼と共に治めるようになる」と告げているからである。