第十三章 霊の人

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 三十四巻―― 一九五四年十月十六日 ―― 四十二号

経験上また結果的に、律法の下にあることと恵みの下にあることとの間には根本的違いがある。律法は倫理性を要求したが、それを生み出すなんの手段も提供しなかった。恵みはわれわれを引き上げて霊性の中にもたらす。そこで律法の要求はすべて満たされる。律法の旧経綸の下では僅かな人だけが、新経綸の下で霊的性格と霊的命を生み出す同じ聖霊による特別な主権的接触によりそうされた。この御言葉を私はあるとても素晴らしい章から取った。パウロは山頂に向かって御霊の中で登っていた。彼は二種類の知恵があること、そして、一方を退けてコリント教会に対する務めでそれを用いることを拒んだことを述べた。彼はこの世の知恵を持っており、ガラテヤ人への務めではそれを少しばかり用いた。彼はギリシャの無名の詩人の句を引用できた。ギリシャ文学とギリシャ哲学に関する彼の知識は正確で広範に及んでいた。不可知論に出会った時、彼はなすすべを知っていた。

コリントはギリシャ哲学者でいっぱいで、修辞学と論理学が盛んだった。ギリシャのどの都や町にも公共の広場があって、そこで文法学者や哲学者たちはいつまでもギリシャの文化や文学を扱っていた。パウロはコリントの人たちを彼らが好む甘い口調でもてなしただろう、とあなたは思ったかもしれない。しかし、そうではない。彼は言った。「私はあなたたちの間でイエス・キリスト、十字架につけられた方以外、なにも知るまいと決意した」と。私は雄弁術を用いまいと決意した。私が来たのは「人の知恵の魅惑的な言葉と共にではなく、御霊とその力の現れと共に」であった。この「力」という言葉は、この世の知恵にまさに欠けているものを表している。この世の知恵に力はない。この世の哲学者たちは人の心を変えたことが決してない。

人の知恵を用いることを拒むもっともな理由を彼は与える――「あなたたちの信仰が人の知恵によってではなく、神の力によって立つようになるためである」。善人がそう言ったから、そう教わってそれに説得力があるように思われるから、という理由で信じるなら、あなたは確実に砂の上に建てているのである。

ギリシャやローマで最高潮に達した論理的思考を上回るものが、この世の知恵の中にあるのかどうか私は疑う。ギリシャ人やローマ人が当時行使した知力に匹敵するものが、それ以降なにかあるのか私には疑問である。それにもかかわらず、この知恵は深刻な試みの下でぺしゃんこになってしまった。「この知恵をこの世の君たちはなにも知りませんでした。もし知っていれば、栄光の主を十字架につけたりしなかったでしょう」。イスラエルの偉大な宗教家たち、偉大なローマ人たち、ギリシャ哲学に満たされていた人たちはみな、栄光の主を好き勝手に扱った。彼らは主のために十字架以外の場所を見つけられなかった。今の時に至るまで、彼らが真に神に属する者たちに手をかける時は常に、その人を十字架につけてしまう。神の書物を彼らに手渡せ。そうするなら、彼らはそれを十字架につけてしまう。それは彼らにとって愚かなものだからである。聖霊を捕らえて木にかけることができるなら、彼らは聖霊をも十字架につけるだろう。

兄弟よ、もしこの世の知恵がわれわれの信仰の邪魔をするのを許すなら、われわれは愚か者の一団である。私は著名な学者たちを敬うが、それは彼らが自分自身の分野にとどまっている場合である。しかし、彼らが自分たちの分野を離れるなら、私は彼らに対する敬意をすっかり失う。彼らが自分の分野にとどまっている間、私は彼らに負う所がとても大きい。トマス・エジソンが自分の研究室にとどまっているかぎり、私は彼の二千以上の発明のゆえに彼をとても高く評価する。しかし、彼が科学の分野を離れて、「人は犬のように死ぬ」「死後の世界はない」と言うなら、私は彼をこの世代で最大の愚か者の一人とみなす。彼が八十歳の誕生日の時に「神は私にとってなんの意味もない」と言った時、「一体トマス・エジソンとは何者か?」と私は言った。「彼は電気技術者です」と人は答える。そのとおり、彼は電気技術者にすぎない。死んだ犬について知らないし、死んだ人についてはなおさら知らない。犬が死んだ直後に、あるいは人が永遠の世界の中に入った直後に何が起きるのか、彼が何を知っているというのか?哀れな人よ、彼は自分の分野を離れて、子供のように無知な分野に足を突っ込んだのである。彼の分野は科学と哲学の分野であり、われわれの分野は啓示の分野である。

いかにして私は啓示を知るのか?神の書が私に告げてくれるのである。それが神の書であることがいかにしてわかるのか?通電している電線をエジソンが見分けるのと同じである。断線している電線と通電している電線の違いを彼が知っていた以上に、生ける書物と死せる文書の違いが私には確かにわかるのである。

科学者たちが自分の分野にとどまっているなら、彼らは私に教えることができる。しかし、私が自分の分野にとどまっているなら、私も科学者に教えることができる。自分の哲学を持ち出して啓示の分野に乗り込むなら、たとえ最大の哲学者といえども知恵の欠如を露呈する。「霊の人はすべてのことを判別します(見分けます)」。天然の人は見分けられない。見ることができない。霊の人には目がある。昔、預言者は「先見者」と呼ばれていた。預言者は最初「神の人」と呼ばれていたが、その後「先見者」と呼ばれるようになった。目に見えないものを見ることができたからである。しかし、先見者としての資格を得る前に、彼は神の人としての資格を得なければならなかった。神の人になるには、人は再生されなければならない。神から生まれなければならない。上から生まれなければならない。

家庭の赤子は麗しく、一家の喜びの中心である。しかし、年を取った赤子は不快である。発育遅延の事例が一件あった。年を取った赤子は素晴らしくないし、魅力的でもない。神の子供たちの間には発育遅延の事例がたくさんある。キリストにある赤子を世話するのは喜びだが、教会の中の年を取った赤子たちにはうんざりである。

霊の人は、第一に、聖書を見分ける。本を読んでいてなにかわからないことがあったら、「著者がここにいてくれたら、この意味を尋ねるのに」と私は言うだろう。

最も霊的な人は聖霊を受けている。聖霊は聖書の著者である。聖霊は解き明かしが無ければ不可解なものを解き明かしてくださる。

第二に、霊の人は罪を見分ける。十分遠くから罪を見分けてそれを避ける。

第三に、霊の人は人を見分ける。人について外見以上のものを知ることにしくじることはありえない。

第四に、霊の人は時を見分ける。神はイスラエルと論争されたが、その理由は「イスラエルは知らない。わたしの民は考慮しない」ことだった。イエスは地上で最も宗教的な都のために泣かれたが、それはその都が時をわきまえていなかったからだった。人々は天気を見分けて、「いい天気になるだろう」とか、「今日は荒れ模様だろう」と言っていた。「今の時がわからないとはどういうことか?」

この旧世界を改革する働きに霊の人の興味を引くことはできない。たんなる改革は過去のものであり、今は福音伝道の時であることを霊の人は知っている。霊の人は時間やお金を無駄にできない。多くの人には識別力があまりにもないので、だれかが立ち上がって祝福に満ちたイエス、優しい主、親切な主人について話すと、その人を鵜呑みにして、蛇のぬめりを見落とすのである。説教者が二、三回「聖霊」と叫ぶなら、ペンテコステのために上の部屋に決して上ったことがなくても聖い人と見なされるのである。

ああ、上の部屋からしか得られない深い霊性が必要である!