第十五章 麗しい足

セス・C・リース

伝道説教(要請により再掲)
Pilgrim Holiness Advocate 誌 三十四巻―― 一九五四年十一月二十日 ―― 四十七号

「良きおとずれを伝え、平和を告げる者の足は、山の上にあって、なんと麗しいことだろう。」(イザヤ五二・七)

全く聖められたあたなたちにとって、この偉大な任務は人生をすべて注ぎ込むべき課題である。もし宣教士たちや地の果てまで行く使者たちを生み出さないなら、諸教会や教会の建物を顧みても何になるだろう?宣教士たち、伝道者たち、福音的牧師たちを生み出さないなら、聖書学校や大学を顧みても何になるだろう?世界を福音化することは、われわれの明確な目的、霊的・聖書的な目的である。われわれは政治や改革に召されているのではなく、この史上最大のメッセージを地の果てまで告げることに召されている。まだ伝えられていない人々に伝えるというこの偉大な目的に貢献しないものは、すべて失敗である。われわれの諸教会や学校が言わば完成品を輩出することに失敗する時、あるいは宣教熱の栄光で全く覆われている製品を輩出することに失敗する時、われわれは完全に失敗しているのである。もしわれわれが宣教のために燃えていないなら、あなたやわれわれの誰かが「自分は聖められている」と告白してもそれはまったく馬鹿げている。

平和を告げ、救いを告げる者たちの足は、なんと麗しいことだろう。麗しい足、麗しい道、麗しい試み、麗しい勝利、犠牲的な愛の麗しい模範、なぜなら奉仕の最高の栄光は文句を言わずに犠牲的にささげることだからである。われわれがそこに達することを私は願う。つぶやいたり文句を言わずに苦しんでささげることに優る栄光は何もない。

あなたはこの御言葉をすでに知っているので、この教訓で言及されている人々はこれについて語り、祈り、歌っただけでなく、実際に出て行ったのであることを、私は時間をかけて強調したりしない。召しを聞いた人々は大勢いるが、後になって不幸な結婚に召されていると感じて、決して出て行かなかったのである。しなびた生活や砕かれた希望が何と多くあることか。その原因はすべて、人々がこの実効的な面の中に入り込まず、立ち上がって出て行かなかったことである。

罪の山々の上に立つ人々の麗しい足についてのこの描写では、山々は険しい事柄、厳しい事柄を表すことを彷彿とさせる。しかし、もしわれわれが主のものであり、ただ主だけのものなら、この山々は、たとえそれがどこにあったとしても、われわれの嗣業の一部である。厳しい事柄はわれわれをいっそう高貴な経験に導いてくれる。宣教への関心は常に霊性を強め、霊性は常に宣教への関心を増し加える。この山に登るよう、どうか神がわれわれ全員を助けて下さいますように。

彼方にいる殉教者たちの大軍団に続くのは、麗しい足をしたこの男女の軍団である。この人々の足は罪の山々を踏みしめて平和の福音を告げ知らせたのである。われわれの武勇伝のどれを見ても、罪の山々に登って救いを告げ知らせた宣教士たちの間に見られる素晴らしい栄誉や勇壮さのようなものが生み出されたためしはない。どの国民も自国の英雄を重んじる。そして、彼らが流血の野から帰還すると、驚くべき情熱が示される。しかし、軍隊生活のどの英雄を見ても、世界を福音化するというこの輝かしい任務を帯びて罪の山々をその足で踏みしめた男女の前では、完全に色あせてしまわざるをえないのである。

デイビッド・リビングストン、ウィリアム・カーレー、ロバート・モリソン、ガードナー隊長、ジョン・ペイトン、ハニントン司教、他の数千の人々の物語を再び読んでほしい。これらの人々は麗しい栄光の道を造っただけでなく、他のどこにも見られない勇敢な物語を生み出した。もしあなたがこの世か次の世で栄光を探すなら、この偉大な任務の遂行以外のどこにも色あせない栄光は決して見い出せないだろう。ここに真の栄光がある。この世界のこれらの偉大な宣教士たちの数名に会うことを私は熱望しているが、彼らは去って行ってしまった。われわれを凌いで、われわれの遥か先にいる。だから、彼らの輝かしい道を一目でも見るなら、われわれも首尾良くやれるだろう。ここに勇敢な男女たちがいる。彼らは極めて恐ろしい死を遂げることをも喜び、犠牲や苦難がいかなるものでも、決して不平を言わない人々である。私はウィリアム・クリスティーを思い起こす。彼は宣教基地の女性たちが息を飲んで死を覚悟していた間、何も武器を持たずに、白狼の侵略者の暴徒らを遠くで引き止めたのである。私はアレキサンダーのことも思い起こす。彼の体は小さかったが、その信仰は偉大で、その意志の力は強固だった。彼がハランを開こうとした時、彼は石で打たれ、もみくちゃにされ、その船小屋は焼かれて灰になり、役人たちによってその地域から追い出された。転身できるようになるやいなや、彼はその迫害の場所に戻り、迷信と罪のその地域の真っ只中に聖潔の旗を立てた。どうか神がわれわれを目覚めさせて下さいますように。そして、これは辛い仕事であって、真に献身している者だけが成功するという事実を、われわれに垣間見させて下さいますように。

オームステッド嬢のことを考えてみよ。彼女はバサール大学の卒業生で、英文学を教える能力に秀で、立派な経歴を持っていたが、御声を聞き、それに応じてインドに行った。ある日のこと、彼女が外で苦しんでいる人を助けていると、岸辺に投げ捨てられて死にかけているヒンズー教徒のやもめを見つけた。彼女はやもめを自分の家に連れて行き、イエスに導いた。ああ、麗しい足、麗しい道、宣教の傑出した、神々しい、栄光の道よ。二、三時間後、かの恐ろしい流行病であるコレラが、このヒンズーの婦人を捕らえた。オームステッド嬢は危険を知りつつ婦人を看病し、共に祈り、婦人が亡くなった時、キリスト教式の葬儀を行った。バサール大学出身のこの教養ある女性が新しく造られた墓に打ち伏すのを見よ。会葬者は彼女だけであり、その後、彼女は自分の小さな家に戻った。二、三時間後、彼女は病んで亡くなり、見知らぬ者たちの手で異邦の地に葬られた。われわれはここに座して、親指をグルグル回しながら無為な時間を過ごしている。どうか偉大な神が今日われわれを助けて下さいますように!

ジェニー・フラー夫人はオベルリン大学の卒業生で、優秀で、頭が切れ、聡明だった。この土地のどの宣教団体の役員会や講壇も、彼女のおかげで光輝あるものになったにちがいない。だが、彼女は御声を聞き、インドに向けて旅立った。彼女はすぐに立ち上がって向かったのである。彼女はインドで二十年過ごし、その祈りは強力だった。しかし、彼女は日曜学校を一つ受け持っていただけで、生徒の半数は罪人であるだけでなく、他の人々を迷わせようと決意しているように思われた。フラー夫人は助けの必要性を感じた。彼女は私の愛する弟と、個人的友人である、オハイオ州オベルリンのO.M.ブラウンを知っていた。この愛する弟は二つ以上の宣教団の支援を引き受けており、この弟に彼女は手紙を送ったのだった。この手紙は日曜日の晩に弟に届き、弟はそれを自分の書斎に持って行った。この手紙は十分なものであり、弟は祈ることにした。この神の人は、この六人の遊女が回心するという確信を得るまで、決して祈りをやめなかった。弟が祈り終えたのは土曜日の晩の九時であり、インドでは日曜日の朝九時だった。ちょうどその時、日曜学校の生徒たちが集まった。そして、この六人の少女は一人一人フラー夫人のところに真っすぐ歩いて行き、彼女のことを母と呼んで、「わたしたちは神を欲します」と言って、その朝のその授業で全員回心したのである。この少女たちのうちの四人は現地の説教者の妻になった。

清純さ以外のあらゆるもので覆われた、小さな、シラミだらけの、汚れた子供を彼女が引き取って、自分の肩マントでその子を包み、自分の家に連れて行って世話するのを見よ。ここで文明と異教、上品さと退廃が邂逅する。彼女を死に導いたのは二十年にわたる過労だった。ああ、十字架の英雄たち、私は彼らの物語を読むのが好きである。彼らについて考えるのが好きである。彼らのために地を祈りで取り巻くのが好きである。

かの悪名高いイギリス人の強盗であるウッドストックのことを考えてみよ。彼は極めて大胆な犯罪を試みて何物も恐れなかった。神は、ちょうどあなたたちの中の数人を召されたように、彼を召された。彼はアフリカの中心に行った。彼がジャングルを突き抜け、沼を渡り、ぶどうの木でできた浮き橋で川を横切るのを見よ。彼は三百マイル徒歩で進んで、自分の駐屯地を一周した。死ぬ時に彼はこう言った。「ああ、落ちて行く私の外套を拾ってくれる人が必要だ」。ここには、私の父と同じように宣べ伝えに召された白髪の人々が確かにいる。父は七十歳になるまで真に救われることはなかった。父は生きながらえて八十八歳になったが、数千の人々と同じように自分のチャンスを失ったのである。

上品なイギリス人の若者であるジョージ・アトレーは、開拓宣教士としてアフリカに召された。ある日のこと、彼は暴徒に直面した。彼は十発の弾が詰まったウィンチェスター・ライフルを身に付けていた。彼は立ち上がって、暴徒たちをよくよく見回した。そして、「もし自分が彼らを殺せば、私の任務は彼らに殺される以上の損害を被ることになる」と決意して、屠り場に引かれて行く小羊のように進んで行った。彼の遺体が収容された時、彼のライフルも一緒だったが、薬室には弾がすべて詰まっていた。これは本当のことであって御伽話ではない。

ある宣教士がかつてパサデナにあるわれわれの家に泊まった。彼女は翌朝早く旅立って、数時間後に亡くなった。私は彼女の部屋に入り、そこで両手を上げて子供のように泣いた。彼女はそこにおらず、亡くなって数時間たっていたが、栄光に輝く麗しい道を後に残した。その栄光が本当に大気に満ちていたので、宣教者がその影響を受けて子供のように泣くほどだったのである。あなたは何かをなしたくないだろうか?この状況に目覚めよ。罪の山々が平野に広々と広がっている事実に目覚めよ。この罪の山々は福音の光の閃きを一つも見たことのない人々でことごとく覆われているのである。