第十六章 主の御前で聖く義しく

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 三十四巻―― 一九五四年十二月十八日 ―― 五十一号

「主の御前に聖く義しく、われわれの生涯のすべての日々に」(ルカ一・七五)

一人の人の魂の救いは、比類なく素晴らしいことである。この宇宙にそのようなことは他に何もない。この素晴らしい救いを受ける人にとって、それは常に新しい人生の始まりである。しかし、救いを保つこと、この救いの完全な力の中を歩むことも、同じように重要である。良い始まり方をするのは素晴らしい。しかし、進み続けて立派な最後を飾ることは無限に優っており、いっそう素晴らしいことである。多くの人は旗をはためかせ、帆に風を受けて、明るい希望と壮大な展望と共に、意気揚々と出発するが、きわめて不名誉な敗北を喫する。神に感謝すべきことに、進み続ける道、前進の道、持続する道、彼岸の国の港に安全に到着する道があるのである。

帆柱は折れ、帆は紐で結ばれ、旗はなくなった状態で、古い曳航船に引かれて港に入ることと、「いくつもの門を疾走してくぐり抜け、小羊の血に洗われて」高らかに入ることとは別の問題である。綱を投げ捨てて、はためくハンカチと友人や愛する者たちの叫び声の真っただ中で出航することと、荒海に遭遇し、荒れ狂う波浪を渡り、嵐をすべて乗り越えて、永遠の安息の港に立派に首尾良く入ることとは別の問題である。神に感謝すべきことに、これは可能である。

私は老いることを恐れそうになることがよくあった。あまりにも多くの人が後退し、偏屈で不機嫌になり、一緒に暮らすのが難しくなってしまう。しかし、二、三の老聖徒と接触を持つようになって以来、私は勇気づけられている。少し前に私は八十六歳の一人の老人が立ち上がって、「八十六年間、自分は完全な愛の経験の内に保たれてきた」と震えながら告げるのを見た。それから、その老人が十六歳の少年のように会衆の前で飛び跳ねるのを見た時、「年は関係ない」と私は言った。この人は八十六歳なのに大いに活発で、麗しく、力に満ちていた。それで私の心は喜びで跳ね上がり、私は神に感謝した。人生の黄昏時になっても、このクリスチャンの戦いにおいて、われわれをバラ色の、輝かしい、勝利の旅路から引き離すものは何もない。前進するか後退するかである。前に進むか後に進むかである。進み続けるか澱んだ水たまりになるかである。流れる小川になるか、マラリヤを繁殖させるかである。だから私は、現在のことだけでなく、未来と人生の最後にまで至る全行程についても述べている御言葉を選んだ。ハレルヤ!前進し続けて全く聖められないかぎり、救われた状態を長く維持することはだれにもできない。持っているものを維持する唯一の道は、それに加えることである。神の奉仕に成功する唯一の道は、自分に臨むあらゆる光の中を歩み、神が「あなたにはペンテコステが必要であり、これを求めるべきである」と示される時、それを得て、それによって歩むことである。

聖潔と全き聖めの経験に入らないことによる二、三の聖書的結果に、あなたたちの注意を引くことにする。第一の結果は、罪を犯しては悔い改める習慣、きわめて危険な習慣に陥ることである。これを長期間続ける人はごく希である。罪を犯すのは容易だが、悔い改めは困難である。罪を犯して悔い改めることを長期間にわたって続ける人はとても少ない。その結果は、もしあなたが生来の罪から解放されないなら、悔い改めずに罪の中に居続けることである。あなたが夜中にひざまずいて神に赦しを求めても、神は赦してくださらない。あなたが悔い改めないかぎり、神は赦してくださらない。あなたが悔い改めないのは、罪を犯すのをやめる見込みがないからである。しかし神の御旨は、あなたが聖霊のバプテスマによって救いと全き聖めを受けることにより切り抜けることである。さもなければ、あなたは道中疲れてしまうだろう。

六歳の小さな少年を初めて学校に送り出したとしよう。二週間後、あなたが「学校はどうだい?」と少年に尋ねると、少年は「好きじゃない」と答える。「どうして好きじゃないんだい?」。「好きじゃないものは好きじゃない」。「でもジョニー、どうして学校が好きじゃないんだい?」。「ええとね」と少年は答える。「先生が二週間のあいだ僕にABCをやらせるんだもん。ABCを習ったのは最初の日で、僕はもうそんなことにはうんざりなんだ」。われわれのすべての諸教会がうんざりしているのも、まさにこれと同じ理由による。説教者たちは教会員たちを初歩的原理にとどめて、乳と水飴を与えているが、教会員たちは何か別のものを求めている。会衆全員がABC、ABCにはうんざりである。また多くの場所で、説教者たち自身もそんなことにはうんざりである。彼らこそ、諸教会が後退した状態にあることを、この国で神に申し開きすべき人々である。

新聞界を代表するある人が編集しているシカゴ市の主導的新聞の一つは、私がこれまで読んだ中でも最も厳しくシカゴの説教者を批判して、このシカゴの説教者を福音以外のほとんどあらゆる俗事について説教しているとして非難した。そして、この説教者が神に背を向けていることを立証するよう、自分の新聞や他の新聞で率直に告げたのである。不敬虔な新聞が説教壇における罪を非難しなければならない状況にわれわれが至る時、われわれは警戒すべき地点に至っているのである。そして、これに関して最も憂慮すべきは、われわれが警戒していないことである。

人々は巨人でなければならない時に小人である。サムソンでなければならない時に赤ん坊である。この世に対してへつらい、妥協して、ついには弱々しくなってしまう。進み続けることは可能である。あるいは、巨大な発育過剰の赤ん坊になって座り込み、人々が自分にもっと注意を寄せてくれないからという理由で感情を害することも可能である。こんなめそめそした作り笑いの感傷は全く聖書の宗教ではないことをわれわれが理解するよう、どうか神がわれわれを助けてくださいますように。聖霊は神のために強者、巨人、秀でた性格、堅固な人を造り上げる。赤ん坊であるべき時に赤ん坊でいるのは全く結構なことである。しかし、赤ん坊服よりも大きく成長しないのは悲しいことである。神には巨大な霊的赤ん坊がたくさんいる。この赤ん坊たちはイエス・キリストにあって強者でなければならないのに、ゴム鈴、ブリキのラッパ、ガラガラを持って座り込んでいるのである。

次に気づいた不幸な結果は、耳が遠くなることである。使徒パウロは言った、「私たちには話すべきことがたくさんありますが、話すのは困難です。あなたたちの耳が遠くなっているからです」。全く聖められそこなうなら、あなたは神の御声に関して混乱することになる。それまで神の御声は明瞭かつ平明だったかもしれないが、悪魔はあなたを混乱・困惑させて、ニュー・イングランドの霧の中に放り込む。雷の音が聞こえる人がいても、それっきりである。「私には御声がわかりません。主だと思う時もあれば、悪魔だと思う時もあります」と言う人もあなたたちの中にいる。あなたたちは自分のペンテコステを受けていない。あなたたちは羊(sheep)ではなく、依然として子羊(lamb)なのである。「わたしの羊(sheep)はわたしの声を知っている」。羊は御声を知っているのである、知っているのである!ペンテコステには人の耳を開く効果がある。あなたが耳にする最も甘美な声は、あなたが全く聖められる時に聞く声である。聖められた群衆は、発せられなかった言葉でも聞くことができる。あなたは自分の説教をぶつ切りにして、未完成のままにしておくこともできる。人々がその説教をあなたのために仕上げてくれるからである。聖められた人々は養うのがとても簡単であり、説教するのがとても簡単である。そのため、彼らは決して飽くことを知らないかのようである。

私が気づいた、この経験を拒む次の結果は、胃が弱くなることである。「私はあなたたちを肉で養いたかったのに、あなたたちは乳しか飲めませんでした。あなたたちは他の人々を教える教師になっていなければならないのに、まだ教えてもらう必要があります」とパウロはこの教会に言った。聖められていない人々の特徴の一つは、彼らが堅い食物に耐えられないことである。彼らには柔らかい食物が必要である。彼らは弱いからである。聖められた人々は真理全体に直面しても決して尻込みしない。こういうわけで彼らはこの純福音を欲するのである。

全く聖められないもう一つの結果は、使徒が言うには、不安定さである。「今から後、教えのあらゆる風に翻弄されるような子供であってはなりません」。ある人がやって来て、ある事を宣べ伝えると、あなたたちは「これは良さそうだ」と言うが、また別の人がやって来て正反対のことを宣べ伝えると、あなたたちはそれを受け入れてしまう。だれでもあなたを翻弄することができる。しかし、あなたが聖霊を受ける時、人々がどのように宣べ伝えようが、すべてはあなたに対して真昼のように明らかになる。この経験をしたことはあるが、それを話す方法がわからない説教者がやって来るかもしれないが、あなたにはその説教者がこの経験をしていることがわかる。私は彼らの数人を山々や開拓地で見つけたが、彼らは自分が聖められていることを知らなかった。しかし、彼らはこの経験をしたことがあり、その名を聞くやいなや、「それこそこれです。いつそれを得たか私は知っています」と言ったのである。神に栄光あれ!

また、聖められそこなうことの悲惨な結果の一つは、あなたが義の御言葉に熟練しないことである。あなたは剣の柄よりはむしろ刃を掴んでしまい、他者にダメージを与えるよりも自分自身を切ってしまうだろう。この国の至る所に、神の剣に熟練していない説教者たちがいる。ペンテコステほどわれわれに天の知恵を与えてくれるものは何もない。一人の子供が全軍を「打ち倒す」のを私は見た。また私は、スラムから引き出された無知な人々、救われて聖霊のバプテスマを受けた人々が、魂の救いのために神の御手の中で力強い道具として用いられるのを見た。

それから、愛する人よ、この世といちゃついたり、この世に淫らな視線を送るなら、聖められた状態を維持することはできない。多くの男性は、結婚後愛情表現をし続けなかったため、自分の妻の愛情を失ってしまった。聖霊の好意を大事にして、その好き嫌いを学び、聖霊を喜ばすことを求めないなら、われわれは祝福に満ちた聖霊を失う。聖霊にご自分の道を進んでいただくようにするなら、聖霊は永遠にわれわれと共にいてくださる。聖霊をひとりの御方として、また聖潔の創始者として認めそこなうなら、この聖潔の経験を保つことはできない。この恵みを維持するには、第一に神の御言葉を読むことに、次に、雑誌や新聞よりも聖潔の書物、新聞、聖人の伝記を読むことに注意を払わなければならない。福音の真理を自分の中に詰め込んで溢れ流れるようにせよ。そうすれば、聖霊はそれを十分に用いてくださる。多くの人は、有益な結果を生じるところにお金を注ぎ込むべきなのに、自分を満腹にすることや、自分の家を飾ることにお金を注ぎ込んで浪費している。

「聖く義しく、すべての日々に」。神に感謝せよ!雨の日もあれば曇りの日もある。病の時や、災難の時もある。多くの人々は逆境について不平を鳴らしている。しかし御言葉は言う、「われわれの生涯のすべての日々に」と。状況や環境は関係ないのである。