最後の祈りの集会

セス・C・リース

このメッセージは「最後の祈りの集会」または「永遠の現実」と題して一九〇四年にオハイオ州シンシナティの God's Revivalist Office から発行された小冊子に収録された四つのメッセージの中の一つである。他の三つのメッセージはE.A.ファーガソンによる「地獄」と「迫り来る裁き」、チャールズ・F・ウェイゲルの「三つの地獄」である。

聖書朗読:
「小羊が第六の封印を解いた時、私が見ていると、見よ、大地震が起こって、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は血のようになり、
天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落とされるように、地に落ちた。
天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった。
地の王たち、高官、富める者、千卒長、勇者、すべての奴隷、すべての自由人らは、ほら穴や山の岩かげに、身を隠した。
そして、山と岩とに向かって言った、『われわれを覆って、御座にいます方の御顔と小羊の怒りから、かくまってくれ。
御怒りの大いなる日が来たのだ。だれが、その前に立つことができようか』」――黙示録六・十二~十七

この第六の封印の開封は、最後の大きな祈りの集会を告げ知らせる。この祈りの集会は、全宇宙でかつて開かれた祈りの集会の中で最大のものである。その時、大群衆が共に集まり、何百万もの人々が集合する。地の諸国民が一大祈祷会に集まる。そこには王たち、皇子たち、君主たち、総督たち、保安官たち、上院議員たち、下院議員たち、代議員たち、億万長者たち、力ある者たち、有名人たち、賞金稼ぎたちもいる。また、身分の低い者も高い者も、富める者も貧しい者も、黒人も白人も、あらゆる階級の人々がいる。

今日開かれている集会の中で、祈りの集会は最も小さい集会である。祈りの集会に行く人はほとんどいない。王が来るのはきわめて希だが、この祈りの集会には王たちがいるだろう。大統領や総督が祈りの集会に足しげく通うことはあまりないが、この時はそこにいるだろう。億万長者が祈りの集会に行くことは今は滅多にないが、その場にはいるだろう。地の貴人たち、諸国民がひれ伏す人々も、この祈りの集会にいるだろう。それは大いなる日である。

「そこに集まる人々の多くは、貧しい者、怠け者や悪党、遊女、地の屑どもである」と、とても多くの人々が思ってきた。しかし、それは代表者たちの一大集会である。われわれの偉大な学術団体の代表者たちがそこにいるだろう。すべての不信心者、すべての万民救済論者がそこにいるだろう。異端、神智学、クリスチャン・サイエンス、その他聖書に反するあらゆることを広める者たちが、みなそこにいるだろう。ハーバード、エール、アマースト、ブラウン、オックスフォード、ほとんどすべての人が素晴らしいと思っている偉大な学術団体の代表者たちが、祈りの集会にいるだろう。聖書はそう述べている。聖書は真実である。貧しい者、奴隷たち、ありとあらゆる落伍者たちがそこにいるだろう。

これは一大集会であり、そこで人々は祈るだろう。今、祈り方を知っている人々は多くない。たいていの牧師は、「祈る会員」と分類できる人をごくわずかしか持っていない。近頃、われわれのいわゆる「宗教」団体には、活発な会員とそうでない会員、祈る会員とそうでない会員がいる。三、四百人の会衆の牧師の多くは、祈る会員を片手の指で数えることができる。また、断られるのを恐れて、人を公の祈りにあえて招くこともほとんどない。今日、人々は自分のために祈ってくれる人を雇うことを願っており、代理人で満足している。しかし、諸君、自分のために祈ってくれる人を雇えなくなる日が近づいている。すべての人が忙しくなる。助けを確保する方法はなくなる。すべての人が祈ることになる。祈りを信じない人がとてもたくさんいるが、その時、皆が祈りを信じるようになる。その時、皆が祈る。今日、「自分は祈りを信じない」と言う高慢な人々がいるが、その時、彼らは祈りを信じるようになる。彼らはひざまずいて助けを求めるようになる。愛する人よ、きわめて不信心できわめて神を嫌っている人でも祈るようになる時がこの世にはあることを、あなたはご存じだろうか?時として、彼らはこれを告白するのを嫌がるが、確かに告白するのである。あなたが今晩ここに、この幕屋の下にいるなら、私はあなたに言いたい。諸君、あなたが祈るようになる時が来る。人々の心は恐れのために機能しなくなり、人々は祈るようになる。人々は無神論者を自称し、キリストを拒むことを表明しているが、彼らには密かに祈る時があったのである。状況に促されて彼らの祈りは公になる。私は人々が祈る場に居合わせたことが数回ある。

ある日、私は列車に乗ったのだが、その汽車は線路から外れて溝に落ちてしまった。そういう時、人々は常に祈るものである。

私は一度サイクロンに遭ったことがある。そういう時、人々は常に祈るものである。

私は海で嵐に遭った。そういう時、人々は常に祈るものである。きわめて勇ましい勇敢な神の反抗者でも、ひざまずいて祈る時があるのである。

数年前、私はフーシア市に住んでいた。そこには、きわめて傲慢な銀行家や実業家がいて、「私は祈りを信じない」と言っていた。彼らは決して祈らなかった。ある蒸し暑い午後の二時頃のことである。鈍感な人でないかぎり、約三分でサイクロンがその町を襲うかに思われた。この銀行家たちの何人かは通りにいて、舗道にひざまずき、「この町を救ってください」と神に祈り、叫んだのである。

ほんの数年前、神がボタンを押してサウスカロライナ州のチャールストンを震われた時、それは彼こそ神であることを人々に知らしめるのに十分な程度のものだったのだが、勇ましい人々、勇敢な人々、傲慢な人々は道に倒れて神に叫んだ。「神はいない」と言っていた人々が、あわれみを求めて御名を呼び求めたのである。

ある朝、私がシカゴの通りを歩いていると、高架を行く二台の列車が丁度私の頭上で突然凄まじい衝突を起こした。破片が私の周囲の路上に降りかかった。金切り声や叫び声やうめき声を私は聞いた。私が二階に駆け上ると、人々は負傷者や瀕死の人たちを運び出していた。そこにいる警官たちは涙を流し、顔面蒼白だった。巡回人や救急車もそこにいて、皆が金切り声をあげて叫び、祈っていた。それは祈りの時だったのである。

「自分はあの祭壇に行くつもりはない」「この狂信者どもは自分をとらえられない」と今晩あなたは言うかもしれないが、あなたはいつか祈ることになる。あなたは鉄道事故、サイクロンに遭っているわけでも、死の床にあるわけでもないかもしれない。あなたは死の床を経験せず、一瞬も警告を受けずに永遠に入るかもしれない。しかし、大いなる祈りの集会が迫りつつあり、あなたはこれに参加することになるのである。神を忘れた諸国民の膨大な会衆と共に、あなたはそこにいるだろう。そして、この恐るべき時、祈りに加わるだろう。

われわれの中のある者たちにとって、これらのことは大いなる現実である。私はこれらのことを完全に信じている。これらのことはわれわれにきわめて深い印象を与える。われわれの中のある者たちにとって、人々が神に対して罪を犯すのは恐ろしいことに思われる。われわれの中のある者たちにとって、人々が罪に定められて自分の目の前で地獄に行くのはゾッとすることに思われる。われわれの中のある者は、だれかが自分の指からすり落ちて悪魔の地獄に落ちるのではないかと案じており、深く案じている。神のために最善を尽くせるように、また、失われた人を救うことに最善を尽くせるように、神がわれわれを助けてくださいますように。私は人々が死んで地獄に行くのを見てきたが、これは地獄の恐ろしさ、地獄の現実性を私に知らしめるのに十分であった。人々が死ぬ時、最後の息で「自分は呪われていて、永遠に地獄で過ごすことになる」と証しするのを、私は散々見てきた。だから、神なく、望みなく人々が死んで行く所に、私はもはや居合わせたくない。ああ、諸君、この御言葉が述べている階級に属する数人の人を私は見たことがある。彼らがまさに永遠の淵に立って、「自分は失われた、失われた!失われた!」と告げるのを見たのである。通常、人は死に行く人々の言葉を信じる。通常、そのような時に人々は真実を話すものと人は期待する。死ぬ時に「自分は地獄に落ちる」と私に言う人々を私は見てきたが、これはその完全な恐ろしさを私に知らしめるのに十分だった。私にとって、呪われた魂が地獄に失われることは、救いと同じく現実的なことであり、天と同じく現実的なことである。これはたとえようのないほど恐ろしいことであり、描写できないほど恐ろしいことである。今晩それを見ることができるよう、神がわれわれを助けてくださいますように。

私はある金持ちが死ぬのを見た。少なくとも一人の金持ちが死ぬのを見た。その人は内外のだれからも尊敬されている人で、交友を持ちたいと人が思う人だった。その人の知己になって交友を持つことには価値がある、と人々は思っていた。私はその人が認罪の下にあるのを見た。ある大きなリバイバル集会で彼を見たのである。その集会には二千人の人々がいて、一度に六百人が神を求めていた。私は説教者が彼に語るのを聞いた。彼の敬虔な妻は神に立ち返るよう彼に懇願した。しかし、彼には金や影響力があり、金持ちの友人たちもいた。この世が彼の神であるように思われた。彼はこの大きなリバイバルから、この恵みの大傾注から、救われることなく立ち去った。永遠の暗闇に向かって行ったのである。数ヶ月後、彼は金がなくなって、友人たちもいなくなった。ある晩、医者が立ち寄って、私に言った。「リースさん、私たちの友人が死にかけています。彼を見舞いに行きませんか?」。その医者も救われていなかったのだが、人がだれにも祈ってもらわずに準備のできていないまま永遠の中に入るのを見たくなかったのである。われわれは彼の家――美しい家――に駆けつけて、その部屋に入った。彼はまさに死にかけていた。彼を一目見て、彼にはもうチャンスがないことがわかった。彼は絶望的状態だった。それでも、落胆して金切り声を上げている彼の妻のために、彼女の懇願のゆえに、私は彼の方にかがんで、「兄弟よ、祈れますか?」と尋ねた。諸君、私は正真正銘の事実をあなたに話している。「祈ろうとすると、地獄が私を押さえつけるのです」と彼は私にささやいた。彼は手を胸の上に下ろし、少しして死んだ。諸君、私はこれまで集会中に聖霊を感じてきたし、聖徒が天のふるさとに行く時、身近に御使いたちの存在を感じてきたのだが、それと同じようにその時、私は黒い翼の悪鬼どもがその死の部屋にいて、この呪われた霊を永遠の絶望の領域に連れて行くのを感じたのである。

私はこの御言葉が述べている階級を代表する別の人が死ぬのを見た。ある商人が死ぬのを見た。その商人は成功の道を駆けて来た人で、人の目から見るかぎり、この世で目的を遂げた人だった。しかし、彼には神も希望もなかった。彼は今晩人々が聞いているような話を聞いた。何度も何度も福音の知らせを聞いた。キリストのもとに来るよう招きを受けた。しかし、キリストを拒んだのである。彼が地獄に落ちた日のことを私は覚えている。最も聖徒らしい私の教会員の一人が、彼を訪問して来たるべき御怒りから逃れるよう彼に警告するようにと、神から霊感を受けた。彼女は行ってこのメッセージを伝え、彼に警告した。彼は冒涜的ではなかったが、この問題を冷淡に扱って、商売に行ってしまった。その聖徒の姉妹が五区画ほど歩いて行くと、だれかがその後を追いかけてきた。その間、私は彼の家から半区画しか離れていない自分の机に座っていたのだが、金切り声が聞こえてきた。その金切り声は地上のものではないことが私にはわかった。私がその人の事務室に入った最初の人間だった。彼が死ぬ時、そこには私しかいなかった。彼は床に倒れて、二分もしないうちに地獄に落ちたのである。諸君、私はあなたたちに言いたい。数時間、数日間のあいだ、私は呪われた霊どもの存在をありありと感じたのである。それで私は妻に言った、「私たちの家の近くで、再びだれかが死んで地獄に行くようなことがあってほしくない」と。数日間、大気が硫黄で満ちているように私には思われた。あなたはこれを空想と呼ぶかもしれないが、われわれの中の数名にとってこれは現実そのものである。いつの日か、あなたにとってもこれが現実になるだろう。神、天、悪魔、地獄は実在する。罪は罪であり、罪は恐るべきものである。神なき生活は恐るべきものである。神は神であることが確かなことであるように、キリストと救いを受けずに死ぬ人々が永遠に地獄で呪われることになるのも確かなことである。たとえそれがあなた自身の子供だったとしても、また、たとえそれがあなたの愛する親族だったとしても、これは確かなことである。自分の親族はみな天に行く、と思い込むのは愚かなことである。皆の親族が天に行くなら、われわれは宣べ伝えをやめた方がいい。あなたの子供たちは危機に瀕している。あなたの友人たちや親族たちは、イエス・キリストによって救われないかぎり、永遠に地獄で呪われることになるのである。

私はある教会員が死ぬのを見た。教会員の大勢がこの人のようになるだろう。この女性はその地で私が牧師を務めた二年間の間、私の会衆の会員だった。彼女は若い女性ではなく、八十歳だった。リバイバルに賛成ではなく、一度もわれわれを助けてくれなかった。八十年のあいだ、その教会の会員だった。今晩、あなたは教会員かもしれないし、福音の説教者かもしれないが、地獄で永遠に呪われることになるかもしれないのである。私は今晩あなたに警告したい。教会籍、バプテスマや他の儀式、自制の決意やその他の類のものは決してあなたを救わない。あなたの存在の中から罪を取り除いてあなたを地獄から逃れさせることができるのは、イエス・キリストの血と聖霊の火である。この女性の娘が私を呼んだので、私は彼らの家に駆けつけた。彼らの家はその地域で最上の家だった。「小金を稼いで子供たちに何か残せれば上出来である」と人々は思っている。諸君は知っているだろうか?この国で最上の家庭の出身者たちのほとんどが地獄に向かっているのである。極上の家を持つ人々、並木の街路や通りに面している極上の家庭の多くが、悪魔の地獄への途上にあるのである。それは、神のひとり子であり、罪人の唯一の希望である、イエス・キリストを拒否しているからである。「善良な人々は救いを受けていなくても救われている」という多くのたわごとに心を奪われないよう、神がわれわれを助けてくださいますように。善良な人々はたとえ道徳的だったとしても救われているわけではない。救いはただイエス・キリストの血によるのであり、さもなければ地獄で永遠に呪われることになるのである。

私がその家に入ると、彼女は床間を歩きながら私を見つめ、嘆いて「私は失われた、私は失われた」と言った。「御霊がこの人を覚醒させておられるのだ」と私は最初思ったので、「イエスが来てくださったのはまさにあなたのような人々を救うためなのです」と彼女に言った。しかし、彼女は言った、「いいえ、もう手遅れです。救われる可能性もあったのですが、私は失われています。御霊は私に警告し、勧告されたのに、私は『嫌だ』と言ったのです」。彼女はその日の昼も夜もずっと床間を歩き回り、嘆いて「私は失われた!」と言い続けた。夕食も朝食も食べず、翌日も嘆いて取り乱しながら、ずっと家の中を歩き回り続けた。彼女は八十歳を過ぎた、善良なクエーカーの老女だった。健康は良好で、知性もしっかりと働いていたが、嘆いて「私は失われた!」と言いつつ、昼も夜もその家の中を歩き回り続けた。私は祈ろうとしたのだが、天は青銅のようだった。嘆願の祈りができなかったのである。彼女は来る日も来る日も、昼も夜も家の中を歩き回り、とうとう弱って歩けなくなり、肘掛け椅子に座って、嘆いて「私は失われた!」と言うようになった。私は彼女を訪問したが、とどまることができなかった。彼女の親戚もとどまることができなかった。「とどまって母の悲鳴を聞いていられませんでした」と娘は言った。彼らには金があって人も雇っていたが、雇い人たちもとどまろうとしなかった。「人は金のためなら何でもする」と人は言う。諸君、そんなことはない。金のためでもしたくないことがあるのである。この老女が髪を掻きむしるのを見ることや、悲鳴と「悪魔どもが追いかけてくる」という言葉を聞くことを望む人はだれもいないだろう。こういうわけで、人々は来ては去って行った。彼女が弱り切って椅子に座れなくなると、人々は彼女をベッドに寝かせた。それでも、彼女は嘆いて「私は失われた」と言ったのである。彼女は食物も睡眠も取らなかった。病気ではなかったが、その声は弱くなっていった。それでも、彼女は「私は失われた、私は失われた」と言ったのである。「彼女の身内の者たちさえもその家を離れなければならなかった」と私があなたたちに告げる時、私はあなたたちに確かな事実を告げている。彼らは善良な教会員の悲鳴や叫びに耐えられなかったのである。彼女が地獄に行こうとしていることに耐えられなかったのである。一人の呪われた人ですらこの地上でこんな状況を造り出せるのだとすると、数百万倍の人々がこの最後の一大祈祷会に共に集まって祈ったらどうなるのか?ああ、これは恐ろしいことである!

私はあなたに言う。われわれの周りで人々が死んでいっているのである。われわれが開くどの野外集会でも、ある人にとってはそれが最後のチャンスである。そして、「いいえ」と言うなら地獄に行くのである。われわれが持つどの大会やリバイバルでも、人々は生死を分かつ線を越える。「はい」と言う人はみごとに救われ、「いいえ」という人に対してあわれみの扉は永遠に閉ざされる。どうかこの野外集会で神がわれわれを助けてくださいますように。御霊の懇願に「いいえ」という人に対してあわれみの扉は閉ざされる。彼らは死線を越えて、二度とチャンスはない。クスクス笑いをしている少女がこの幕屋の裾にいるかもしれないし、教会に行く時、行儀良く振る舞うほどの分別がない人もいるかもしれない。しかし、諸君、彼らはいやというほど祈るようになるし、山と岩に向かって「われわれを覆って、御座にいます方の御顔から、かくまってくれ」と、いやというほど求めるようになるのである。若い女性よ、私は今、あなたの葬式説教をしているのかもしれない。死期が近づいている人がこの幕屋の下にいたとしても私は驚かない。私があなたに話していることは、死が現実であるのと同じように現実なのである。

あまり大昔のことではないが、私は中年のある人に宣べ伝えた。その人の健康は良好で、活力に満ちていた。彼は聴衆の中に座って、あなたたちに与えられているのとまさに同じ機会に恵まれた。彼は「いいえ」と言った。彼は日曜の朝に教会にやって来たが、その時、三十五人の若者が祭壇に伏して自分の心を神にささげたのであった。その人は少し離れた後の会衆席にいて、「いや、今晩はだめだ」と言った。そして、彼がそう言った時、あわれみの扉は閉ざされて、彼は死線を越えたのである。その教会の牧師はきわめて敬虔な人だった。その日、彼と一緒に食事の席に着いた時、彼は私に言った、「リース兄弟、今日、私はジョージのことで奇妙な感覚を感じています。私が午後二時半の教会学校に行く時、だれかが私に会って『ジョージ・何某さんが亡くなりました』と告げたとしても、私は驚かないでしょう」。彼のこの言いようを聞いて、われわれは奇妙な気持ちになった。それから三十分から四十五分ほどして、彼は教会に行った。すると、彼に最初に会った人が、「牧師さん、ジョージ・何某さんが亡くなりました」と言ったのである。ジョージは死線を越えたのである。最後のチャンスがあったのに、地獄に落ちたのである。

しばらく前に、私はある女性に宣べ伝えた。その女性は夜中の九時半に神に対して「いいえ」と言い、十一時には死んで地獄に行ったのである。ああ、諸君、これらのことは現実である。この人々は裁きの日にそこに行くことになるのである。最後の一大祈祷会に行くことになるのである。この人々はあわれみをもてあそび、恵みをもてあそび、自分の魂の永遠の益をもてあそんでいるのである。

私が開いていた野外集会の一つに、邪魔をする少年たちの一団がいたのだが、邪魔をした主犯者は一人また一人と地獄に落ちていった。その一団のボスは説教者の息子だった。彼はある日線路を横切り、特急列車にはねられて、一瞬のうちに地獄に落ちたのである。ああ、私はこれらのことを見てきたのである。聞いてきたのである。葬式で説教するよう呼ばれてきたのである。そしてとうとう、私は葬式説教者を辞めてしまった。亡くなった人がキリストにあって死んだことに確信がないなら、葬式で説教することにあまり価値があるとは私は信じない。ああ、諸君、瀕死の人々が泣き叫んで悲鳴を上げるのを私は聞いてきた。私は底なし穴に落ちて行った人の葬式で説教したくない。あなたが自分の生活の中でキリストの御霊を体現していないかぎり、たとえあなたが聖潔の教師だったとしても、私はあなたの葬式で説教したくない。

ミシガン州に、福音のメッセージを聞いた若い男性がいた。その男性は「私の心を今晩神にささげるつもりはない」と言った。彼はいつもどおりに休み、翌朝姿を見せないので、その弟は杖を取って「寝床から叩き出してやろう」と言った。しかし、兄は硬直して冷たくなっていたのである。地獄に落ちてから数時間たっていたのである。神に背を向けることは割に合わない。キリストを拒むことは割に合わない。光を拒むのは恐ろしいことである。この野外集会は運命を決める集会である。決着をつける集会である。神に感謝すべきことに、神と天に自分をささげている人々がいるのである。

ペニントン兄弟はわれわれの郡で開かれたリバイバル集会を覚えているだろう。神の力を全員が感じた。大いなる認罪が臨んだ。酔っぱらいは救われ、冒涜的な人々は誓うのをやめ、多くの人が救われて聖められた。その地域には六人のノコギリ職人がいて、みんな不敬虔な人だった。彼らはその集会に出席して、クエーカー教会の後部座席に座り、真理に耳を傾けた。彼らは警告に次ぐ警告を聞いた。御霊は大いなる御力で彼らに働かれた。ある晩、彼らのうちの三人が祭壇に突進して救われた。そして、神にあって喜びつつ去って行った。他の三人はキリストを拒んで受け入れなかった。翌日の十一時のことである。蒸気機関が爆発して、この六人は一瞬のうちに永遠の中に投げ込まれたのであった。リバイバルは運命を決めるのである。

あなたは今晩祈らないかもしれない。明日も祈らず、十年間祈らないかもしれない。突然の災難があなたを襲うことはないかもしれない。しかし、あなたはいつか祈ることになる。手遅れになってから祈るかもしれない。大部分の人は神やイエスに向かって祈るのではなく、パイク山、ロング山、アレゲーニー山脈、ブルーリッジ山脈、グリーン山、ホワイト山、カンバーランド山に向かって祈ることになるだろう。彼らは岩と山とに向かって「われわれを覆って、御座にいます方の御顔から、かくまってくれ」と祈るだろう。それは恐ろしい時である。用意のできていない者にとって、神の臨在は地獄よりもひどいものである。諸君、時が迫っている。その時、青ざめた死者の諸国民たちは自分の墓から起き上がり、墓場は大いなる保管品を明け渡し、海は死者を引き渡し、四百五十人乗せて沈んだ蒸気船アシュタビーラの灰は立つ――この人々はみな水から出て来て、世界中の死者がよみがえる。そして、救われていない者はこの最後の日にそこにいて、この祈りを祈るのである。あなたもそこにいることになるのだろうか。

私が感じる最も悲しいことの一つは、すべての偽善者や、聖潔の偽教師たちがそこにいるだろうということである。騙された人々、他人を騙す人々、狂信に陥った人々、キリストを表しているつもりで自己を表していた人々、口では何でも言っていたが中身は空っぽの人々――彼らはそこに行くことになる。口先だけの言葉はあなたを地獄から守らない。あなたは本物を得なければならない。「私が地獄に行っても、私には仲間がたくさんいる」と言う人もいる。たとえそうでもあなたは少しも満足しないだろう。そこにこの世の楽しみはない。だれもが忙しくて、あなたに注意を払う時間のある人はだれもいない。一人っきりで他のだれからも千マイル離れているかのように、あなたは恐ろしく感じるだろう。他の人々が地獄に落ちても、それは決してあなたにとって慰めにならない。救われずに呪われたまま、地獄で永遠に失われるというこの恐るべき現実を見ることができるよう、神が今晩われわれを助けてくださいますように。

王たち、祭司たち、偽預言者たち、醸造業者たち、酒場の経営者たち、路上生活者たち、悪党ども、遊女たち、貧しい人々、富める人々、黒人、白人がそこにいるだろう。逃れたければ、神に来たれ。

私の全存在、そして私が団体の中で享受しているものはみなキリストのおかげである。神をどれほど賛美しても賛美しきれない。私が完全に享受している団体の中に、神は私を連れて来てくださった。どこに行っても、自分の民がわからないことは少しもないし、彼らを受け入れるのを躊躇することも少しもない。神が私を罪と地獄から救ってくださったこと、タバコ、不敬、安息日破り、罪深い他のことから救ってくださったことを、私は神に感謝する。私はどれほど神に感謝していることか。私はこの最後の一大祈祷会に出なくていいのである。この祈祷会が開かれている間、一大賛美集会が開かれるのである。それに出席することを私は楽しみにしている。

時々、祈って弱り果てそうになることがある。スラムで働いているわれわれの親愛なる少女たちは、祈って神経衰弱になりかけることがある。しかし、それは無駄ではない。失われた魂のために人々が経験する神経系への負担――男たちや女たちを火の中から引き上げるために彼らは全力を尽くすのである――を描写することは全く不可能である。

人々が岩や山に向かって呼ばわっている間、われわれは叫びながらイエス・キリストと共に空中を通り抜けて、永遠に彼と共に住んで支配するようになる。

死に瀕している人々に言いたい。私が告げたこの祈りの集会に行く必要はない。あなたは祈り、叫び、不正をただし、曲がっているものを真っ直ぐにすることができる。そうするなら、神はあなたの魂を救ってくださる。そして、あなたは神を賛美するようになって、この最後の一大賛美集会に参加するだろう。罪に背を向けて、神に立ち返って救いを求めるよう、どうか神が今晩あなたを助けてくださいますように。

微塵の疑いもなく救われて聖められている人、突然の死が突然の栄光になる人が、この聴衆の中にどれくらいいるだろう?

* * *

彼が話を終えた時、この大集団の上に恐ろしく厳粛な雰囲気が臨んだ。それは厳粛な瞬間だった。この大審判の日のための備えができていることを確信している人は、全員立ち上げるよう求められた。数百人が立ち上がった。それから、その用意をすることを願う人は立ち上がって、祭壇まで進んで来るよう求められた。大勢の人がやって来た。力強い祈りの時間の後、多くの人が平安を見いだしたのであった。