ある水曜日の午後、エバン・ロバーツと話していた時のことです。彼は、「市場の集会で『突破口』は開かれましたか?」と尋ねました。「いいえ!」と私は答えました。彼は言いました、「なぜ開かれなかったのでしょうか?」。私は答えました、「私に力がないせいだと思います」。「でも、あなたには力があります」と彼は言いました。私は、「力はあまりはっきりと現れませんでした。私の言葉が罪を確信させられなかったからです」と答えました。これに対して彼は言いました、「あなたには力があることを私は知っています。なぜなら、あなたには聖霊があるからです。力とはパースンなのです」。私はこれを知っていましたが、よくわかっていませんでした。そこで、彼はさらに説明して言いました、「集会には三種類あります――第一は人々があなたの言葉に応答する集会、第二は人々が無関心な集会、第三は人々が敵対する集会です。どの集会でも、あなたには同じ力があります。しかし、力はあなたに対して同じ形で現れるわけではありません。それは石を打つ人のようです。その人は何十回も石を打ちます。すると、最後の打撃で石が割れます。では、石を割ったのはどの打撃でしょう?」。私は言いました、「もちろん、どの打撃も同じです」。「そのとおりです。それと同じように、あなたが聖霊に従って語ったどの言葉にも同じ力があります。ただ、目に見える結果が現れないだけです」。彼は言いました、「たとえ何の応答もなくても、あなたは喜んで聖霊によって語りますか?」。私は「はい」と答えました。「では、あなたが次に市場で語るメッセージには応答があるように祈りましょう。ただし、その次のメッセージには応答がないかもしれませんが、それでもよろしいですか?」。「アーメン」と私は言いました。
翌朝、私の同労者と私は、市場にいる腹を空かせた人々に無料で朝食をふるまうために出かけました。私が最初に語り、次に同労者が続きました――その集会では、どちらの話にも目に見える応答はありませんでした。しかし、私たちが群衆を残して立ち去ろうとしていた時、私は再び人々の方に振り向いて、素っ気なく言いました、「あなたたちは本当は私たちの証しを信じていないのではありませんか?もし信じていたら、今の生活を続けようとするはずがありませんし、罪と不幸から救ってくださるキリストの栄えある救いを熱心に受け入れようとするはずですから。今朝、罪を放棄してイエス・キリストを救い主として受け入れる人は一人もいないのですか?」。私は一人の人を指さして言いました、「あなたはキリストをあなたの救い主として受け入れますか?」。すると、その人は直ちに「受け入れます」と答えました。私は言いました、「それでは、あなたの手を上げて信仰を表明し、『私はイエス・キリストを私の主、救い主として受け入れます』と言ってください」。その人はそのとおりに行いました。私は向きを変えて一人の老人を指さし、同じ言葉を語りました。すると、その老人は直ちに、「受け入れます」と応じました。再び三番目の人に同じ質問をしたところ、その人も「受け入れます」と言い、キリストを自分の救い主として告白しました。私の訴えに対するこの突然の予想外の応答は、私を圧倒せんばかりでした。神の御霊がこれほど働いておられたので、もし私たちがさらに続けていたら、十数人の魂を刈り取ることができたでしょう。しかし、敵が妨害者としてやって来て、いくつかの質問に関して議論することを欲しました。そこで、私たちは集会後の即興の訴えをやめなければなりませんでした。三人の人が私たちに加わって、神をほめたたえました。
このように神の御霊は、「私たちが内側に聖霊を宿しているかぎり、私たちが神に頼り、『信頼して従う』時、神に召された奉仕に必要な力はすべて本当に与えられる」というエバン・ロバーツの言葉を証明してくださったのです。
H.マスグレイブ・リーズ