祈りと行動

とりなし手への言葉

エバン・ロバーツ

「勝利者」誌 1909年 第1巻 1月号 初出

「そこで主はモーセに言われた、『なぜあなたは私に向かって叫ぶのか?前進するようイスラエルの子たちに語りなさい』」(出エジプト14:15)。「なぜあなたは叫ぶのか?」。この御言葉は今日、神の教会に向かって語られる必要があります。教会は叫んできましたが、今、教会は行動しなければなりません!前進しなさい――行動しなさい!あなたたちはリバイバルのために、世界的リバイバルのために、宇宙的リバイバルのために、十分長く祈ってきました。さらに叫べというのでしょうか?今は叫ぶ時ではなく、語る時です。モーセは祈りましたが、それでは不十分でした。「前進せよ」と語ることが命令でした。

効果的に祈るには、多くのことを学ばなければなりません――神、人、罪、サタンについて多く学ばなければなりません。祈りの中で宇宙的な諸問題を扱う時、私たちは常にこの四つの点を考慮しなければなりません。特に、私たちの大敵である罪とサタンについて、自由意志を持つ人について、主権を持つ神について考慮しなければなりません。神――は世界的リバイバルとどのように関係しているのでしょう?はどのように関係しているのでしょう?罪とサタンはそのどこを妨げようとするのでしょう?神はリバイバルを願っておられるのでしょうか?それなら、なぜこんなに長く叫ぶのですか?が道を邪魔しているのでしょうか?それなら、神をして人を「かがませ」なさい!

もし罪とサタンがリバイバルを妨げているなら、対抗する武器としてキリストの十字架を用いようではありませんか。なぜなら、こう書き記されているからです、「それは、彼が死を通して、死の力を持つ者を滅ぼすためです」。「私たちの古い人が十字架に付けられたのは、この罪の体が滅ぼされるためでした」。この二つが滅ぼされるよう、祈ろうではありませんか。「主よ、罪とサタンを滅ぼして下さい」と言おうではありませんか。しかし、「神は罪とサタンを一度に滅ぼすことはできない」と言う人もいるかもしれません。否!それは真実ではありますが、両者の滅びは漸進的なのです!罪とサタンが働いているのを見るときはいつでも、即座に「主よ、滅ぼして下さい!」と言おうではありませんか。

自由にされた」――これは私たちにあてはまるでしょうか?もしあてはまらないなら、罪に束縛されているところがどこかにあるのです!罪を自覚していながら、その罪に対して死ぬことを拒否する瞬間、私たちはもはや、罪に対して「死んだ」という立場に立ってはいません。私たちはそれを別の名称で呼ぶかもしれませんが、もしそれが罪であるなら、それを罪と呼んで、神に罪を取り除いてもらいなさい。私たちが罪や疑わしい事柄にしがみついている限り、私たちは前進することはできません。ですから、ローマ6章に基づいて前進しようではありませんか――この世界を救うために前進し、神と共に前進し、霊と思いの一の中で前進しようではありませんか。聖霊の力の中で前進しなさい。

エバン・ロバーツ