真理は自ら効力をあらわします。草の上に降った雨のように、真理は根元に落ち着きます。
教会が大いに必要としているのは、教会が自分のためには何事も必要とせず、ただ犠牲のみを必要とする所に引き上げられることです。
私たちは自分たちが生きている水準から他の人々を眺め、その水準に彼らを引き寄せます。
人々は自分の欲するものをすべて得ようとこの世を行き巡ります。しかし、もし彼らが落ち着いて自分に訪れる物事をすべて受け入れるなら、失望することはないでしょう。
罪はすべてを場違いな所に置きます。十字架はすべてを正しい所に置きます。カルバリはすべてをあるべき所に置きます。それは神にしかるべき地位を与えます。そして、悪魔をしかるべき地位に置きます。
「わたしは彼女を荒野に誘おう」(ホセア二・十四)。都の宮殿に誘われるのではありません。見るべきもの、注意を引くもの、養ってくれるものが何もなく、主ご自身しかない所に誘われます――そこで主は彼女の心に語られるのです。彼女はすべてそろっている所から何もない所に連れて行かれますが、その時、神がすべてとなられます。「彼女はそこで歌うであろう」(十五節)。子供たちは何も持っていないとき歌います。なぜなら、重荷が何もないからです。彼女は「若かった頃に戻り」――何も持っていませんが歌います――彼女は神を持っているのです。
エバン・ロバーツ