集会について

ガーンジーでの働き人の集会で取られたメモから

エバン・ロバーツ

「勝利者」誌 1909年 第1巻 12月号 初出

「妨げられた」集会はふるいにかけて分ける必要があります――誰でも去りたい人には去る機会を与えなさい。次に、残った人たちを取り扱います。集会では相互に責任があります。もしある人に光があるなら、その人は語るべきです。神はその光を異なる人々に分け与えられます。集会を助けるため、あなたの見ていることを語りなさい。人がどう思うか気にして、従わないようなことがあってはなりません。

集会中、神と共に働くために、あなたは導きを理解しなければなりません。神は二つの方法で導かれます。神は光によって、そして合一によって導かれるのです。すなわち、「主に結合される者は主と一つ霊です」。一つでも、一つ「体」でもありません。あなたはあなたの霊の中で神と結合されており、神はあなたのから動かれるのです。集会が抑圧されていて神が動けない時、あなたはあなたの霊から動くことはできません。しかし、多くの人は「感動」を感じない限り、行動しようとしません。思いは活動できて、何が正しく、どうするのが最善かわかっているにもかかわらずです。神の二重の導きを学びなさい――思いによる導きと、霊による導きです。例えば、思いによる導きについては――集会をゆっくりさせる必要性をあなたが見る時――あなたは立ち上がって言います、「今、静まりましょう――今、どうかお祈り下さい――主の祈りを繰り返しましょう――穏やかな賛美歌を歌いましょう」。これはあなたの霊からの導きではなく、あなたの思いによる導き、知識による導きです。別の時、あなたは霊感によって導かれます。一瞬であなたの霊は感動を受け――あなたは立ち上がり――あなたの内に燃えているものを注ぎ出します――あなたは集会に応対します――あなたの霊の中にこの感動が訪れる時ためらうなら、あなたは力を失います。今、あなたは理解するまで待っていてはなりません。あなたは立ち上がって語らなければなりません。あなたの霊から溶岩が湧き上がって、あなたの頭脳の流路を通して注ぎ出ます。それが神からなら、神がそれを認めて下さいます。

「私は話すよう導かれたと感じます」と言わないで下さい。あなたはたちまち疑いを蒔いてしまいます。本当に神から 感動を受けた人たちは、そうは言いません。彼らは自分自身のことを何も考えずに語ります。あなたが「私は導かれたように感じます……」と言う時、しばしばそれは語るための弁解なのです。もしあなたが間違っているなら、に責任があることになってしまいます。一般的に言って、そのような人には座っていてもらいたいものです!「導かれた」と言わないで下さい。神がするようあなたに示されたことだけして下さい。そして、あなたが「導かれた」のかどうか、神に証明してもらいなさい。

あなたは集会中、あなたの霊と共に暗闇の軍勢に抵抗しなければなりません。一人の魂が神に抵抗するなら、神の働きを妨げることができます。それならなおさら、悪魔に抵抗することにより、私たちは悪魔を妨げることができます!あなたの力によってではなく、神の力によってです。「あなたたちの内におられる方は、この世にいる者より偉大です」。もしあなたが悪魔に抵抗する決意をするなら、神があなたと共におられます。神はあなたと共に抵抗して下さいます。悪魔についてはできるだけ話さない方が良いのです。悪魔がすべてのすべてとなるのではなく、「神がすべてのすべて」とならなければなりません。悪魔が私たちを攻撃している間だけ、私たちは悪魔を対処します。悪魔が彼の偽物を下ろすなら、私たちは偽物について話すのをやめます。

集会を神に委ねて、集会が神に喜ばれる形を取るようにしなさい。集会を「仕上げ」ようとしたり、一つ一つの集会を成功させようとしたりしてはいけません。働きに関するすべての心配、リバイバルに関する熱意は止まなければなりません。目に見える結果で神の働きを判断してはいけません。三週間祈ったダニエルを考えなさい――目に見える「結果」は何もありませんでしたが、その間ずっと天使は勝利を得ていたのです。

集会では自己中心になってはいけません。すなわち、自分自身の個人的必要に占有されてはいけません。人々は自分たちのために祝福を取るべきであり、次に同じ祝福を他の人々のために求めるべきです。

エバン・ロバーツ