少し前に数人の働き人がエバン・ロバーツ氏と会話した際、私たちはそのメモを取ったのですが、これは神の多くの子どもたちの助けになると思います。この会話は日常的な会話であり、一人か他の人が思いついた質問を尋ねた時のものです。
Q. 導きの問題について説明していただけますか?
A. あなたは、神があなたを一歩一歩導いてくださる、と信頼しなければなりません。そして、あなたが霊の中に受けるかもしれないいかなる導きについても、自分自身の結論に飛びつかないように注意しなさい。思いが霊を誤解するおそれがあるからです。例えば、あなたが霊の中である場所に引き寄せられるのを感じたとします。すると、あなたの思いが働き始めて、何のために行かなければならないのか考え、偏見の無い心でその場所に行く代わりに、その場所に関する自分の知識に基づいて一つの結論に至ります。これが導きに矛盾が生じる原因です。人々は、ある特定の場所に行くよう「導かれた」と言いますが、いざ現場に着いてみると結局のところ状況は正反対であることがわかるのです。この「導き」は本物だったのかもしれませんが、思い込んだ結論が間違っていたのです。
あなたが本当に聖霊によって導かれている時、あなたは単純かつ自発的に行動し、自分の行動について弁明しようとは思いません。導きは二重です:(a) 霊の中の導きと、(b)思いまたは知性を通しての導きです。霊の中で引き寄せによって導かれ、光で照らされた思いの中で直感的知識によって導かれます。この両方の導きにより、あるいは片方の導きにより、何を、どのように、いつ行うのか、クリスチャンはわきまえなければなりません。
いわゆる「導き」の多くは敵からであることがわかるでしょう。それらの導きは、霊的理解力が少しでもあるなら過ぎ去らせることができるのです。導きに関する多くの考えは「悪鬼どもの教え」の一部であり、そこから多くの教えが発しています。行動する前に「感動を受けること」を常に待つことは、思いや体を受動的な状態にさせてしまいます。これにより、悪霊どもの働く条件が満たされてしまいます。
Q. 「受動的」とはどういう意味ですか?
A. あなたが全く静かにしている時、あなたは自分自身を活動に備えています。しかし、あなたが「受動的」である時、あなたには活動する力がありません――あなたは何か行うべき事を見るのですが、それを行うことができません。悪霊どもが人の中で働くための主要な条件は受動性です。これは機能や器官を、それを使うべき者以外の他の力に好きなように使わせることです。悪霊どもがこの機会を利用する時、この受動性の程度と度合いに応じて、行動する力は大幅に減退してしまいます。
Q. 聖霊に満たされることについてはどうでしょうか?これは、敵は霊に触れられなくなることを意味するのでしょうか?
A. 霊が動かされるのは三つの方法によることを、あなたは知らなければなりません。聖霊によるか、あなた自身によるか*、サタンの霊によるかです。どれがどれか、あなたは察知できなければなりません。あなたは、ある「印象」を神からであると思うかもしれませんが、自分の霊の中に混ざり物があることを知らずにそう思うかもしれません。それが導きを純粋なものではなくしてしまうのです。
* つまり、「彼ら自身の霊」(エゼキエル十三・三)
「御霊に満たされる」ことは、容量いっぱいに満たされることを意味するにすぎません。容量には大小があり、それゆえ、「満たされる」ことにも程度の差があります。使徒たちは聖霊で満たされ、そして「知恵」で満たされました。「聖霊」は力であり、「知恵」は聖霊といかに協力するのかに関する知識です。知恵が必要です――霊の中に力が必要なだけでなく、思いの中に知恵が必要です。御霊の満たしにより、知的な知識が奇跡的に与えられることはありませんが、「御霊の賜物」の中には超自然的な知識をもたらすものもあります――聖書は「知恵」と「知識」の賜物について述べています。御霊のバプテスマは霊的知識をもたらしますが、知的知識はもたらしません。それゆえ、知識が不足しているせいで、間違いや大失敗が起きるのです。ですから、神が与えることを願っておられる賜物(複数)を神が与えてくださるよう、信者は求めようではありませんか。
聖霊に満たされるのは一つのことです。しかし、霊を極みまで用いるには、私たちは暗闇の勢力との戦いについて知らなければなりません。あなたは勝利を得るまで、彼らと「格闘」しなければなりません。人々は敵の力を知りません。敵に対する霊的抵抗について理解していないからです。攻撃は霊に来るので、暗闇の勢力に対して抵抗するには霊を用いなければならないのです。霊を用いれば用いるほど、ますますあなたは霊の何たるか、魂の何たるかを知り、聖霊に治めてもらうことを学ぶようになります。霊の条件や霊の活動の条件について多く述べられていますが、それは霊が下降しているか上昇しているか、強いか弱いか、活動しているか不活発かについて述べているのです。
Q. 現在、クリスチャンの働き人の多くは、霊の戦いに知力――あるいは魂の力――を用いていますが、どのようにして彼らに霊の力を用いさせればよいのでしょう?
A. 彼らに暗闇の勢力について教えなさい。例えば、あなたは「疲れて」おり、この「疲れ」が暗闇の勢力の圧迫によるものだとします。あなたは抵抗するでしょうか?いいえ、なぜなら、あなたは「戦いは主のものである」と言って何もしないからです!あるいは、あなたは「疲れた」と言うだけです。疲れた状態が自然なものなのか超自然のものなのか、あなたにわかるでしょうか?もちろん、あなたは「自然なものです」と言います。もしそうなら、あなたが思い込みで取った立場により、戦いは止まってしまいます。なぜなら、あなたは「自然」なものには抵抗しないからです。その結果、あなたの誤った仮定により、あなたは自分の霊を用いることを妨げられ、霊を強められることも妨げられてしまいます。もし、疲れたという感覚が超自然的勢力によって引き起こされ、あなたがそれを自然なものに由来すると思い込むなら、その時、その疲れをもたらした悪霊どもはあなたに勝利し、あなたは勝利を失います。彼らがあなたに勝利するのは、あなたの思いの中に嘘を入れることによってです。これらの悪霊どもを認識すること、彼らに対して戦うこと、そして、あなたの霊を常に用いて抵抗し続けること、これが勝利を得るための一つの条件です。私たちの内側や周囲の状況の原因を認識しなければなりません。それには、私たちの古い観念の多くを捨てる必要があります。それらは思いの中にある妨げです。例えば、「あなたはクリスチャンも悪霊に取り憑かれることがあると思いますか?」という問いに、「いいえ」と答えたとします。すると、この思いは真理に対する妨げになってしまいます。「あなたは欺かれるおそれがあることを知っていますか?」。「はい」。「あなたは警戒していますか?」。「はい、日毎に警戒しています」。それなら申し分ありません。思いと霊、思考と霊の間には適切な関係がなければならないことがおわかりになるでしょう。
思いの中で友人を妬んでいる、ある一人の人を考えましょう。その人は友人のなすことすべてを妬みの思いで見てしまいます。これは暗闇の勢力の働きかもしれません。「何某は高ぶりに満ちている」とあなたが思っているとします。彼のすることは何でも、たとえそれが謙遜と無私の極みの中で行われたものであっても、あなたは彼の中に高ぶりを見てしまいます。一つの考えを取り除くのに多くの時間と祈りが必要になることがかなりあります。これが祈りの生活の働きです。祈りの目的の一つは、たとえどんなに時間がかかったとしても、間違った諸々の考えを取り除くことでなければなりません。間違った考えを全部考えてみてください。人々は「血を要求」しますが、依然として間違った考えが残っているのです。彼らのなすべきことは、祈りによって嘘――思いの中にある間違った考え――に抵抗し、真理をもって嘘を取り除いてくださるよう神に求めることです。悪魔は常に、注入しうるかぎりの嘘を思いの中に注入しようとしています。
かなりの「神学」の中に膨大な妨げが存在します。特に、神に関する誤った考えの中に膨大な妨げがあります。多くの人は彼らの神学の大部分を神のたった一つの属性の上に築いてしまいます。しかも、その属性についても間違った観念を抱いているのです。「ああ、神は愛です」と彼らは言いますが、この愛の観念が間違っています。「神が愛である以上、神は喜ばしいことしか自分たちになさらない」と彼らは考えます。彼らは神は義であることを見ていません。「喜ばしいことはすべて神から出ており、痛ましいことは悪魔から出ている」と彼らは考えるかもしれません――実はその正反対の場合でも、そう考えてしまうかもしれないのです。神は私たちの益のために苦難を送られるかもしれませんし、悪魔は私たちを害するために喜ばしいことを送ります。
Q. なぜ聖霊のバプテスマを受けた人々は、導きや行動に関して、しばしば敵によって誤導されてしまうのでしょう?
A. 聖霊のバプテスマを受ける時まで、クリスチャンは原則に基づいて神に従います――善悪の感覚に基づいて神に従います。しかし、人が聖霊でバプテスマされる時、その人はパースンとの交わりの中に入ったことを意識するようになり、パースンに従い始めます。この時、悪霊どもはこのパースンを真似し始め、その人は誤導されやすくなります。悪霊どもの存在と彼らの働きの方法を知って、あらかじめ武装しないかぎり、そうなのです。
聖霊のバプテスマの直後、誘惑はすべてやんだように思われますし、まるで「悪魔はいない」か、あるいは、信者に触れられないかのように思われます。しかし、敵はかつてないほど忙しくしているのです。なぜなら、敵は神の働きを真似る計画を練っているからです。罪への誘惑はやんだように見えます。しかし、敵が誘惑するのをやめたのはただ、自分自身の状態に対して、そして、それを使って魂を欺こうと計画している神聖な事柄の偽物に対して、魂を盲目にする目的のためなのです。
御霊によってバプテスマされた信者たちは、超自然の領域には二つの霊の勢力が存在することを悟り、両者をいかに識別するか知らなければなりません。彼らは悪霊どもの存在を悟り、神の働きの偽物の存在の可能性について知らなければなりません。「もし顕現に疑念を抱くなら、神を悲しませることにならないでしょうか」と彼らは言います。しかし、疑がわしいものを受け入れるなら、それもまた神を悲しませることになるのです。もし神の願いが彼らが神聖なものを受け入れることなら、神にそれを明らかにしてもらいなさい。それは、彼らがそれに関していかなる疑念も持つことがないためです。なぜなら、「信仰から出ていないことは何であれ罪」だからです。「それは神聖なものだと思います!」とあなたは言います。しかし、あなたは確信しなければなりません。あなたの試しを試さなければなりません。あなたの証明を証明しなければなりません。「思うこと」は確信ではありません!あらゆる超自然的な働きの源を確認し、あなたに確信を与えてくださる神に信頼しなさい――それまでは待ちなさい。あなたの試しを試しなさい!あなたの証明を証明しなさい。確かめなさい。そして、光を待ち、祈り求める時、自分自身で確信を得るまで待ちなさい。
エバン・ロバーツ