レスター大会での働き人たちの集会における
エバン・ロバーツの談話(2)

エバン・ロバーツ
(J. C. ウィリアムズ記)

「勝利者」誌 1911年 第3巻 7月号 初出

このメッセージは、英国のレスターで開催された大会中に持たれた働き人たちのための集会でエバン・ロバーツが語った言葉を、J. C. ウィリアムズが書き留めたものです。

次に、ウィリアムズ氏は次のような祈りの要望を読み上げました――

二年ほど前にW氏が特別集会を開きました。ある若者が魂を試みる経験を通っており、信仰による喜びと平安を得ることを願っていたのですが、まだ得ていませんでした。ある晩、その伝道者が『聖霊に満たされることを願っている人は満たされることができます』と言って、数人を祈りに招きました。その若者もそうしました。ところが席に着いてから、『自分はサタンを見た』と彼が言うのです。彼はサタンが『俺はまだお前を捕えているぞ』というようなことを自分に言うのを聞きました。彼は大きな衝撃を神経組織に受けました。この経験をする前、彼はいくつかの仕事を抱えて過労でした―― 一年間、休息も休日もなく、消耗しきっていたのです。彼は今、精神病院にいます!

これについてコメントしてウィリアムズ氏は次のように述べました――

サタンは神の順序と反対の方法で働きます。神は霊から働きを始め、魂、体に至ります(1テサロニケ5:23)。しかし、サタンは体から働きを始め、魂、霊に達します。この若者は集会に出かけるとき、ある霊的な状態にあり、体は弱っており、知性は酷使されていました。それで、本来なら神が会って下さるまさにその瞬間、サタンがこの弱った体と知性を利用して、彼の意識野に幻を閃かせたのです。その衝撃は精神の均衡が崩れるほどでした。これがこの手紙の意味です。さて、この事例のためにどう祈ればよいでしょう?

ある働き人――主イエスの御名の中で、その悪霊に彼から出て行くよう命じます。

エバン・ロバーツ――そもそも、これは「悪霊憑き」なのでしょうか?なぜ彼は精神病院にいるのでしょう?脳の自然的な錯乱なのでしょうか、それとも脳への超自然的な影響なのでしょうか?

ある働き人――これは悪魔のせいです。

エバン・ロバーツ――あなたはそれを証明できますか?「これは悪魔のせいである」とあなたが判断したとします。それで、あなたは何度も命じるのですが、それが自然的な錯乱の場合、あなたは決してそれではこの人を解放することはできません。正しい診断の重要性は次の通りです。この人が自然的な錯乱でそこにいる場合、あなたが悪霊どもに対抗して祈っても、その人はあなたの祈りを通して精神病院から退院することは決してないでしょう。もしそれが自然的な錯乱の場合、あなたは脳を癒して下さるよう神に求めなければなりません。その両方かもしれませんが、もしそうなら、悪霊どもを追い出す必要があり、脳を癒す必要があります。

ある働き人――こういった場合は常に、まず光を求めて神のみもとに行かなければならないとは思いませんか?

エバン・ロバーツ――すでに光を持っている場合はどうでしょう?白と黒の違いを教えて下さい、とあなたは神に求めるでしょうか。あなたは白黒を知っており、白黒をあなたに教える識別力を持っています。ですから、このような事例のための霊的知識をあなたは持っているかもしれませんし、もし持っているなら、あなたはそれを用いなければなりません。この事例のために祈るよう私に求められたなら、私は何も除外しなかったでしょう。私は癒しを神に求め、「悪霊憑き」に対抗して祈ったでしょう。キリストが悪鬼を追い出すと、女はまっすぐになりました。私なら、この人に何が必要か神のみもとに言って尋ねることはせず、ただちに「主よ、この人を癒して下さい!」と祈り、また、「悪霊憑き」に対抗して祈ったでしょう。たとえ癒しの必要はなかったとしても、このように祈ることによって失うものは何もありません。この祈りの生活では、何一つ見落としがあってはなりません。しかし、もしあなたが間違った方向に祈るなら――すなわち、間違った診断に基づいて祈るなら、あなたの祈りは決して答えられないでしょう。

特定の事柄のために祈り、その祈りに答えてもらおうとするなら、あなたは祈りに行く時、欺かれてはいけません。神経衰弱と悪霊憑きは、どちらも症状が似ています。医者は患者に「行って休みなさい。行って休みなさい」と言います。患者は休みますが、休んだ後も以前同様具合が悪いままです。なぜなら、この患者の問題は自然的なものによるのではなく、超自然的な原因によるからです。これが真の原因を探し出さなければならない理由です。これは罪に対する戦い、サタンに対する戦い、病に対する戦いであり、どれも見落としてはなりません。この若者の場合、罪に対抗して祈り、原因かもしれない悪霊どもに対抗して祈り、原因かもしれない病に対抗して祈りなさい。

祈りは破壊的であるだけでなく、建設的でもなければなりません。もしあなたが「主よ、この若者の内の悪魔の働きをすべて滅ぼして下さい」と祈っても答えがないなら、「主よ、この人を癒して下さい。癒しの御手で彼の脳に触れて下さい」と祈りなさい。これが建設的な祈りです。

人を罪の刑罰から救うことは、罪の力から救うことよりも容易です。罪の刑罰は永遠の死です。この人にキリストを救い主として受け入れさせなさい。そうすれば、その人は永遠の刑罰から救われます。しかし、その人に罪の力から解放される方法を教えることは、さらに難しい仕事なのです。なぜなら、何が正しく、何が間違っているかに関する指導がその中に含まれるからです。もしかすると、その人は罪の力を対処する神の方法を理解しないかもしれません。もし信者がローマ6章11節を理解し、長期間この姿勢を保ち、この特定の罪を見逃さないなら、信者はそれがどこから来たのか決定を下すことができるようになるでしょう。多くの人は「私は十字架上でキリストと共に死にました」と言いますが、それと異なる姿勢を取っています。神があなたに尋ねておられるのは、「あなたは十字架上でキリストと共に死にましたか?」ということではなく、「あなたは、罪に対して死んでいますか?」ということです。この時、あなたは人々がローマ6:11の価値を理解しない理由を見いだすでしょう。それは、人々がローマ6:11を誤解しているからなのです。

「古い人は十字架につけられました」。神は「古い人は十字架につけられたと見なしなさい」とは言われません。これはすべて決着済みです。しかし、神は言われます、「あなたたちもまた自分は罪に対して死んだ者であると見なしなさい」。この「見なしなさい」は現在時制です。この見なすことに基づいて、「神はこれを生活の中で実際のものにして下さる」とあなたは信頼することができます。

ある働き人――私の村に、その村で五十年間奉仕してきたある説教者の息子がいます。この息子は結婚していて、賜物があり、教養もあるのですが、実際のところ無神論者です。今、この人のために祈りたいという気持ちが私の心の中にあります。私はこれを確信しています。先週の学びの時、私はこの人のためにひざまづいて祈らなければならないと感じました。このような場合、何か助言はあるでしょうか?何のために私は祈るべきでしょう?

エバン・ロバーツ――あなたは原則に基づいて、事実に基づいて、御霊の証しに基づいて祈らなければなりません。この三つを祈り尽くし、祈り残しが何一つないようにしなさい。この人のために、彼の行動のために、彼の霊のために、彼の魂のために、彼の体のために、彼の過去の生活のために、彼の将来の生活のために祈りなさい。何一つ祈らないままにしておいてはいけません。詳細を一つも漏らしてはなりません。この人の生活に関する事実を知れば知るほど、あなたはさらに祈ることができるようになり、祈りで勝利することができるようになります。