諸々の時代にわたる戦い

悪魔の策略――方法――

エバン・ロバーツ

「勝利者」誌 一九一二年 第四巻 二月号 掲載

悪魔の策略とは何でしょう?それは接近するための悪魔の戦略的方法かもしれません。また、悪魔の狡猾な方法や、真理と嘘が一緒になった悪魔の計略かもしれません。この計略は悪魔の諸々の狙いを成就するために実施されているのです。キリストを誘惑する二番目の誘惑における策略は、神を信じる大きな信仰を示すようキリストに求め、こうしてキリストに自殺させることでした。「宮の上から身を投げなさい。御使いたちはあなたを救うでしょう」と悪魔は言いましたが、悪魔の真の意図は「身投げして殺しなさい」ということだったのです。

無知に関する策略

霊的な人々を無知なままにしておくための策略が存在することを、信者たちは知らなければなりません。この無知な状況のせいで、暗闇の勢力は大胆に攻撃することができます。信者が警戒していないからです。「信者の代わりにキリストが警戒してくださる」と聖書のどこに書いてあるでしょう?「私はあなたたちに言います。警戒しなさい!」とキリストは言われなかったでしょうか?パウロもまた、「慎重に用心していなさい」――見張っていなさい――と述べています。もしだけが警戒なさるのだとすると、私たちが警戒していてもしていなくてもどうでもいいのではないでしょうか?

「働き」に関する策略

悪魔はクリスチャンの働き人に良い働きを強います。「良い働きにたくさん参加しなさい」と悪魔は言います。しかし、この声が悪魔のものだと見破られることはありません。信者は従います。悪魔は喜んで心の中で言います、「良い働きにたくさん参加しなさい。そして健康を害してしまいなさい」。クリスチャンの働き人たちは諸々の良い働きの中に失われており、祈り、御言葉、学び、安息のための時間がありません。こうして彼らは進み続けますが、彼らの健康を害し、彼らからより高度な善を奪い取るための策略が進行中であることに気がつきません。この策略を強化するものの一つは、彼らの良い働きをほめそやすことです。

祈りに関する策略

祈りの生活、聖書を読む時間、信者の学び、信者の社交、信者の宗教的働きをめぐって、諸々の策略が進行しています。それが御言葉の宣べ伝え、歌を歌うこと、病人を見舞うこと、囚人たちを視察すること、野外の働き等であってもです。たとえば、「食卓に仕えることは自分たちにふさわしくない」と使徒たちは考えました。「食卓に仕えること」は、使徒たちが御言葉と祈りの務めに専念するのを妨げるサタンの策略でした。食卓に仕えるのは良い働きでしたが、使徒たちがそれをするのは問題でした。使徒たちは祈りと御言葉の務めに専念するべきだったからです。

奉仕に関する策略

とても地位の高い栄誉を伴う奉仕、しかしより低い奉仕に就くよう誘惑する誘惑もあります。食卓に仕える人々に要求される資格に注目しなさい。食卓に仕える人々は評判の良い人々、聖霊に満ちている人々、知恵に満ちている人々でなければなりませんでした。さらにまた、これらの人々はこの仕事を管理するために任命されました。悪魔の策略は、優った善の代わりに劣った善を信者に行わせることです。善と悪のどちらかを選ぶ選択があるように、善と善のどちらかを選ぶ選択を行うには鋭い識別力が必要です。悪魔の策略は今でも進行していて、信者を劣った善に携わらせ、その中にとどめているかもしれないのです。

会話の質を引き下げる策略もあります。会話の内容を高度な善から低い善へと引き下げる策略です。祈りの時間にサタンは会話させます。さらに、会話は四方山話となり、四方山話はおしゃべりや論争になります。さらにまた、摩擦や公然たる不和になります――これは高度な善から低い善へ、低い善から悪へ、悪からさらに悪い悪へと下降することです。この時、サタンは自分の策略がうまくいったのを喜びます。

多くの種類の策略

どんな善であれ、その反対のものを遂行するための策略が進行中です。一つがあるところでは、分裂を生じさせる策略が進行しています。寛容さのあるところでは、その寛容さは残したままそれに厳しい感触を加えて霊を閉ざすことが悪魔の策略です。リバイバルが起きている所では、教会の中に停滞と死をもたらすことが悪魔の策略です。

悪魔はすべての善を憎みます。実に、すべての善を根絶するための策略が進行しているのです。油塗りを伴う発言がなされようものなら、その言葉が人々の心の中に入って受け入れられるのを邪魔することが悪魔の策略です。 この時、その言葉はいわば切り出されなければならなくなります。そして、「『発言』が自分に与えられるよう、自分のために祈ってもらいたい」という願いが信者の内に生じます。

意志と状態に関する策略

意志や状態から生じる行動に関する策略もあります。(a)意志、(b)状態から生じる行動の違いに注意してください。たとえば、ある人が「私は黙っていよう」と言います。実は、彼は話すことができないのです。彼は話す気がないか、討論中の主題に関して無知であるかのいずれかです。ある人はまじめな表情をしようとしますが、それは茶番です。彼にはまじめな表情しかできないのです。もし彼が自分を調べるなら、自分には微笑むことも笑うこともできないことがわかるでしょう。たとえそうすることを決意し、試みたとしても、できないのです。意志の出番は、あなたに選択肢がある時、代替案がある時です。たとえば、歌うことができ、そうすることを控えることもできる時、あなたは歌うことを決意することもできますし、歌わないことを決意することもできます。

策略を見破る

悪魔の策略に対する勝利は、それを見破ることによって得られます。見破るなら、信者は策略が進行する前にその狙いを挫折させることができます。ガイ・ホークスは国会議事堂を爆破しようとしましたが、彼の策略、計略は見破られ、それによりその計画――「火薬計画」と一般に称されている計画――はすべて無に帰したのです。

策略と策略の狙いの違いに注意してください。策略を見破ることは、その働きが完全に成し遂げられる前に、その働きを滅ぼすことを可能にします。

働きを滅ぼすことと、働きがなされるのを妨げることとの違いに注意してください。一般的に言って、悪魔の働きが完全に成就、発展した、教会ははじめて悪魔の働きに気づきます。ですから、(a)策略が進行している可能性を私たちは知らなければなりません。策略を見破るには経験的知識が必要です。(b)策略が進行しているしるしを私たちは知らなければなりません。たとえば、敵の策略が信者の内に短気を起こさせることだとします。この時、短気を起こさせるために策略が実行されます。もし少しで短気を起こしかけることが一度ならずあるなら、そのいらつきが敵の攻撃によるものでないかどうか、その信者は警戒する必要があります。また、そのような時は特に自制が必要です。なぜなら、この時、敵は最も身近にいる最も親愛な人を用いるかもしれないからです。

攻撃は手紙を通して、あるいは、健康を無視することによって訪れるかもしれません。これは忍耐して、敵の直接的・間接的攻撃を祈りによってすべて払いのける時です。敵の策略を知ることは警戒心に通じます。

罪に対して勝利を得る道は、罪そのものに対して戦うことだけでなく、サタンに対して、邪悪な性質をかき立てる暗闇の勢力に対して戦うことでもあります。

では、策略を見破ることによって何が得られるのでしょう?見破るなら、信者は利用可能なすべての力を用いて、その策略の狙いを滅ぼすことができます。

たとえば、町の大邸宅を僕たちが管理しているとします。ある晩、僕たちはその場所の近くで怪しい人々を見つけます。後になって、その人々は盗みを働く強盗だったことがわかります。僕たちはどうすればいいでしょう?自分たちだけで強盗たちに対処するのでしょうか?いいえ!僕たちは警察署に電話して、動員可能な警官隊全員に助けに来てもらいます。信者もまた神に「求め」、神に「行って」もらわなければなりません――つまり、悪魔の働きが見つかった瞬間、信者は神に、助けに来て悪魔の働きを滅ぼしてくださるよう求める必要があるのです。