ピリピ二・一~十三
ここには何ともいえぬ丁寧な勧めがたくさんある。聖霊は熱心に丁寧に勧めたもう。今朝まず特別に六節より八節までのキリストを味わいたい。聖霊はキリストをここに示したもうので、どうぞお互いに各自霊眼を開いてキリストを見たいものである。願わくぱ聖霊我らにキリストを示したまわんことを。この祈祷を心から献げる時に、今ここでキリストを示したもうことを信ずる。
ここに無言の説教がある。「彼は神の形にていたまいしが」……最初から天地創造以前より彼は神と共にいましたもうた。ヨハネ伝一章にあるように、彼は万物の造り主である。コロサイ書一章にあるように彼によらずして造られた物は一つもない。実に尊いお方である。私どもは度々間違った考えをして、父なる神といえば実に高いお方であるが、主イエスといえば何となく低いように思うことがある。主が下って私どもに近づきたもうたから主を軽く見るような向きがあるが、我らに近づきたもうたからそのご身分が低くなりたもうたのではない。どうぞ神なる造物主、また生命の主なるお方として主を見たい。生命の主……私どもはもちろん、草木に至るまで生きているのはキリストによって生きているのである。キリストを取り去ってしまえば生命というものはどこにもない。私どもは自分の生命は何にも代えられないことを知っているが、その生命の主、いかに尊いお方であろう。この神なるイエスを明らかに見たい。
「彼は神の形にていたまいしが、神と等しくあることを固く保たんとは思わず、かえっておのれを虚うし」。初め神の形にていましたもう時には、私どもの目は実に高いところにあるが、主はその次には、その高いところより断崖絶壁を飛び下りたもうた。これは非常のことである。貴人が乞食になるというよりも非常のこと、人が虫になるというよりも非常のことである。今神が、全知全能の神が、造り主、栄光の主なる神が、おのれを虚うし、おのれを空にし、すなわち自分は何にもないもの、どこにも取り柄のないものとなりたもうた。詩篇二二篇は主イエスの言葉の預言であるが、その中に「我は虫にして人にあらず」という言葉がある。これは驚くべきことではないか。この中に「私は仕様のない者です」という人があるが、「自分は虫けら同然である」とまで思う者はあるまい。実にこれは驚くべきことである。
「僕の形をとりて人のごとくなれり」。主は、ご自分を全く空にして僕となりたもうた。真に心の中より虚しく空にならねば僕となることはできない。この原語は奴隷で、僕よりもなお低い身分を指す。奴隷といえば金で買われて主人に使われ、主人の思うままになる者である。実になさけない者である。その主人より去ることはどうしてもできぬ。主イエスはその奴隷となりたもうたのである。第一には神の奴隷となりたもうた。元来は自由なる神の子であるが、ご自分を空にして奴隷となりたもうた。そしてまた人のようになりたもうた。何のためかなれば、次には人の奴隷となるためであった。天において神に使われる奴隷であることもできたが、神の旨は主を天にて使うことではなかった。この地上、堕落せるこの地上にて奔走して仕えしめんがためであった。「人のごとくなれり」。神なる主が人となりたもうたことは何たることであろう。卑しき我らと同じものとなり、女の腹より生まれ、私どもと同じように五尺の体に縮まり、不自由な身体となりたもうたのである。これ我らの奴隷となるためであった。
「すでに人の様にて現われ、おのれを低くし」。人となりたもうたにしても、あるいは王侯貴人の家に生まれ、あるいは金満家の所に生まれたもうても、主イエスにとっては低すぎるほどであったが、人の中にても最も低い所に生まれたもうた。しかして「死に至るまで従い」。主イエス・キリストの御目的はただ従うことであった。ただ神の命令に従いさえすればよかった。自分の身分がいかに零落しようが、ただ従いたもうた。彼は苦しい場合もあったろうが、いかなる場合にもただ従いたもうた。ゲッセマネにおいて血の汗を流したもうた時にも、主イエスのご従順を見る。肉体を持ちたもうたイエスとして、あの苦痛には耐えきれなかったゆえ、「御旨ならば、この杯を我より取り去りたまえ」と祈りたもうた。けれどもその中にも「されどみ旨のままを成したまえ」と祈りたもうた。神に従わないこととては一つもなかった。
そして「十字架の死をさえ受けたまえり」。死ぬのにも首を斬られて一時に死んでしまうとか、石に打たれて死ぬのでなく、死の中でも一番つらい十字架の死をさえ受けたもうたのである。兄弟姉妹、どうぞこのイエスを見たい。ここにキリストのご謙遜の七つの階段がある。(一)栄光の神の形を棄て、(二)おのれを虚うし、(三)僕の形をとり、(四)人となり、(五)おのれを低くし、(六)死に至るまで従い、(七)十字架の死をさえ受くるに至れり。どうです。ずっと上にある栄光の主が、ずっと下って十字架、恐ろしい十字架を受けたもうた。どうぞこの主イエスを見たいものである。
神は「へりくだる者を恵む」と約束したもうた。自ら高ぶる者は低くされるが、自らへりくだる者は高くされる。イエスはかくまでに自分を低くしたもうたが、果たして神は彼を大いに高めたもうた。「このゆえに」。しかり、このゆえにである。「このゆえに神は甚しく彼を高めてもろもろの名にまさる名をこれに与えたまえり」。ここに高められる原因がある。「このゆえに」。どうぞこの語を聖霊によって味わっていただきたい。ただ耳で聞くだけでなく、真に心に味わっていただきたい。おお、イエスを真に認めよ。
さてこのイエスを聖霊が我らに示したもう御目的がある。「汝らキリスト・イエスの意をもて意とすべし」。すなわち今度は私どものことになる。私ども各自いかん。神の前に私どもの心はどういう風であるか。このこころとは心ではなく、思いである。神は我らの思いを知りたもう。我らはいかなることを思っているか、信者であるゆえ、その真底叩いて見れば、自分は何もならぬ者であると知ってはいるが、真底ばかりでなくその思いが高ぶっていてはならぬ。ここに「おのおのへりくだりたる心をもって互いに人をおのれにまされりとせよ」とある。なるほど偉い人なら自分よりまされりと思うが、あの人は自分より劣っている、この人ならば自分の方がまさっていると思うことはないか。ことに注意すべきは信仰上の高慢である。自分は熱心であるのに、彼は冷淡である。自分はよく働くのに、彼は働かない。こんな思いはないか。人はどこかで自分を高くしたく思いやすいものである。何か自分の得意なところを捕えて、そこで頭を上げている。その時に低くなれぬのである(中略)。
主イエスのご成功、すなわち贖いの業を全く成就され、父なる神に喜ばれたもうたその秘密は、ご自分を隠したもうたことにある。神より甦らされたもうまでは、ただおのれを低くしたもうた。下り坂ばかりであった。高き神の位にいたもうべきお方が、いつもご自分を低くしたもうた。たびたび意気地ないように見えることもあったが、ただおのれを低くし、またおのれを隠したもうた。十字架の上にもやはりおのれを隠したもうた。神の子なるご自分を隠したもうた。どうぞ私どもも、恵まれたおのれ、潔められたおのれ、聖書の知識のあるおのれ、よく働くおのれ、このおのれは潔められない前の悲しいおのれでなく、潔められた自分であっても、この潔い自分さえも隠したいものである。これが主イエスの心である。
「恐れおののきておのが救いを全うせよ」。信仰がいかに厚くても霊的高慢になればいけない。多くの伝道者がこれでやられた。だから恐れおののいて自分の救いを全うしなければならぬ。神があなたの心の中に働いていたもうことを認めなさい。神はぼんやりしていたまわず、いつでも働いていたもうゆえ、これを認めて聖霊に従うぺきである。私も度々経験があるが、悪魔がしきりに「お前はよく働く」などと言って来る時、聖霊は「サタンよ、退け」と撃退したもう。
聖霊を受けた者の中にも、聖霊の声に聴き従う者と聴き従わない者とがある。何とぞ我ら恐れおののいて霊の声に聴き従いたい。キリストは持てる物をなくしてへりくだりたもうたが、私どもは初めから何もない者である。その何もない者を神が用いたもうのである。
謙遜になれるのは愛による。ヘリくだらないのは愛がない証拠で、高慢なのは「私は愛がありません」という看板をかけているのと同じである。コリント前書十三章にあるように、愛は非礼を行わず、また高ぶらぬものである。
この伝道館は他の教会の者より注意されている。他教会より全く離れて独立しているゆえ、反対者から注意して見られている。私どもは霊的高慢にならぬよう大いに注意せねばならぬ。