神との同心

笹尾鉄三郎

ヨハネ第一書一・三~七

今日はこの同心ということについて共に味わいたい。ここにヨハネはこの書を書いた目的を示している。自分は父およびその子イエスと同心である、一つ心である、一体である、もはや離ればなれでないということを自分で経験的に味わったから、あなたがたをも同心にならせようというのが、その目的である。そしてその同心になった結果、円満な喜楽を得させたいというのである。これはまた、信者一般に向かっての神様の御心である。たしかに今、私ども各自に対する神様の聖旨である。

同心とは真に一つになることで、あの人の顔を覚えているとか、名を知っているとか、時々交際するとか、そういう表面上のことではなく、真に心から一致し、同じ心になることである。夫婦はうわべからは辛苦銀難を共にする者であるが、もし心が同心にならないのなら実に苦しいもので、これほど苦しいことはない。夫婦でも、また同宿している者でも、明暮共に住んでいる者が同心でないならば、実に不愉快である。これほど私どもの喜楽を打ち消すものはない。けれどもこれは人と人とのことであるが、神様と私どもと同心であるとないとは私どもの生命に関することである。初めに人間はエデンの園においては神と同心で、神は人に語り、また人は神様に話し、実に楽しかったものであるが、罪が人の中に入ってから人は神様から離れた。神と人とは離れたのである。なぜか?心が離ればなれになったからである。うわべからいってもエデンの園を放逐されたから離れたのであるが、よし神様が我慢してエデンの園の中にそのまま置いて下さったところで、心が同心でないならば少しも愉快ではない。エデンの園にいても非常に苦しかったに相違ない。

私ども信者が神様と同心になることは実に肝要なことである。未信者と信者との区別はつまりそこである。一方は神様から全く離れている者、他方は神様から恩恵を受けている者である。けれども、同じ信者の中にも二種類ある。もちろん信者の中であれば、その真底は神と一致しているのであろうが、大部分が神と同心ではない。気が合わない。そこが潔められた信者と未だ潔められていない信者の違うところである。潔められた者は、神様の大好きなものは大好きで、神様の大嫌いなことは大嫌いであるが、潔められない前は、神様の嫌いな物を大切にして持っている。すなわち汚れた肉欲や、いろいろ世に属する願望を持っている。信者は誰でも正しい歩みをしようと思っているが、まず第一、神様と気が合わねばならぬ。そうでないと、行きたくもないところに無理について行く実に苦しい生涯である。かえって神より離れているよりも苦しいかも知れぬ。もし幾分でもそんな風に感じている人は、そこに一つ治療を要する。そして神と同心にならねばならぬ。

ヨハネは言う、「我らが彼より聞きて、また汝らに告ぐるおとずれはこれなり。すなわち神は光にして少しの暗き所なし。もし神と交わりありと言いて暗きうちを歩まば、我ら偽りて真理を行わざるなり」(一・五~六)。どうしても神と同心になるべきである。光と一致しなくてはならぬ。暗きにおってはならない。私どもに少しの暗きところでもあれば、それは神と一致しておらぬのである。私どもが暗きところに出るならば、同心であると言っても偽りである。ではどうしたら良いか。暗きから出て来て光に来ることである。暗いところでは罪はわからないが、光に照らされれば罪を罪としていかに小さいものでもはっきりとわかる。もちろんそれを示されることは辛いことである。けれども罪を示されてキリストのところに来れば、血によって潔められ、そして神と一致することができるのである。光の中を歩むべきである。横道を通って歩んではならない。

ではその光とは何か。二章を見ればわかる。「光にありと言いてその兄弟を憎む者は、今もなお暗きにあるなり。その兄弟を愛する者は、光におりてつまづきそのうちになし。その兄弟を憎む者は暗きにあり、暗きうちを歩みて己が行くところを知らず。これ暗きはその目をくらましたればなり」(二・九~十一)。ここに光は愛となって来ている。言葉は何と言おうが、その行為が果たして愛の中にあるや否やである。兄弟を憎んでいるなら暗き中におり、愛しているならば光の中にいるのである。これは各自経験してわかると思う。神はいつも光であられ、また愛でいましたもう。私どもが愛の中にいるならば神と一致している。兄弟を愛しているならば神と同心になるのである。私ども各自一人一人の有様は違っているから、私はここで言い尽くすことはできぬが、お互いに神様の前で聖霊に探られて、どこが神の光から離れているか、どこに暗きがあるかを考えたい。エノクは神と共に歩いた。明けても暮れても神の御声に従った。私どもはどうか。十字架を負って従う間は良いが、少しでも弛みが来ては駄目である。果たして愛の中にいるかどうか反省したい。

ヨシュア記十四章十節以下を見ると、そこにカレブの話がある。カレブはヨシュアと共に信仰の厚い人であった。他の人々が神を疑っても、六十万人中ただこの二人だけは信仰して進んだのである。そのカレブがヘブロンを占領しに行く時の話である。ヘブロンとは同心という意味である。その地を取りに行こうとする時に、彼はヨシュアのもとに行って願い出た、「私は今日八十五歳で肉の力は何にもならぬが、神の力によって出て行くことができる。向うにある土地はヘブロンである。この約束の土地をいただきたい」。ところが、そこにはアナキ人という強い人種がいる。このアナキ人は首の長い人種であった。首の長いのは高慢をあらわす。その人種が向うにいるが、それを攻め取らねばならぬ。しかしカレブは言った、「されぱかの日エホバの語りたまいしこの山を我に与えよ。汝もかの日聞きたるごとく、かしこにはアナキ人おり、その町々は大にして堅固なり。さりながらエホバ我と共にいまして、我ついにエホバの宣いしごとく彼らを追い払うことを得んと」(十二節)。そこでヨシュアは許して祝福を祈って別れたが、カレプは進み行きその地を占領した。神と同心にいる土地を占領したのである。そこに非常な教えがある。神と同心なる生涯を妨げる者はアナキ人、すなわち高慢である。長首である。もちろん種々の妨げるものがある。世の物、世につける愛、その他いろいろある。けれども最も妨げるものは高慢である。真底において神と離れており、何もかもみな献げたが何だか神と自分の間にどうも真の一致がないというようならば、それはアナキ人すなわち高慢があるからである。ガラテヤ書六章三節に「汝らはナッシング(何もない者)であるのにサムシシグ(何かあるもの)であると思うのは欺いているのである」と書いてある。

この高慢は色々のものにつくもので、ある人には信仰に高慢がつき、ある人にはよく働くという所にも高慢がある。ある人にはまた悔い改めの中にも、大いに罪を作って悔い改めたという所に高慢がついていることがある。アナキ人は実に深い所に入っている。どうぞそれを神様に見い出してもらいたい。そしてそれを取り去ることは自分の力でできるかというと、できない。ではどうすれば良いかというと、カレプにならうことである。エホバ共にいますという信仰をもって進むことである。またここには書いてないが、カレブという名は「犬」という意味である。彼はそういう名を一生つけていた人である。いかにへりくだっていたかがわかる。自分は全く取り柄のない汚れた者であるとへりくだっていたことをそれによって知ることができる。聖書には犬と豚とは汚れた者として記してある。マルコ伝七章のスロ・フェニキヤの女は、「私は犬です。けれども犬も主人の膳より落ちる屑を捨いますから」と言って恵みを求めた。カレブもそれであった。自分も犬になっていて、そしてエホバがこんな卑しい者と共にいまして、アナキ人を滅ぼして下さると信じたのである。そのためにアナキ人を撃つことができたのである。

また、あるところにはカレブを全き服従の人として記してある。カレブは信仰の人であり、また服従の人であり、また謙遜の人であった。全くへりくだって、全く信仰し、全く服従する。その人が神と一致することができるのである。父および子と同心となることができるのである。私どもが良いから、価値があるから、同心となることができるというわけではない。あたかも華族と平民とは結婚することができないように、どうしてこの実に汚れたる罪人と聖き神とが一致することができよう。どうしてもできないけれども、全くへりくだって信ずる者は同心となることができるのである。なぜかというに、要するに主が私どものために死んだ下さったからである。その結果としていかなる人もそれができるようになったのである。「我は罪人の長なり」と言ったパウロも神と同心であった。

ローマ書六章十三節に「肢体を罪に献げず、おのれを神に献げよ」とある。この献ぐるとは英語では少し意味が違っていて、イールドとは引っ張ればそれに負けるという意味である。すなわち引く方に負けることをいう。自由のある人を一方よりは罪、一方よりは神様が引きたもう時、聖霊は神にイールドせよと教えたもうのである。これをする人が神と一致する。多くの人が神と一致せられぬのは、ヤコブのように角力をとっているからである。熱心に祈っているけれども、祈っているそのことが実は負けずに角力をとっているので、それで一致ができぬのである。全く任せ、従い、負けてしまえば、一致することができるのである。神の喜びたもう時に喜び、悲しみたもう時に悲しむとは、実に大いなる特権ではないか。ある人は「これはあまりに高すぎる」と思い、「そんなことは我々人間にはとてもできぬ、一方は神であるから」と言うが、それは不信仰の言葉である。ヨハネは元罪深い漁夫であったが、このことを自ら経験してここに証明しているのである。多くの人はこの点に思い違いしている。神様と同心になるのは自分が潔く美わしくなってからと思っているが、これは大きな間違いで、それなら前に言った通り少しもできない。けれども今、今からその状態のままで信仰によってできるのである。神様に全く任せ、神様の方で引いていたもうゆえ、それにイールドさえすればできるのである。その結果として潔く美しくなるのである。どうか私どもはこの点に思い違いしないように。こうしておのれを神に献げ、謙遜と信仰と服従とをもってこの恵みを経験したいものである。