献身とペンテコステ

笹尾鉄三郎

マラキ三・十六

これはちょうど今日ここに集っている我らの上に成就することと信ずる。エホバを畏るる者がただ神に服従し、神の栄光を表わさんことを願って来たり、あるいは祈り、あるいは願い、あるいは語る時に、神はかかる集会に心を奪われ、耳を傾けて聞きたもうのである。「それ主の目は義人の上にとどまり、その耳は彼らの祈りに傾く」(ペテロ前三・十二)。どうぞ目を挙げて、我らを見つめ我らの言葉に耳を傾けたもう主を見上げよ。この「われ設くる日」とは主イエスの救いが完成し、聖霊が下りたもうたその日である。その時に我らを宝としたもうのである。世の人が蝶よ花よと愛するごとく、神は我らを愛し尊びたもう。もはや天地すべてのものにも代えられない。そして父がその従順にしてよく仕える子を憐れむごとく憐れみたもうのである。ゆえに今日信ぜよ。さればそれについて妨げとなるものあらぱ、神はだんだん深くその御業を起こしたもうのであろう。今この章においてそれを見よう。

マラキ三・八~十。神はずい分ひどいことを言いたもう。「ひと神の物を盗むことをせんや。されど汝らは我が物を盗めり。汝らはまた、『何において汝の物を盗みしや』と言えり」。盗みとは何もうわべで法律上罪の名のつくようなことでないから多くの人が自ら欺いているが、神はこれを責めたもうのである。泥棒は神の祝福を受けることはできぬ。かかる人の祈祷はかえって呪われる。今日信者または伝道者の上に未信者よりもかえって多くの懲らしめの下っているのは、この盗人が多いからである。では何を盗んだかというに、献げ物をである。神に献ぐべき物を献げない、それが盗みである。ローマ書十二・一は神の命令である。「されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧む。おのが身を神の悦びたもう潔き活ける供え物として献げよ。これ当然の祭なり」。これは格別に伝道者のみに言われたことではない。主イエスの血にて買われた者は、その身も魂も神に献ぐるは当然のことである。「身も魂も献げます」とは多くの人が軽く言うことであるが、果たして事実であろうか、私は恐れる。日頃の「身も魂も献げます」との祈祷が、今日は赤裸にされて呪われるかも知れぬ。私は一方には非常に喜び、一方には非常に恐れている。どうぞ神の前に正直に出でよ。

なぜ身を神に献ぐべきかと言えば、コリント前六・二〇を見よ。すなわちキリストがおのが血を差し出して買い上げたもうたから、我らは贖い主(神)のものである。ゆえにその十九節のように、我らの身体は我らの勝手になるものではない。また十五節を見れば、「キリストの肢体」であると記してある。ちょうど私のこの手がわがものであり、わが霊の肢体として道具であるように、「汝らはキリストの肢体なり」とある。されば我らはキリストのものである。所有権はすでにかの御方にある。ゆえにこの身を献ぐべきは当然である。ある人がかつて「献身は返身であると言った方が適当である」と言ったが、真にそうである。我らの身体は主に返上すべきものである。これは理屈のようであるが、その愛の方面より見よ。キリストがこの卑しき者をも贖い、そしてその身体の一部分(僕とか婢とか言うのではなく)となして下さるとは何という尊い御考えであろうか。我らはそれを思う時に恵みに感じ、喜び勇んで献身することができる。すでに身体を献げたら持ち物を伴うのは当然である。持ち物についても多くの欺いた献げ方がある。一部分を献げて役目がすんだと思っている者が多い。我らは我らの財産も何もかもすべての所有をすべて持ち出し、ただ聖旨のままに使いたまえと正直に出ているか。どうぞ今、厳粛に省みよ。そうでなくて、もし偽りがあれば呪われる。使徒行伝五章を見れば、アナニヤはその妻と共にバルナバらの良い模範を真似して自分の産業を売り、使徒らのもとに持って来た。しかし、神はその幾分を自分のために隠していることを知りたもうた。ペテロの中におられた聖霊はこれを看破して、「アナニヤよ、何ゆえ汝の心サタンに満ち、聖霊に対し偽りて、地所の価の幾分を隠したるぞ」と言いたもうた。ペンテコステの恐ろしいことを見よ。一方にては聖霊に満たされ、一方にてはサタンに満たされている。ペンテコステはこのいずれかなので、実に厳粛なことである。呑気な集会に出ているのとは違う。ここは恐ろしい場所である。厳粛に自分を省みよ。

しかし、主を見上げることは幸福なことである。神の標準はかの金満家に告げたもうたようである。「汝なお一つを欠く。行きて汝の持てる物をことごとく売りて、貧しき者に施せ。さらば宝を天に得ん。かつ来たりて我に従え」(マルコ十・二一)。我らはここまで行っているか。かのルツが、その姑が彼女に「去れ」と促した時に、「汝を捨て汝を離れて帰ることを我に促すことなかれ。我は汝の行くところに行き、汝の宿るところに宿らん。汝の民はわが民、汝の神はわが神なり」と言って固く心を定めて動かなかったのもここである。「主イエスよ。汝の前にいかなる十字架あるも我は離れず。たといゲッセマネにもカルバリにも汝の行きたもう所に我を伴いたまえ」との熱心をもって今日出で来たらぱ、このマラキ三・十が我らの上に成就するのである。これは神を試験することである。「我を試みわが天の窓を開きて容るべきところなきまでに恵みを汝らに注ぐや否やを見るべし」とある。今日試験して見よ。全き献身をもて主に来たり見よ。必ず大いなることが起こってくるに相違ない。もちろん、我らは献身をもって聖霊を買うことはできるものでない。しかし、献身は我らのなすべきことである。我らはそれを全うする時に、神は意外な働きをなし、もはや容れることのできないほどに恵みを与えたもうのである。