聖霊に満たされた人の半面

笹尾鉄三郎

マタイ十二・十五~二〇

ここは私が聖霊に満たされんために祈っていた時、神が非常な力をもって与えたもうて以来、度々よく思い返すところである。昨日も思い起こし、今日もまた思い起こした。誰でも聖霊に満たされることについて話をすると、すぐさま使徒行伝二章にあるにわかに天より迅風のごとき大いなる響きのあったことや、焔のごときものや、方言を語り出したこと、盛んな働きをなすこと等ばかりを思い起こす。これは誰でも願う、また確かに聖霊に満たされたならばその通りになるが、しかしそれは半面である。聖霊に満たされた者は誰でも彼でも、いついかなるところでも、かかる有様にのみいるのではない。なお他に別の半面がある。すなわち、ただ今読んだところである。

ここはキリストが聖霊に満たされたもうた時の有様を示している。かのキリストが洗礼を受けたもうた時には、聖霊は鳩のごとき形でその上にとどまったと記している。これはキリストのペンテコステである。その時には迅風もなく、焔のごときもなく、獅子のごとき聖霊は下らなかった。多くの人は聖霊が鳩のような御方であることを忘れている。我らは主イエスのペンテコステの結果によって学びたい。なるほど主はすべての病人を癒したもうたが、「我を人にあらわすなかれ」と言いたもうた。これは我らを非常に探る言ではないか。「我を人にあらわすなかれ」。できるなれば少しでも自分を人にあらわしたく思うことはないか。もし諸君がかかる動機よりこの恵みを得んとしても、それは全く駄目である。聖霊に満たされた者は、決して自分を人にあらわすようなことはしない。十九節を見れば、「彼は争わず、叫ばず、その声を大路にて聞く者なからん」とある。これは聖霊に満たされた結果である。いつも滔々と説教をし、またいつも路傍において大音声張り上げて活発に説教するというのではない。もちろんこのようなこともあろうが、彼は「争わず、叫ばず」である。諸君には競争心すなわち人より少しでも上に立とうという考えはないか。格別に自分と同等の地位の者、あるいは共に働いている人にいかなる態度を取っているか。自ら省みよ。人が誉められる時に嬉しく思うか。また、人が他人の悪口を言って君を誉めたらどう思うか。悪魔がこのような嘘を持って来る時に、競争心のある者は嬉しく思う。聖霊はその競争心に加勢するために与えられない。かえってそれを焼き尽くすためである。また「叫ばず」。霊に酔うた者が酒に酔うた者のように叫ぶのは確かに事実である。しかし、それは神の栄光のためである。人はとかく自分をあらわし、また自分の教会を盛んにせんと努め、またこのような成功あったと叫び回る。これは聖霊に満たされた人にあるべきことではない。「その声を大路にて聞く者なからん」。偽善者は街に立って自分の前にラッパを鳴らす(マタイ六・二)。多くの人は肉の元気で盛んに伝道し、そして自ら聖霊に満たされていると思っていることがあるが、これをもって試験して見るが良い。偽聖霊ではなかろうか。私はこの言によって深く探られ、自分の真に塵芥なることを悟り、全くひれ伏した。

さて、かかる人は十八節を見よ。「見よ、わが選びたる我が僕。わが心の悦ぶ我が愛する者。我わが霊をこれに与えん」。神はへりくだる者に目をとめて、「我が愛する者よ」と呼びたもう。これはへりくだった諸君のためである。神は諸君のことを言いたもう。おお、「我が愛する者。我わが霊をこれに与えん」。ゆえに信ぜよ。これ神の言葉である。自分を高くする願いなく、ただ神の栄光をあらわすことを願う諸君に我が霊を与えんと断言したもう。ゆえに必ず与えられる。その結果として、すでに述べたような柔和謙遜な人となり、一方においては「彼異邦人に道を示すべし」。すなわち伝道する。そして別節に「道をして勝ち遂げしむる」とあるが、これは非常な力ではないか。これはなかなか難しいことである。ことに日本人は藁に火をつけたように一時燃え上がらせることはできるが、勝ち遂げしむるというところまではいかない。「傷める葦を折ることなく、煙れる亜麻を消すことなし」。ただでさえ弱き葦のような心に傷がついている。実にもろい。取り扱い方に少し注意が足らなければ、たちまち折れてしまう。けれども、聖霊に満たされた人はそんな弱い心も柔和と同情をもって取り扱ってこれを折らない。弱い者は弱い者のように取り扱う。これは聖霊に満たされたことの一つの証拠である。またもう一つは「煙れる亜麻を消すことなし」。イザヤ書の方は「ほの暗き灯火を消すことなく」とある(イザヤ四二・三)。まさに消えかかっている灯心である。このような信者がたくさんいる。もはや光明があるかないかわからない。煙のみ出ている。しかし、やはり火があるから煙が出ているのである。このような者を取り扱うことはまことに難しい。聖霊に満たされない人はこれを消すことがたびたびである。熱心に巡回して伝道しているようであるが、実は教会を荒している者がある。しかし、聖霊に満たされた者はこれを大切に取り扱い、まず油を注ぐ。こうして道をして勝ち遂げしめるのである。諸君、どうぞ今日神に祈り求めてこのような者となられよ。これは聖霊に満たされた半面である。