「すべて主の御名を呼び頼む者は救われん。イスラエルの人々よ、これらの言を聞け。ナザレのイエスは、汝らの知るごとく、神かれによりて汝らのうちに行いたまいし力ある業と不思議としるしとをもて、汝らに証したまえる人なり。汝ら不法の人の手をもてはりつけにして殺せり。されど神は死の苦しみを解きてこれを甦らせたまえり。我らは皆その証人なり。イエスは神の右に挙げられ、約束の聖霊を父より受けて、汝らの見聞きするこのものを注ぎたまいしなり」(使徒二・二一~二四、三二~三三)。
これはペンテコステの日に聖霊の言わしめたもうところである。イエスはすべての人類を救わんがために現れたもうた神の子で、彼は不思議な能力をもって多くの人を救いたもうた。しかし、神は仰せられる。「汝ら不法の人の手をもてはりつけにして殺せり」と。この点については多くの説明はいらぬ。確かに私の罪、あなたの罪のために、肉を裂き、血を流したもうたのである。おお兄弟姉妹よ、今心の目を開かれよ。彼はただ我らが犯した罪のためのみではない。なるほど、犯した罪だけでも数えれば数の知れないほどだが、それのみではない。「汝らは」とある。「汝らは」とは何を指すか。その人の年ではない、行いではない、本人だ。性来の主人公である黒い一物である。我らの愚昧な心より見るも、イエスは聖潔き救い主なるを知り得るに、ローマやユダヤの人々はどうして彼を十字架に釘付けたか、実にあきれるばかりである。しかし、彼を十字架に釘付けた者は人間の心中にあって主に敵するもの、主と両立できないもの、彼を殺すか殺されるかいずれにしても主に反対する一物が彼らの内にあったからである。これはただユダヤ人のみならず、我らの腹中にもある。ただ彼らは我らの代表者になっただけで、一つの穴の狐である。おお、性来の我らを調べよ。自らの姿を悟ったならば、蛇蝮の末とは我である。あなた達は神に敵する分子があるのを感じないか。どんなに外形を飾っても事実そのものは実在するのである。もし潔められないならユダのようである。ユダは信者であるが神の声を受け付けないで遂に主を敵の手に渡し、その結果滅んだ。使徒行伝五章を見れば、アナニヤはバルナバと共に献身したが、隠し事があったため、その結果は呪われて殺された。死の状態は異なるけれども、その根本は同じことである。そのような人は天国に入ることはできない。「汝ら不法の人の手をもてはりつけにして殺せり……」「わが民はともすれば我に離れんとする心あり」(ホセア十一・七)。あなたは外形はともかく、心の中にともすれば神より離れんとする心なきか。それは悪魔の植え付けたものである。それを持っているならば、いかにしても神の栄光をあらわすことができぬのみならず、おのが救いを全うすることもできない。神は我らが殺した所のイエスを甦らせ、そのイエスを立て、我らの救い主として天に昇らせ、神の右に座せしめたもうた。そのイエスは我らの罪を訴えたもうたか。そうではない。道理より言えば我らはイエスに訴えらるべき者であるが、彼は罪人である神の敵を愛したもうのである。彼は神の右に挙げられ、約束の霊を父より受けて、我らの腹中にあって神に敵する分子を全く焼き尽くさんとしたもうのである。おお兄弟姉妹よ、真心より祈られよ。主よどうぞ潔めたまえ。このままではいけぬ。あの黒い一物を焼き尽くしてしまわねばいけない。おお主よ、どうぞ今焼き尽くしたまえ。
「彼は父より受けて、汝らの見聞きするこのものを注ぎたまいしなり」。しかし、彼の贖いの功績によって聖霊は下っている。これまで献身せずに神の物を盗んでいたのを深く悟り、今主の前に一切を差し出して聖霊を受けよ。あなたの功績で受けるのではない。我らは何の価値もない者である。ただキリストの功績によって受けることができるのである。おお神よ、どうぞ私に聖霊を注ぎたまえ。雪よりも白くなしたまえ。どうぞ病める心を癒したまえ。神の御用を務むることができぬ弱い兄弟姉妹よ、どうぞ祈って聖霊を受けなさい。卑怯なペテロが大胆に証しをしたのも聖霊である。おお聖霊を受けよ。その秘密はただ主を見上げることにある。イエスは今もなお生きて父の右に座したもうのも聖霊を与えるためである。おお愛する兄弟姉妹よ、今その主を見上げて信じ聖霊を受けよ。