約束の地への進入と占領

笹尾鉄三郎

ヨシュア一・2、3

イスラエルの民はエジプトのくびきより救い出されて紅海を渡ったが、なお神は彼らの先祖に千年前より約束したもうた地に彼らを導きたもうた。そのように救いは二重である。第一は出ること、第二は入ることである。イスラエルの民は第一の恵みを受けた後も、カナンに入るまでは実にあわれな状態であった。神は奇跡をもって彼らを恵み、導きたもうたが、彼らは広大な恵みに背き、大きな罪を犯した。大きな罪とは、第一、怨言、第二、偶像、第三、姦淫である。もしキリスト信徒と称うる者の中にこれらの恐るべき罪があるならば、それは荒野の生涯である。しかし神は、「起ちて、このヨルダンを渡り、我がイスラエルの子孫に与うる地に行け」(2)と命じたもう。外形より見れば、自分で罪を犯すまいと思っても犯し、自分でヨルダンを渡ろうとしても駄目である。このヨルダンはいたって激流で、ある宣教師はかってこの川を渡った時、水は踵までしかなかったが馬は倒され、かろうじて自分だけ渡ったということである。いわんやヨシュアの渡った時は、水が最も氾濫していた時のことで、強いて渡ろうとすれば死なねばならないのは明らかなことであった。しかし、神は渡って行けと命じたもうた。あなたは自分で潔い生涯を送ろうと煩悶しても、とても不可能なことである。しかし神は、「われ潔ければ汝も潔くあるべし」と命じたもうた。しかし幸いにも、この川はイエスの血で満たされていた。イスラエルの民がこの川を渡るにあたり、契約の箱をかついでいる祭司の足が水際に浸ると同時に、はるか遠くまで水はかれてしまった。我らも今、神の命令に従ってこの川に入るならば死ぬのである。しかし、死ぬのは魂でなく古い人である。ハレルヤ。おお、今あなたの前にはイエスの血の満てるヨルダンの川が流れている。神はこの川に入り、聖によれる自由の生涯に入れよと命じたもう。まだ潔められず、古い人のために苦しんでいる人がおられるか。今信仰もてこの川に投じられよ。そうすれば神はあなたを潔め、聖霊をもて満たしたもうのである。あなたは神の中に入り、神あなたの中にいます幸いな生活に入ることができる。第二は前にあるように、神は進んで「汝らが足の裏にて踏む所は我これをことごとく汝らに与う」と仰せたもうた。これは約束の地を占領することである。入ることと占領することとは違う。潔めを受けることと霊に満たされることとは違う。潔めは聖い生涯のイロハにしか過ぎない。我らはなお進んで恵みの深みに入らねばならぬ。

ここで第一に記憶すべきことは、潔められた人に敵のあることである。ヨルダンを渡らぬ前もパロや種々の敵があったが、潔められた人の敵は内なる古い人でなく悪魔である。彼は巧みに暗黒の権威をもって格別人々の弱点に襲い来る。なお記憶すべきことに、あなたに大将のあることである。イスラエルの民は荒野を旅している間、雲の柱、火の柱に導かれたが、カナンに入ってから有形の柱は見えなくなった。しかし、神は彼らの大将としてヨシュアに現われたもうた。「ヨシュア、エリコのあたりにありける時、目を挙げて見しに、一人の人剣を手に抜き持ちておのれに向かいて立ち居ければ、ヨシュアすなわちそのもとに行きてこれに言う、『汝は我らを助くるか、はた我らの敵を助くるか』。かれ言いけるは、『否、我はエホバの軍旅の将として今来たれり』と。ヨシュア地にひれ伏して拝し、『我が主何を僕に告げんとしたもうや』とこれに言えり」(ヨシュア五・13、14)。ヨシュアはエホバの軍旅の将が剣を抜き持ちて立ちたもうを見、履を脱いでひれ伏し、「私は何の力もありません。あなたが大将となり助けたまわぱお供をします」と全く自らを低くして従うた。それより彼は至る所で勝利を得た。

願わくぱ、あなたの中に事実軍旅の将のいましたもうことを記憶して頂きたい。六章にはエリコの勝利が記されている。エリコは旅順のように石垣をもって堅く固められていた。今のように鋭利な武器はなく、外形より見れば到底陥落せしめる望みはなかった。しかるに彼は神の命令に従い、信仰をもって民と共にこの町を七回廻り、七回目に祭司はラッパを吹き鳴らし、民は大声をあげて神を讃美した時、さしも堅固な石垣もことごとく崩れて大きな勝利を得た。これは一見馬鹿げたように見える。しかし彼は見える所によらず、ただ神を信じた。勝利の秘訣は信仰と讃美である。

七章には失敗がある。イスラエルはアイを攻めに行った。アイはエリコとは違い実に小さな城であったが、なぜか彼らは容易に失敗した。実にこれは不思議である。ここにおいて大将ヨシュアは衣を裂き、灰をかぶり、地にひれ伏し、「私はどのようになろうとも、ただ神の聖名を汚されるのを見るに忍びない」と嘆いた。その時、神は彼に「あなたがたの中に呪わるべきものあり」と示し、「それを取り除けば勝利が与えられる」と告げたもうた。彼は翌朝早く起き出て支派支派に従い一々調べたところ、ザブデの家族の中よりアカンを見い出した。アカンはエリコを攻めた時、分捕り物の中からバビロンの美しい衣服一枚に銀二百シケル、重量五十シケルの金の棒を盗み、おのが天幕の中に埋め隠していたことを自白したのである。彼は遂に民に石で打ち殺された。かくアカンが殺された後、イスラエルはたやすくアイを攻略することができたのである。神は不義と共にいたもうことはできない。今日でも度々潔められたと証しする人々の中に案外な失敗がある。失敗するのはなぜか。ああ、陣営の中に呪わるべきアカンがいるからである。どうぞ神の光によって各自隠れた生涯を調べられよ。我らの目はこの世にいるうちはバビロンの衣も見える。我らは絶えず目を覚ましておらねばならぬ。

次に十八章3節に、「ヨシュア、イスラエルの人々に言いけるは、汝らは汝らの先祖の神エホバの汝らに与えたまいし地を取りに行くことをいつまで怠りおるや」とある。イスラエル十二支族はカナンに入って後、その二支族半は川の外の土地を得、九支族半は各自の土地を占領すべきはずであったのに、川の内にある九支族半は占領を怠っていた。今日も占領を怠っている信者は少なくない。彼らは聖霊を受けてもその後神の栄光をあらわさず、品性においても卑劣な所あるため人をつまずかせ、なお愛においても不足を感ずるのはなぜか。彼らはなお進んで占領すべきところを占領しないからである。神の御心は、「汝らをして愛に根ざし、愛を基とし、すべての聖徒と共にキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さのいかばかりなるかを悟り、その測り知るべからざる愛を知ることを得しめ、すべて神に満てるものを汝らに満たしたまわん」ことである(エペソ三・18、19)。神は、「よろしく霊に満たさるべし」(エペソ五・18)と命じたもう。言いかえれば、我らがキリストになり、キリストの品性がわが生涯に現われることである。もしそうでなければ潔めは益にならない。イザヤ六十・18、19に、「強暴のこと再び汝の地に聞こえず。損ないと破れとは再び汝の境に聞こえず。汝その石垣を救いととなえ、その門を誉れととなえん。昼は日ふたたび汝の光とならず、月もまた輝きて汝を照らさず。エホバ永遠に汝の光となり、汝の神は汝の栄えとなりたまわん」とある。エホバが光となりたまえば、日や月の必要はない。しかし、あなたは潔められた後、暖かく感ずることはないか。実際に潔められているならば、弱き者も強くなりうる。もしそうでないならば、我らになお欠けた所があることによる。我らが聖霊を受けることは、ただに生命と平安を与えられるのみならず、霊によって歩み、他人にも力と慰めを与えるためである。神はこの目的のために聖霊を与えたもう。ストーカー氏は聖別会において度々、「我らが聖霊を受けるは生涯を楽しくするためでなく、キリストのために苦しみ十字架を負うために与えられるのだ」と言うた。我らは受くるのみならず、進んでその霊を働かせ、人々にもその恵みを分かたねばならない。私の切なる願いは愛する兄弟姉妹が真に満たされ、占領されることである。

それがために要すべきことは、第一へりくだること、すなわち神の前にパウロのように、我は何事をなすにも足らぬ空しき無きがごときものなることを自覚することである。第二はパウロのようにどこへ行くにもイエスの死を身に負い、自ら損して人を益せしめることである。死が我に働くことにより、生命が人に働くことになるのである。第三はあなたの内にある全能者を信ずることである。あなたはどれほど弱くてもよろしい。あなたの内にある全能なる大将を信じられよ。堅く信じて立ちあがられよ。第四は従うことである。もちろんこれには十字架が伴うが、聖旨のままに従うことである。犠牲の精神をもって従われよ。

聖霊に満たさるるは、人に分け与えんがためである。人に与えれば与えるほど満たされる。ある人は与えられてもなお貧って人に分け与うるを惜しむ。しかし箴言には、「ほどこし散らしてかえって増すものあり。与うべきを惜しみてかえって貧しきに至る者あり。施しを好む者は肥え、人を潤す者はまた潤いを受く」(十一・24、25)とある。さらば我らはただ与えらるるのみならず、進んで人に分け与える者となりたい。