神の河

笹尾鉄三郎

今日は聖霊はいかなるものかをエゼキエル四七・三~八によって味わいたく思う。三節にある水は聖霊を表すものである。これは神の宮の聖所すなわち宝座の下より出る水、すなわち聖霊の型である。我らのため主イエスはすべての呪いを負い去り、我らのため全き贖いをし、悪魔を打ち敗り、勝利をもって父のみもとに上り、父の右に座して我らのため祈りたもう。その功により、父の宝座の下よりこの河すなわち聖霊が下っている。これは天より下る河である。「その人東に進み、手に測り縄を持ちて一千キュピトを測り、我に水を渡らしむるに、水くるぶしにまで及ぶ」(三)。格別「及ぶ」と言う字に注意されよ。くるぶしは足の裏が浸す所で、その意味は歩みである。聖霊の水は我らの歩みにまで及ぶ。人間は頭より始めるが、神が霊をもって働きたもう時は歩みより始め、心にまで及ぶ。神は御心の時、人を目がけてはっきり十字架に釘付け、ことごとく分捕り、おのれの所有として潔めたもうのである。その結果足にまで及ぶ。潔むる力は第一に足すなわち歩みである。聖別会で大いに満たされたと証ししても、外に出ればまた冷えるのはなぜか。水が足に及んでおらぬからである。「我が霊を汝らの内に置き、汝らをして我が律法に歩ましめ、我が律法を守りてこれを行わしむべし」(エゼキエル三六・二七)。聖霊の力は行わしめる力である。神の律法を守らしめる力である。律法は一言にして言えば、神を愛し人を愛することである。歩みは自ら歩むのだと思うは間違いである。これ神と人との共同事業である。演劇の馬は人間がその型の中に入り、その人間の動く通りになる。このように我らが献身すれば神のものである。神はその内より歩み出したもうのである。「神の宮と偶像と何の一致かあらん。我らは活ける神の宮なり。すなわち神の言いたまいしがごとし。曰く、『われ彼らの内に住み、また歩まん。われ彼らの神となり、彼らわが民とならん』と」(コリント後六・十六)。我らは神と共に歩むのである。もちろん献身が実際であって服従していれば、神はいつも歩み出したもうのである。「伝えられし教えの範に心より従いて」(ローマ六・十七)。心より従うのはもはや不従順の分子は取り去られたからである。

「彼また一千を測り我を渡らしむるに水膝にまで及ぶ」(四)。膝は祈りである。聖霊はあなたに祈る力を与えたもうのである。真に力ある祈りの人とするは聖霊の業である。祈祷ほど難かしいものはない。祈祷の中にも暗闇の力は働き、種々な物を持って来る。その暗闇の力を打ち敗り、神の全能の力を現わすその祈祷の力は人間にはないが、幸いに水は膝まで及ぶのである。「聖霊もまた我らの弱きを助けたもう。我らはいかに祈るべきかを知らざれども、御霊自ら言い難き嘆きをもて執り成したもう」(ローマ八・二六)。我が祈祷は弱いが、キリストは我らのために執り成したもう。これにより、その祈りは父のもとに達し、神は万物を与えると仰せられる。我らは祈りについてもがいて秘密を得ぬことがしばしばある。しかし、一番先に信じ、そして聖霊が働きたもうとき全く従うことはその秘密である。私ども人と雑談する時に不意に祈りたくなることがあるが、これは聖霊が我らの心を引いて他人のため、また悪魔の働く時、祈らせんとしたもうのである。これはある時はかすかに、ある時は強く来るが、その時ただちに従うのがすなわち秘密である。潔められれぱこのようにすることができる。ローマ七・十九のようではない。また潔められて後、御栄光の現われないのは、一は不信仰、一は不従順である。信じて従うならば何時でも勝利である。

「しかしてまた一千を測り我を渡らしむるに水腰にまで及ぶ」(四)。腰は力のあるところである。潔められぬ間は、ヤコブがヤポクの渡しで神に抵抗したように、神に対して突っ張ることがある。神は彼の腰を打ち砕きたまい、彼は人間として角力を取ることができぬようになったが、聖霊に満たされて神の腰を得たのである。あなたらは力のないことを感ぜられるか。「水腰にまで及ぶ」。これを我がものと信ぜられよ。聖霊は格別われら弱き者を選びたもうたので、弱いほど神の力が現れるのである。イザヤ四一・十四~十六を見れば、山をも細やかにする力をやるとある。あまりに大袈裟のようだがこれは事実である。我らの力は神の言、聖霊の力である。これによってサタンの山をも細やかにすることができる。「水腰にまで及ぶ」。これによって戦えば、必ず敵を打ち破ることができるのである。

「彼また一千を測るに、はや我が渡るあたわざる河となり、水高くして泳ぐほどの水となり、徒渉すべからざる河となりぬ」(五)。我らが信じてただ従うならば、河は段々深くなる。あなたの河は足、膝、腰のみではない。幾層倍深いか知れないほどの河となりうる。パウロはある時には「疫病のごとし」また「狂気せり」と言われたが、その基は「キリストの愛、我を励ませり」と言うにあった。我らがただ信じて従わぱ、聖霊は大河のようになって流れるであろう。これは神の御計画である。我らは何もわからなくてもただ押し流されて行くならば、その結果、「われ帰るに、河の岸のこなたかなたにはなはだ多くの樹々生い立てるあり。彼われに言う、この水東の境に流れ行き、アラバに落ち下りて海に入る。これ海に入ればその水すなわち癒ゆ」(七、八)。この海とは民のことである。水は至るところ癒すのである。そうしてその中に多くの生き物、多くの魚が交わり、また食い尽くせぬほどの義の実を結び、「その樹は枯れず、その実は絶えず」、いつでも実を結び、すべての物が満ちている。神は格別に示して、「人の子よ、汝これを認めたるや」とのたもう。ヨハネ七・三八、「我を信ずる者は、その腹より活ける水、河のごとく流れ出づべし」。おお、人の子よ認めたるや。その河は上より入るのみならず、腹より流れ出るのである。初めは受け、後には与えるのである。アプラハムの信仰が衰えた時、神は彼に空の星を見せ、「信ずるならば汝らの子孫はかくなる」と仰せられた。

人の子よ、なんじ認むるや。頭だけではいけぬ。心より神を信ずるならば、その腹より生ける水、河のように流れ出るようになる。今日信仰をもってこれを受けたい。