ヨハネ第一書二・十八
末の世とは将来でなく今の時代である。使徒ヨハネが「今はすなわち末の世なり」と言ってからすでに千八百余年を経たが、今日はもはや末期に最も近い時である。願わくぱ聖霊我らの目を明らかにして時を知らしめ、悪魔の業と我らの罪とを看破せしめ、神の御業を悟らしめたまわんことを。
末世のしるし(一)―悪魔の業
(1)、キリストの敵。ヨハネ第一書二・十八、二二を見よ。新神学者またはキリストを単に理想の人物として向上すると唱える輩はキリストの敵で、今やかかる人々が多い。今はすなわち末の世である。
(2)、道を離れる人(テモテ前四・一)。今の教会の状態を見れば、実に戦慄するばかりである。いかに多くの牧師、信者が信仰の道より離れていることであろう。今はすなわち末の世である。
(3)、再臨の教理を拒むこと(ペテロ後三・三、四)。今や再臨を説く者は、多くの伝道者、信者より、迷信家、極端者と嘲られている。ああ、肉につき世につける彼らは、世の末期の来ることを好まず、主の再臨したもうことを望まない。あたかもノアの時代の人々の通りである。今はすなわち末の世である。
(4)、人々の愛するもの(テモテ後三・一~七)。この「苦しき時」とは危険な時という意味である。実にこの言は一宇一句鏡である。自らの姿はどうか、自ら省みたい。悪魔は巧みに人を虜にしている。我らの中に、古き人すなわちおのれを持ち、悪魔の奴隷になっている者はないか。今はすなわち末の世、目を覚ますべき時である。
(5)、戦争、飢饉、疫病、地震(マタイ二四・三、七)。これは現在我らが目に見、耳に聞いている通りである。今やもはや末期に近づいている。
(6)、迫害(マタイ二四・九)。幾万の信者はすでに迫害のために殺されたが、近頃はアルメニヤ、支那の迫害においても幾千の信徒が殺された。今は実に末の世である。
以上は末の世における悪魔の働きである。なお他にも時のしるしは多くあることであろう。
「斥候よ、夜は何の時ぞ。斥候よ、夜は何の時ぞ。斥候答えて言う、朝来たり、夜また来たる」(イザヤ二一・十一、十二)。主の聖き民のためには栄光の朝来たり、世につける人のためには艱難の夜来たる。「汝ら時を知るゆえに、いよいよしかなすべし。今は眠りより覚むべき時なり。夜ふけて日近づきぬ。されば我ら暗黒の業をすてて光の鎧を着るべし」(ローマ十三・十一、十二)。
末世のしるし(二)―神の御業
この末の世に悪魔は恐るべき働きをしているが、神は決して拱手傍観していたまわぬ。神はこの末の世において悪魔の業に幾層倍勝りたる大いなる御業をなしつついたもう。
(1)、キリストの第一降臨(ペテロ前一・二〇)。世は末となり、人の罪の刑罰がまさに来たらんとした時、主は御座より飛び下りて我らの贖いとなりたもうた。
(2)、聖霊の降臨(使徒二・十七~二〇)。今は末の世でこの約束通り聖霊がすべての人に注がれる時である。イエスの血と彼の祷告の功績により、聖霊は今すでに大雨のように注がれている。ウェールスにおいて近頃大リバイバルがあったが、ただウェールスばかりではない。今我が国にも、ここにいる我らの上にも下っていたもう。我らとしては何の功績も要しない。ただ自己の全く頼むに足らざることと、必要なのはただ聖霊のみであることを認めて、一切を主に任せ従い、祈り求め、信ずればよろしい。「血あり、火(聖霊)あり、煙(神の臨在)あるべし」。今ここに血と火と煙は下っていたもう。
聖霊は罪(犯罪及び原罪)を我らに悟らせていたもう。聖霊は悪魔の計略と論を砕きたもう(コリント後十・五)。聖霊はイエスと天の栄光を黙示していたもう。聖霊は我らを罪の赦しと全き潔めに導いていたもう。おお、聖霊に全く従い、罪を認め、その身を全く神に献げ、潔むる泉に投ぜよ。聖霊は我らの内に住み、深く細やかに我らの心霊に働きかけ、聖潔を成就し、栄光より栄光に進ませ、イエスの形に変わらせたもう。かくて汚れなく咎なく主の御前に立つことを得させたもう。ハレルヤ、彼はイエスに満てるものを我らに満たしたもう。おお、満たされよ。聖霊は卑しき我らを化して栄光の器となし、預言せしめたもう。何と驚くべきことではないか。預言者とは神の口となって神の旨を語り、また未来のことを告げるためである。「汝の子も預言すべし」。ハレルヤ。
再臨の切迫
「われ速やかに至らん……われ速やかに至らん……しかり、われ速やかに至らん」(黙示二二・七、十二、二〇)との御声はいよいよ近く、ますます大きくなりつつある。我らのために所を備えんとして昇天したもうた主は、再び来られてこの地上に待ちわびている新婦を御自身のもとに迎えたもう。今にも主来たりたまわぱ、眠っている聖徒は全世界の各地より甦り来たり、生き残っている我らは瞬く間に栄光の体に化せられ、共に空中に携え上げられ、小羊の婚姻にあずかることができる。今の少しの苦しみは後に現わるべき栄光とは比べものにならない。ああ、イエスは我らの栄光の望みである。主イエスよ、来たりたまえ。しかし御注意なさい。「もし潔からずぱ、主を見ることあたわず」(へプル十二・十四)。かの時には親子だろうが、親友同志だろうが、容赦なく離れ分かたれる。聖き者は栄光の中に取り上げられ、汚れある者は大艱難の中に残される。おお、あなたの用意はできているかどうか。しかし我らはただ自らを潔くするばかりでなく、主の前に道を備え、各自その使命を全うして御前に立つべきである。我らはこの世を去る時、主イエスのように、「我なんじの栄光を世に現し、汝の我に委ねし所の行いは我これを成せり」と主に申し上げることができる者となりたい。主より託された魂はことごとく救い、かつ全うして、共に御前に出たい。おお、主よ、我を助けて死に至るまでも忠信ならしめたまえ。良きサマリヤ人なる主は悪魔に傷つけられた魂を我らのもとに携え来たり、「この人を介抱せよ。費もし増さば、我が帰りくる時に償わん」と言いたもう(ルカ十・三五)。