「あわれみと真実と共にあい、義と平和と互いに接吻せり」(詩八五・十)。
元来、義と愛とは性質の反するものである。義はどこまでも不義を咎め、曲がっているのを見過ごせぬ性質のものである。神はこのような性質を持っておられる。ゆえに神は必ず不義を罰したもうけれども、愛は義と反対で、たとえ罪はどんなに深くても問わない。少しもそこに理屈が入らない。ただ向こうの者のためになれば良いと謀るのが愛の性質である。この反対の性質を有する義と愛の接吻が、すなわち我らの救いの根拠である。
さて、この義と愛との接吻を味わう前に、まず神の義を知らねばならない。神は義しい聖い御方である。詩五〇・六に記されている通り、天は神の義を表している。古人も「人の心は天が知る」と言った。テモテ後書四・八、ローマ一・十八には、人に対する不義、神に対する不虔に対して神の怒りは天より現れるとある。ローマ二・五を見れば、罪に対して怒るのは神の性質であることを知る。
私は旧約聖書を読んで神の義を恐ろしく感ずる。ことに出エジプト十九、二一章には「必ず殺さるべし」との聖言が幾度も記されている。本当に真面目にこれを読む時、それが自分の身にあてはまって来る。この律法に照らされる時、我らは死すべき者である。キリストの十字架なくしてここを読むなら、決して読み過ごすことはできないであろう。
また、レビ記には神の聖であることが記されている。「われ聖ければ汝らもきよくすべし」。聖という言葉は八十七回出ている。神はまるで透き通る玉のような御身で、少しの塵が附着しただけでも汚れたと言うような御方である。またレビ記には特別に人間の汚れた有様があるが、「罪と汚れ」という文字が百九十四回記されている。またこの書には、「必ず殺されるべし」との言葉が多くある。我ら真面目に考えるなら、とてもこの聖い義なる神の前に立つことはできない。ゆえにパウロは死罪に当たる罪と申している。それなら、この殺す怒りの剣は我らの上に落ちたであろうか。否、この剣はイエスの上に落ちて来た。イザヤ五十三・六を見られよ。十字架は神の義と愛の表現である。すなわち、罪の結果はこのようなものであることを表わしたものである。ここに主は我らのために呪われたもうた(ガラテヤ三・十三)。十字架の刑は肉を裂き、血を流し、実に恐ろしいことはもちろんであるが、十字架の刑を受ける者は主のみでなく、ペテロもあり、なお他にも多くあるであろう。しかし、その苦しみに至っては主イエスのような苦しみを受けた者は一人もない。なぜであるか。ペテロやパウロやステパノの死の様は悲惨であるが、彼らにはその苦しみに打ち勝つ神の助けがあった。しかし、我が主イエスが十字架に懸かりたもうた時には、ただ人より苦しめられたのみでなく、全く神より棄てられたもうて少しの慰めも助けも与えられなかった。照る日も暗くなりて彼を照らさず、彼の上に下り来るものはただ義なる神の怒りと呪いと罰とのみであった。彼をして「我が神、我が神、なんぞ我を捨てたもうや」と叫ばしめたその苦しみはいかばかりであったろうか。この呪いの下に彼はその生命を失いたもうた。死の味とはこれである(へブル二・九)。道理より言えばこの義の怒りの呪いは我ら罪人の上に来るべきであるのに、神はその生みたもうたひとり子の上にこの呪いを下したもうた(ヨハネ三・十六)。ああ、神はいかばかり我ら罪人を愛したもうことであろうか。また主イエス・キリストは我を愛し、我がためにおのれを捨てたもうた(ガラテヤ二・二〇)。我に代わって苦い苦い杯を飲み干したもうた。十字架の上に誠に神の義と神の愛は接吻したのである。それゆえに神は詩篇第二篇十一節で「畏れをもてエホバに仕え、おののきをもて喜べ」と仰せたもう。おののきと喜びは両立しないようであるが、キリストの十字架を味わった人は自然にこうなる。どんな強胆な人もおののき、またどんな弱い人も喜び躍ることができる。
そうであれば、我ら神の義を知った者は全く罪を悔い改め、汚れを棄てるべきである。また神の愛を知ったなら、我が罪はどんなに重くても、すでにいかなる失敗があっても、事情がどうであっても、堅く信仰に立ってただ感謝讃美する。また神の御約束をそのまま信じて、祝福を大胆に受けることができる。ひとり子さえ惜しまず与えたもうた愛の神が、我らに与うるに何を惜しみたもうことがあろうか(ローマ八・三二)。そこで我が心中にも我が生涯にも義と愛とが接吻する。真正の自由と平和、喜楽はここにあるのである。
終わりに、我らは人に対しても神のこの態度を取らねばならない。堅く正義を持ち、不義に対してはあくまで強硬の態度で悔い改めに導き、また聖潔に至らしめねばならぬ。しかし、人の魂に向かっては、その罪の有無に関せずただ愛し、ただ温かく扱わねばならぬ。