主の御切願

笹尾鉄三郎

ヨハネ伝十七・十五~二四

御承知の通り、この章は主イエスが死にたもう前夜、弟子たちを長々と懇切に教え、慰め、戒めた後、彼らのためまた我らのために神前に伏してその御心の切なる願いを注ぎたもうた時の祈りである。普通の人が祈りいる部屋に入り、あるいはその声を聞いても実に厳そかな感がするが、ここは祭司の長イエスが至聖所で我々のために祈りたもう所で、我らはその御声を聞くことができるのである。なんと厳粛なまた幸福なことではないか。十七章以下において主の祈りの四つの要点を見る。

(第一)「彼らを守りて、悪に陥らすなかれ」(十五節)

この世は神の敵で、罪悪と腐敗とに満ちている。しかし主は我らをこの世より取り去りたまえと祈らず、我らが泥中の蓮のように世にありながら少しも世に汚されないことを願いたもう。この世は種々の誘惑物をもって我らを悪に引き入れようとする。世を友とするは神に敵すること、姦淫罪であると神は厳しく戒めたもうが、昔より今に至るまで教会の通弊は俗化である。我らが世に属する間はどうしても自由がない。子供が「壷の中から手が出ない」と泣いている。母が「どうやって入れたのか」と尋ねると、子供は「入れる時にはすぐに入ったけれども、出すことができない」と言う。「それは壷の中の物を握っているからだ。その物を放せば手は出る」と言い聞かしても、子供は泣いて放なさない。だから手が出ない。この子のような信者がたくさんある。世に属する物、放すべき物を放さないでいて、自由を得ることができないと嘆いている。おお、世と肉につける一切の物を心より手放せよ。「我の世のものならぬごとく、彼らも世のものならず」(十六節)。標準はここに明らかである。主はこの世にいながら全くこの世と離れていたもうた。この世は肉欲を満たす物、目に美わしい物、宗教界の名誉、その他あらゆるものをもって主を誘うたが、主はこれらを全く退け、ただ神の旨に従い、十字架の生涯に満足したもうた。「この世の君きたるゆえなり。彼は我に対して何の権もなし」とは主の一生涯の証しであった。我らは召されて主と結合した者であるから、主のように世より離れているべきである。今も主はこれがために祈りたもう。兄弟姉妹よ、あなたが世に属する間は主イエスの御胸の重荷となっているのである。

(第二)「真理にて彼らを潔め分かちたまえ」(十七節)

主は我らが外部の世より聖別されるのでなく、内心の罪と汚れとより全く潔められんことを祈っていたもう。多くの信者の内になお古き人がある。高慢がある。不従順がある。貧欲がある。放逸がある。不潔がある。薄情がある。主はこれがために苦しんで祈っていたもう。そして、「真理すなわち神の言をもって潔めたまえ。われ彼らのために自己を潔む(原語は献ぐとの意)」と言っておられる(十七、十九節)。我らの潔められるのは神の言によるのである。ただし、その言に力あるわけはその後にキリストの献身犠牲があるからである。もしこれなくぱ聖書の言葉も論語や孟子の言と同じものとなる。

民数記十九・九を見ると、汚れを潔める水ということがある。この水を作るには、まず完全無欠な赤雄牛を神の前で屠り、その全体を焼いて灰とし、その灰を蓄えておき、これをもって灰水を作った。この灰水が汚れを潔める水となったのである。これは我らを潔める聖言の型である。完全無欠、柔和で忍び深い主イエスは聖き御身をもって我らのために屠られ、霊火をもって焼かれたもうた。今われらが聴く福音の聖言はイエスの死を含む灰水である。我らの隠れた罪と心中の汚れを知りたもう神は、我らを呪う代わりに畏れ多くもこの灰水をもって我らを潔めんとの思し召しである。「その子イエス・キリストの血、すべての罪より我らを潔む」(ヨハネ一書一・七)。ああ、感謝すべきかな。全き潔めは我らが平和自由満足を得、おのが小さい心の注文を満たされるためというよりも、むしろ主イエスの御切願である。これがために主は生命を捨てたもうた。愛する者よ、今明らかに自分の罪を言い表して主の血に投じ、全き潔めを受けて主イエスを慰め奉れ。満足させ奉れ。

(第三)「みな一つとならんため」(二一節)

第一は世より聖別され守られんこと、第二は罪の性質より潔められんことを祈りたもうたが、主は進んで我らが全く父および子と一致し、またすべての信者と愛によって一つにならんことを祈りたもうた。これがために我らが完全な愛をもって満たされんことを主は求めたもうたのである。いかなる事情や理屈があるにせよ、不和分離は神の御憂苦、またすべての聖徒の悲痛である。今私が一々この点あの点と言わずとも、あなたが神と一致していないところ、また兄弟姉妹と一つになっていない点を聖霊はあなたに示していたもうことを信ずる。あなたは種々に故障を申し立てることもできよう。しかし、我らが罪人であった時、主が御身分を落として我らに近づき、自ら罪人の地位に立ち、ただ愛されて我らと一つとなり、これによって我らを贖い出したもうたことを深く思われよ。あなたの故障は消えるはずである。あなたは主を頭とし、すべての信者と一身同体になっているであろうか。(外形の連絡はともかく、心において、愛においても)。エペソ三・十八には測るべからざるキリストの愛を「すべての聖徒と共に」知るべしと示してある。世と一致し、有名無実な教会の会員と一致するのではなく、血に贖われた神の子らと一つになるのである。我ら少数の者がたとえ首尾よく再臨の主の前に出るとも、「かの兄弟は堕落しました。かの姉妹は駄目であります。我らのみが潔くてここにおります」と申し上げるなら、主は必ず御失望されるであろう。聖潔を信ずる者がことによると他の信者を軽視し、彼らと分離し、ただ自分らのみを聖しとし、高くする危険がある。これはすなわちパリサイ人である。我らも自ら慎しむべきである。ルカ十五章の放蕩息子の兄は、潔められない信者の型である。父は放蕩息子の罪を咎めないで彼を歓迎し、はるかに離れている彼にすがりついて接吻し、彼のために祝宴を開いた。しかるに兄は帰り来て戸口に立ったまま怒って入らず、父を咎め、弟を責め、自分の功を述べて不平を鳴らした。なぜであるか。彼が日頃性質において父と一致せず、また愛によって弟と連なっていなかったからである。元来われらは父及びその子イエスキリストと同心であるはずである(ヨハネ一書一・三)。これは二二節にある栄光、すなわち聖霊を受け、聖霊に満たされることによってかくなるのである。聖霊による他に一つになる道はない。信じ従う者に主は、この栄光の霊、一致の霊を与えたもう。おお信ぜよ。

(第四)「汝の我に賜いたる人々の我がおるところに我と共におり、
汝の我に賜いたる我が栄光を見んことを」(二四節)

親が楽しいところに行って美しい物を見る時、すぐさまわが子もそこにいてその物を見ることを願うのである。主の御心もその通りである。彼は御自分の楽しみのために天に行きたもうのではなく、我らのために所を備えに行きたもうのである。彼は我らがそこに行き、主と共にその栄光を受けることを待ちわびていたもう。そして彼は再び来られて我らを迎えたもうのである。これがために主は日夜祈り、かつ全力を尽くしていたもうのである。これがために主は日夜祈り、かつ全力を尽くしていたもうのに、もし我らが何かに妨げられて主の前に行かなかったならば、我らの不幸はもちろんであるが、主の御失望、御悲嘆はいかばかりであろうか。おお、思い見よ。我らこれまで主を失望せしめ、嘆かしめてもはや足れり。このうえ彼を失望せしめないように。

そうすれば我らは(一)罪の世より聖別され、かつ守られ、(二)内心の潔めを受け、(三)愛の聖霊によって一つとされ、(四)再臨の時、主と共に栄光を受けて主の喜びに入るべきはずである。