「今日ダビデの町にて汝らのために救い主うまれたまえり。これ主キリストなり。汝ら布にて包まれ、馬槽に臥しおるみどりごを見ん。これそのしるしなり」(ルカ二・十一~十二)。
めでたいクリスマスが来て御前に喜ぶが、この際われらはいっそう深くわが救い主を知りたく思う。我らの救い主の特色は主たるキリストなることと、彼がみどりごとなりたまいしことと、彼が布に包まれ臥させられたことである。
主たるキリスト
主とはエホバを指す語であって、イエスは永遠より永遠にいます御方である。彼は太初より神と共にいまし、神であり(ヨハネ一・一)
万物の造物主かつ保存者(コロサイ一・十六、十七)
聖者、義者(使徒三・十四)
生命の主(使徒三・十五)
栄えの主(第一コリント二・八)
真理の本体(ヨハネ十四・六)
知恵の源泉(マタイ一・十九)
でありたもう。実に彼は尊貴をきわめ、栄光限りなき御方である。それなのに、なぜその栄光の宝座を捨て、汚れたこの世に下リたもうたか。それは他でもなく、我ら罪人の苦難が御目に止まり、我らの叫び声が御耳に入り、かつ地獄の危険が我らに迫って来たことを見たもうたからである。「誰一人おのが兄弟を贖うことあたわず。これがために贖い代を神にささげ、これをとこしえに生きながらえしめて朽ちざらしむことあたわず。霊魂を贖うには価遠くして、このことをとこしえに捨て置かざるを得ざれぱなり」(詩四九・七~九)。「エホバは人なきを見、仲立ちなきをあやしみたまえり」(イザヤ五九・十六)。「われ見てたすくる者なく、ささうる者なきをあやしめり」(イザヤ六三・五)。ああ、しかり、我らは煩悶と苦痛と後悔と恥と悲嘆と失望のうちにこの世を終え、来世は永遠の滅亡に陥るより他に道がなかったのである。慈愛の主はこの状態を見てその宝座に安んじいたもうことができない。天国の美も彼を楽しませるに足らず、天使の音楽も彼を慰めることができなかった。我らに向かう彼の愛は御自分を忘れさせ、彼はついに「神と等しくあることを固く保たんとは思わず、かえっておのれを空うし、僕の形をとりて人のごとくなり」たもうた(ピリピ二・六~七)。彼は天使を遣わすことをなさらず、御自身が下りて我らのもとに来たりたもうたのである。木戸孝允公が病気危篤の際、陛下が御見舞においで遊ばされたことは実に畏れ多いことで、藤原鎌足以来例のない人臣の光栄としているが、主たるキリストが我らのために下りたもうたことはこれよりもはるかに畏れ多く、かたじけないことである。
みどりごなるイエス
人間の考えによれば、主がたちまちこの世の王たる権威をもって現れ、悪魔を罰し、人間を救いたもうように思われるが、神の御考えはこれと異なり、イエスは貧民の婦人の胎より自力なきみどりごとなって生まれたもうた。「彼は主の前に芽のごとく、乾きたる土より出ずる樹株のごとく育ちたり。我らが見るべき麗しき姿なく、美しき形はなく、我らが慕うべき見ばえなし」(イザヤ五三・二)。彼は最微最下最弱の点より出立したまい、すべてのことにおいて我らと等しくこの世の試惑に会いたもうた。かくてこそ彼は上より教え導く聖賢ではなく、下より持ち上げ助ける救い主である。彼は我らの真の同情者である。「おのれみずから弱きにまとわるれぱ、また愚かなる迷える者を憐れむことを得るなり」(へブル五・二)。これによって彼は人間の真の代表者として身代わりに立ちたもうことができたのである(ローマ八・三)。
布と馬槽
昔ソロモン王が世界無比の壮麗な神殿を建て上げた時、「見よ、天も諸々の天の天も汝を容るるに足らず。まして我が建てたるこの家をや」(列王上八・二七)と申したが、我らの主キリストは御殿は愚か、普通の座敷にさえ迎えられたもうことができないで、畏れ多くも彼は布に包まれ、槽に臥させられたもうた。これは主に対する人間の態度と主の忍耐の御生涯を示している。「狐は穴あり、空の鳥はねぐらあり。されど人の子は枕する所なし」(マタイ八・二〇)。「われは虫にして人にあらず。世にそしられ、民に卑しめらる」(詩二二・六)。彼はついに門の外に捨てられ(へブル十三・十二)、十字架に釘付けられたもうた。我らのためにかくまでも忍びたもう御愛はいかばかりであろうか。
愛の広さ・長さ・深さ・高さ(エペソ三・十九)
愛の広さ――主の愛はすべての時代、一切の国民、あらゆる階級にまで及ぶからこそ、今異邦人なる卑しき我にも届くのである。
愛の長さ――主の愛は永遠より永遠まで続く長い愛である。「われ限りなき愛をもて汝を愛せり。ゆえにわれ絶えず汝を恵むなり」(エレミヤ三一・三)。感謝にたえない。
愛の深さ――いと高き宝座より下って、いと低きところに堕落しいたる我にまで来たり、生命をも与えたもう愛の深さよ。
愛の高さ――糞土よりも汚れたこの罪人を上げて御自分と共に天の栄光の座に着かしめたもうとはいと高き愛である。