真正の聖潔

笹尾鉄三郎

「我そこにて汝らに会い、汝と語るべし。そこにて我イスラエルの人々に会わん。幕屋はわが栄光によりて聖くなるべし」(出エジプト二九・42、43)。

私が今度の集会に聖霊の御臨在を願うために神の前に祈っていた時、神はこの言葉をもって答えたもうた。我らの最大の願いは決して天下の名士を招くことでもなく、また大説教者から話を聞くことでもない。聖霊の御臨在である。私はこの聖言を与えられたことを非常に感謝している。

我らが切に求めるものはエホバで、全力込めてなすべきことはエホバの声に聞き従うことである。「我そこにて汝らに会い、汝と語るべし」。おお、ここはエホバと我らとが対面する所である。私が今皆様に向かって話をしているよりも、神がここにおいて我らと語りたもうことはなお確実な事実である。

「幕屋はわが栄光にて聖くなるべし」。エホバがあなたの全身に臨みたもうた時、あなたは潔められるのである。信者となっても神の御顔が見えず神の御声を聞くことができないことは、実にあわれなことである。神と交通が切れて悪魔が自分の中にいることは、一番あわれなことではないか。他にいかなるあわれなことがあるとしても、これほどあわれなことはない。

さてここに表われた三つの要点は、第一会う、第二語る、第三潔くなる、この三つである。

「会う」とは実にありがたいことである。神は神と語ることができないで嘆いている者に対して「我そこにて汝らに会う」と仰せたもう。他の場所ではない、そこで(燔祭の壇で)汝らに会うと仰せたもうのである。燔祭の壇とは神の幕屋の門口にある朝夕どんな日でも羊を殺して燔祭とする所で、羊とはあなたの知っている屠られたもうた神の小羊である。神はそこで我らに語ると仰せたもう。同様の言葉が出エジプト二五・21、22にも記されている。「そこにわれ汝に会い、贖罪所の上より、律法の箱の上なる二つのケルピムの間よりして、我イスラエルの人々のために我が汝に命ぜんとする諸々のことを汝に語らん」。これは神がイスラエルに与えたもうた神の幕屋の一番奥に設けられた至聖所で、箱の上とは贖罪所を指すもので、恵みの座と同一の物である。原語では同一の文字を使用している。ここは祭司の長だけが血を携えて年に一度入る所で、他の者は何人もここに入ることはできない。このように言えばわかるであろう。ここは主イエスが天に昇り、父の前で贖いをなし、その仲保をなしたもう所である。そこにて、ああそこである。ここでなければ神に面会することはできない。ここに来るならば神と面と面とを合わせて面会することができる。何というもったいないことであろう。何と幸福なことではないか。

しかし、神と面会することは幸福であると共にまた恐ろしいことである。人間でも汚れた風では貴人の前に出てその人と語ることのできぬように、神の前に汚れたままで出て神と語ることはできない。多くの信者は横着であるから礼拝に出ても神に面会しない。であるから、いつまでも同じ所にいて汚れている。第一に、我ら神の前に出る時に、自分の賎しい汚れたことを知るのである。かのイザヤは実に立派な人で王の前に出て預言するほど貴い人であったけれども、神に面会したことがなかったので、いったん神に面会して「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」との天使の賛美の声を聞いた時、その御前に打ち倒れて、「わざわいなるかな、われ亡びん」と言った。この経験を持つ人でなければ決して聖いとはいえない。エレミヤ十七・6、10を見よ。「心はすべての物よりも偽る者にしてはなはだ悪し。誰かこれを知るを得んや」とある。人の心は巧みに欺くけれども、神は腹の中までも見抜く御方で、高ぶり、汚れ、偽善、恨みとねたみを持っているその心が神の前に出ている。今、我らは神の前に出ていることを知りたい。

へブル四・13には、「また造られたる物に一つとして神の前に現れぬはなし。よろずの物は我らが係われる神の目の前に裸にてあらわるるなり」と記されているが、諸君の姿はどうであろうか。蝮のような心はないであろうか。石のような心、同情の薄い憎い心が神の前に現れていまいか。しかし、神は諸君を滅ぼすために罪を摘出するのではない。隅から隅まで探ってもらわれよ。あなたの姿がどんなに汚なくても大丈夫である。光の下に明らかに自分の罪を感じられよ。その時、神の声はあなたに聞こえるのである。「そこにて汝と語るべし」。光に照らされる時に神の声が聞こえる。あの三人の使徒が山上で倒れた時、神は彼らに語りたもうた。あのパウロが光に照らされて倒れた時に、神はこれに語りたもうた。神があなたに語りたもうのは、あなたを愛してその苦痛から、くびきから救出するために語りたもうのである。

ローマ十二・2には、「されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧む。おのが身を神の悦びたもう潔き活ける供え物として献げよ。これ霊の祭なり。またこの世にならうな。神の御意の善にして悦ぶべく、かつ全きことをわきまえ知らんために、心を変えて新たにせよ」とある。

おお、兄弟よ、姉妹よ。全く神に献身せよ。諸君は今日まで献身ということについて度々聞いておったであろうけれども、今もその実があがっているか。すべての所有をみな神に献げているであろうか。はたして世の人のような点はないか。コリント後書五・15を見よ。我らは神を離れて生涯を送るべき者ではない。神のために生涯を送るべき者である。キリストが死にたもうたのはこのためである。あなたの生涯はこの通りか。そうでなければ、神は今まったく献げよと仰せたもう。多くの人は上よりの能力を求めているが、上よりの能力は全く神に自分を献げる者にのみ来る。おお、あなたの今の有様はどうであろうか。出エジプト二九・37の終りには「すべて壇にさわる者は聖くなるべし」とある。十字架は聖める力を持っている。しかし、さわる者が聖くなるのである。壇より離れている者は聖くなることはできない。自分で何か握っている者は決して聖まることはできないのである。全く献身されよ。これはさわることである。この献げ物とする物は完全なものでなければならなかった。この完全とは決してすばらしいという意ではない。すべてを捧げる意味で、真正の燔祭とはこのようなものである。献身した人こそ全く潔められる人である。おお、全く献げられよ。もう一つの神の声はただ信ぜよという声である。この新約の声はさわると同じく信仰をもってイエスにすがることである。信ずる時に、すがる時に潔められる。かのユダヤ人は「何をすれば神の業となるか」と言ったが、イエスはこれに対して「神の遣わしたる者を信ずるはその業なり」と答えたもうた。「これわが愛子なり。汝らこれに聴くべし」。そうである。イエスを信ぜよ。「幕屋はわが栄光によりて聖くなるべし」。

真正の聖潔は神の栄光がわが内に来ることである。多くの人は聖潔について人間的な考えを持っている。人間は汚れを洗っても決して潔くなるものでない。汚れが取り去られて神の性質が満ちわたるので聖くなるのである。かの電気灯のガラスの中に白金あるいは炭素があるが、電気が流れなければ輝かない。これと同様に、人間の心の中に神の聖霊が来る時に、神の聖なる光に満たされるのである。そこで初めて自由な聖なる者となる。かの皇居建築の際に多くの大工等は皇居の中に入るのを許されたけれども、今日は入ることはできない。これを造る時には聖なる物でなかったが、陛下の御臨居が皇居をして犯すべからざる物にしたのである。皇居の値打ちは決して建築物の材料によるものではなくて、その中に住む者の臨在によるものである。我らの内に聖なる三位一体の神がお入り下さる時に我らは聖とされるのである。自分の恐ろしい有様をあらわし、神の前に倒れる時に、神はイエスの血潮とイエスの聖をもってあなたのうちに臨んで下さるのである。「我そこにて汝らに会い、汝と語るべし。幕屋はわが栄光によりて聖くなるべし」。