約束の地における勝利と占領

笹尾鉄三郎

「かくエホバ、イスラエルに与えんとしてその先祖たちに誓いたまいし地をことごとく与えたまいければ、彼らこれを得てそこに住めり。エホバすべてその先祖たちに誓いたまいしごとく、四方において彼らに安息を賜えり。そのすべての敵のうちに一人もこれにあたることを得る者なかりき。エホバ彼らの敵をことごとくその手に渡したまえり。エホバがイスラエルの家に語りたまいし善きことは一つだに欠けずしてことごとくみな来たりぬ」(ヨシュア二一・四三~四五)。

これは聖霊をもって満たされたことである。ここで注意すべきは、地はことごとくイスラエルの民に与えられたことで、四四節で四方において「安息を賜えり」とあるがこれは真正の安息である。その次は同節の「そのすべての敵のうちに一人もこれにあたることを得る者なかりき」で、これは完全な勝利を指している。また四五節においては「善きことは一つだに欠けずして」とある。これは潔められた者に与えられる特権で、今日の潔められた者の受くべき聖霊の盈満である。すなわち、約束の地の占領は決して言葉で言い表わすことのできぬところであるから、聖霊によって味わうより他に仕方がない。私の語る所はほんのその一端であるから、そのつもりで聞かれたい。

第一、完全な勝利を得るには順序がある。三章には聖霊を受けること、すなわちヨルダンを横切ることが記されている。その後種々な戦いがあるから、カナンの地を山にたとえるならば、聖潔は山のふもとに達したことである。潔められた者は山に登らねばならないから、潔められた者の生涯は戦いの生涯、深みに進む生涯である。このカナンを全く占領する生涯においても、消極的の方面と積極的の方面とがある。消極的には深い死を要することであって、死といっても古い人のことではない。これを木にたとえるならば、木の根が切られてもなお枝が枯れるには日光も空気も時間も要するように、古い人の死んだ後にもその所有物を葬むる必要があるのである。積極的にはイエスの形に化することで、今日はその生涯に入る道程を申し上げよう。

五・十三節以下に「ヨシュア、エリコのほとりにありける時、一人の人剣を手に抜き持ちて……汝は我らを助くるか……我はエホバの軍旅の将として今来たれるなり……汝の履を足より脱ぎ去れ。汝が立ちおる所は聖きなり……」。この出来事はエリコの近辺であったことで、これは敵を眼前に控えた時に起きたことであることを記憶せよ。この大敵は決して人間の能力では破ることのできないもので、聖潔を受けた生涯は以前の生涯よりも悪魔との衝突の多い生涯である。潔められない生涯よりも衝突が密接であって、確かに激しい戦いがある。我らカナンに入る時は確かに戦って取るので、決して棚から牡丹餅式の生涯ではない。神は戦わせてこの地を占領させるのである。けれども、これは古い人との戦いではない。悪魔との衝突で、この衝突は家庭の中にもあろうし、また自分一人の身を処置する時にも起ころう。かえって前の生涯よりも衝突が強い。神はヨシュアにこのことを示したもうた。「エホバの軍旅の将、ヨシュアに言いけるは、汝の履を足より脱ぎ去れ。汝が立ちおる所は聖きなり」。これヨシュアに対する大教訓であった。モーセは死に、ヨシュアはどうしても信仰でなければいけないことを知った。信じて進むのはすなわちヨシュアである。

ヨシュアとモーセとを比較する時、非常な差違がある。モーセは律法を命じたが、ヨシュアは信仰の人である。神はこのヨシュアに対して「約束の地を占領するのは汝ではない。我である。エホバの軍旅の将である。履ぬげ、履ぬげ」と仰せたもうた。履を脱ぐとは僕の態度を取ることで、これ潔められた者に対する神の声である。「潔められた我なら何かができる」と思うなら、実に大いなる心得違いである。けれどもあなたはいつの間にか履いていないか。我は信仰があるとか、偉いとかいう心はないか。エリコの城を落とすのはエホバである。履を脱げ。聖霊に満された生涯は奴隷の生涯である。エリコの城はこのような人の所有に帰するのである。大砲一つ打たず、エリコに信仰をもって進んだ。見れば見るほど困難の度を増す。けれどもイスラエルの人は最後の日に讃美の突貫を試みた。堅固なエリコもこの突貫によって落城したのである。この勝利こそ聖霊に満された者の所有物である。次に七章にはアイの失敗があるが、これは勝利の後の大失敗で、潔められた者もこの失敗を犯すことがある。潔められた者は潔められぬ者よりも大失敗をすることがある。アイはエリコよりも小さい所だから失敗するはずはないのだが、イスラエルの民は敵を悔って全軍をもって戦わず、わずか二、三千人で戦いを始めたから大恥辱を受けた。これは実に情ないことで、カナンに来るまでこのような失敗は演じなかった。アマレク人との戦いでは負けそうになったけれども、モーセの祈りによって勝利を得た。けれども、今このアイの敗北のために神の名は侮られた。しかし、この原因はどこにあろうか。一つは敵を侮ったことであった。この実例はたくさんある。たとえば聖霊に満たされさた人は人の前に立って説教する時、へりくだって聖霊によって歩んでいる。が、家に帰って失敗することがある。これは集会の時のみ敵の勢力を警戒して、家庭にある悪魔の勢力を警戒しないからである。家庭だからといって決して悪魔の努力の弱いはずはなく、かえってエリコの敵の勢力よりも強い。だから祈りの精神はいつも必要である。けれども八・二には伏兵(祈り)があったから大勝利を博した。祈りとは決して儀式ではない。また何分何時間という機械的なものでもなく、信仰によって神を握っていなければならない。神と悪魔を知らないのは確かに失敗の大原因である。次はアカンである。アカンはエリコの呪われた物を隠した人であるが、今日もアカンがいる。彼は悪魔の誘惑を握る人である。潔められた人にも誘惑が来る。かのアブラハムが凱旋した時、ソドムの王が早速彼を迎えて贈り物をしたけれども、彼は断然これを退けた。悪魔はどうにかしてこれを握らせようとする。もしこれを握るなら、その人はアカンである。これによって神の全軍が破れた。これは潔められてから世につく物を握り、これを隠している人である。軍旅の将はこのような者と共に出て行きたまわない。けれどもそのアカンを引き出して石で打ち殺すならば、エホバの軍旅の将はもう一度共に行きたもうのである。

次に十二章二四節以下にある三十一王の征伐である。三十一王とは古い人ではない。古い人の附属物で、その人の性質と習慣に付け入って働く悪魔の遺物である。例えば、ある人は非常に自分の義を主張する。他人より自分は非常に規律が正しいとか、他人と比較して種々の自分の長所を誇る癖を持っている。これは新しい光が来なければ決して取り去られるものではない。またある人は将来に対して無責任だ。このような人は放蕩などをした人に多い。またある人は万事に抜け目なく何事にもきちんとしているが、他の人を見てかの人はずるいという風に自分を勝った者とする。私には自ら重んずる風があった。「俺が抜けたらいけない」という風に思って、とても人が自分より勝ることを解することができなかった。けれども自ら無き者であることを知り、それを表して取り去られた。

このようなことは各自異なる性質であらわれるが、実に罪の深みがある。どうしてもキリストの光に打たれて殺されるまでなくならない。この中に出過ぎ王、引っ込み王、理屈王、すね王、種々の癖がある。これはどうしても征伐してもらう必要がある。またある人は他人に対して親切だが世話を焼き過ぎる。また一方には人を世話することを嫌う者があるがこちらもいけない。その他、風采、力量を誇る王があるかも知れない。真正に隅から隅まで生まれつきの物は取り去られねば駄目である。これは決して自分の力量で押さえつけられるものではない。今日へりくだって殺されてしまわれよ。

私は潔められてからこの王を見い出して、なお古い人が残っているのかと非常に苦しみ、再び古い人の殺し直しをせねばならぬかと思ったが、聖霊はこれは三十一王であることを示したもうた。であるから「イエスキリストの血すべての罪より我を潔む」とは単に潔まる時のみでない。十八章三節には「汝らはいつまで怠りおるや」とある。彼らは与えられた土地を占領しなかった。潔められた者の中にも大いに戦いまた祈り、それは一生懸命に戦う人があるが、進んで占領しないからいつまでも貧乏な姿でいる人がある。今日潔めの仲間が引き立たないのはこの理由であろう。決して彼はヨルダンを横切らないわけではない。怠りの罪を犯しているから、占領することをしないのである。神はなぜぐずついているのかと言われる。マタイ十一・十二の「励みて」は「乱暴を許す」との意である。どうも日本の信者はおとなしくて困る。進んで神の与えた地位を握り取る必要がある。聖別会の時ばかりでなく、平常において励まなければいけない。大いに奮闘する必要がある。ヨシュア十八・十九、二一にはベニヤミン人が占領した土地の名が記されているが、このように我らは約束の地を占領しなければいけない。エペソ一・二二、二三には「よろずの物をその足の下に従わせ、彼をよろずの物の上に頭として教会に与えたまえり。この教会は彼の体にして、よろずの物をもてよろずの物に満たしたもう者の満つる所なり」とあるが、ここを見ると信者に与えられたのはキリストである。おお、これは実に驚くべき賜物である。天にいたもうイエスである。その次に「頭として教会に与えたまえり」とある。古い人や三十一王が取り去られただけでは頭なしの教会であるが、頭としてキリストを賜うたとは実に驚くべきことではないか。呪わるべき我がために十字架にかかって、神と我との間の隔ての中垣を砕かれたイエスと我が一つとなるのである。頭とは決して親玉という意味ではなく命の関係を持つことを指すもので、頭の命で体が生き、体の血で頭が生きるのである。おお、ハレルヤ。

コロサイ一・十八も同じくキリストを頭として記している。ここには死の中より生まれたキリスト、父なる神がすべての徳をもって満たしたもうたキリストとしてあらわされている。またコロサイ二・三には「知恵のたくわえはすべてキリストにあり」とある。おお、キリストはこのような御方である。徳に満ち足りた御方である。それだけではない。このキリストが外でない内にいますことは何とありがたいことではないか。よろずの物をもてよろずの物に満たしたもう者が我らに満つとは何と幸福なことではないか。あなたは種々の点において欠乏を感じているが、働きについて「ここがいけない、あそこがいけない」と思っておられるか。このキリストを受け入れられよ。ここに一人の富む人があって乞食の女を自分の妻としてめとるならば、その時からその乞食はその人の妻となり、その夫は妻の所有となる。かの放蕩息子が帰って来た時、彼の兄は父に向かって不足を言ったが、父は「我が物は汝の所有なり」と言った。我らが全く神に献身する時、神は我が物となりたもうのである。おお、感謝して受けられよ。今度の集会で度々引照されたが、エペソ三・十七に「信仰によりてキリストを汝らの心に住まわせ」とある。もちろんキリストは天におられるが、我が内にもいましたもうのである。かのヨハネ七・三八を見られよ。「我を信ずる者は、その腹より生ける水、川となりて流れ出づべし」はキリストの叫びである。このキリストを我が物とする時、キリストの物はわが所有となる。ちょうど一升ますの中に大洋が満ちたようである。おお、感謝せよ。またキリストは愛である。エペソ三・十八、十九を見られよ。クリスマスから私の祈りは「私を愛に満ちたものとして下さい」ということであったが、愛は与える河である。この河をわがものとして与えることは幸福なことである。またこの愛は命を捨てる愛である。カルバリー山において命を捨てるこの愛は、信ずることによってわが所有となる。またこれによって忠信な者となるのである。