「愛する者よ、我らいま神の子たり。後いかん、いまだ現われず。その現われたもう時われらこれに似ることを知る。我らその真のさまを見るべければなり」(ヨハネ第一書三・二)。
我らは今日この厳粛な時に際し、目前にあるこの世の物より目を転じ、ひそかに将来のことを考えたい。「後いかん」。おお、今日ともかくも「後いかん」。「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花のごとし。草は枯れ、花は落つ」(ペテロ前書一・二四)。前に我らの魂は罪と咎の中に死に、世にあって神なく望みなき者であった(エペソ二・十二)。「かかる者の後いかん」と問わぱ、もちろん肉体の死ぬことと死んで後審判を受けることあるのみである(へブル九・二七)。今これを思うと、私は身の毛も立つほど恐ろしく危ない者であった。今もなお罪を持ち、世につき、肉によって歩む者は実に危ない。死は事実となって今我らの眼前にある。兄弟よ、姉妹よ、後いかん?
罪の結果として来た死は人間にとって実に恐ろしいものであるが、我らの主イエスキリストはその十字架の死をもって我らにまた勝利を与えたもう。へブル二・九、十四、十五を見られよ。
「死の苦しみを受けし……イエスを見たり。これ神の恵みによりて万民のために死を味わいたまわんとてなり。子らは共に血肉をそなえれば、主もまた同じくこれをそなえたまいしなり。これは死の力を持つもの、すなわち悪魔を死によりて滅ぼし、かつ死の恐れによりて生涯、奴隷となりし者どもを解き放ちたまわんためなり」。
ここに三つのことを見る。
第一。主は我らに代わり苦しみ、恐ろしい死の杯をすでに飲み干したもうた。ああ、彼は死の苦しみを受けたもうた。苦悩にも種々あるが、主は我らのために罪の結果、神の呪い、悪魔の奥の手である死の苦しみをなめたもうたのである。
第二。死の権威を持つ者すなわち悪魔を滅ぼすのに、主はその全能力を用いたまわずに御自身の死をもってこの強敵を倒したもうた。ちょうどダビデがゴリアテを殺すのにゴリアテの刀を用いた通りである。大きい魚を釣るのに小さい魚を用いる。しかしその小さい魚の中に針があり、大きな魚を殺すのである。悪魔は大きな魚のように、主イエスは小さい魚のようである。主は我らと同じ弱い肉体を取りこの世に現れたもうたから、死の権威を持つ悪魔は例の通り主に飛びつき食い殺したが、主イエスの中には神性があった。これは悪魔にとって恐ろしい針であって、これによって悪魔と死の権威は破られてしまったのである。
第三。死を恐れて生涯つながれていた我らを解き放ちたもうた。前には罪の結果として死は我らの王となり、どうしても我らは死の配下より逃れることはできなかった。悪魔はこの死を振りまわして我らを恐喝するから、我らは生涯死の恐れに憑かれていたが、我らの主イエスはこの恐れより我らを解放したもうた。テモテ後一・十を見られよ。「キリストは死を廃し」とある。ハレルヤ、死は廃せられてもはやないのである。しかしこの通りやはり死ぬではないか。さよう、しかしそれは全く異なった意味の死である。黙示十四・十三を見られよ。「『主にありて死ぬる死人は幸いなり』。御霊も言いたもう『しかり。彼らはその労役を止めて休まん。その業これに従うなり』」とある。主にある者の死は安息するのである。報賞を受けるために行くのである。おお、いかに甘く楽しいことよ。それであるから「眠りにつく」と書いてある(使徒七・六〇)。パウロは言った「我が願いは世を去りてキリストと共におらんことなり。これ遙かに勝るなり」と(ピリピ一・二三)。そうである。この伊中兄弟は今最も勝ることを受けておられるのである。幸福ではないか。かの楽園の栄えと楽しみの中に主と共にいて、また誰も苦労も心配もない。主にある我らに対して「後いかん」と問う者あらぱ、我らは少しも恐れず大きな喜びで答えることができる。
なお主はこれだけでなく、進んで我らのために死より甦って今も生きていたもう。我らを愛して我らのために死にたもうた主は、我らの復活の頭となって甦り(コリント前十五・二〇)、我らのために天に昇り、今や所を備えていたもう。「後いかん」。やがて間もなく、ああしかり、主は再び来たりたもう。必ず遅くない(へブル十・三七)。「後いかん、いまだ現われず。その現わたもう時われらこれに似ることを知る。我らその真のさまを見るべければなり」(ヨハネ第一書三・二)。主自ら天より下られるその時、伊中兄も、その他の眠った聖徒も、我らに先立って行った愛する者も、みな甦って来る。こうして生き残った我らはまたたく間に神に似た栄光の体に化せられ、甦った彼らと共に雲に携えられ、空中においてなつかしい我が主に会い、こうして我らはいつまでも主と共にいることができる。おお、輝ける望み、悲しみを去らせる慰めである。死に勝つ大勝利である(テサロニケ前五・十三~十八、コリント前十五・五二)。終わりにヨハネ九・四を見られよ。「後いかん」。「夜来たらん。その時は誰も働くことあたわず」。今この恩恵の時、救いの日に、我らは全力をあげて御用を勤め、各々使命を果たしたいものである。