我らの望み

笹尾鉄三郎

「我はたえず望みをいだきて、いやますます汝をほめたたえん」(詩七一・14)。

望みは神より出で、失望は悪魔より来る。望みはこの世の生涯において我らに生命と力とを与え、失望は我らを弱らせ、沈ませ、死なしめる。兄弟姉妹よ、あなたは今日望みをもって進んでおられるか。あるいは失望の中に沈み込んでおられるか。あなたは神に所を得させておられるか。あるいは悪魔に所を得させておられるか。しかし、悪魔も時々、

偽りの望み

をもって我らを欺くことがある。この世と肉とに属する望みをもって得意気な者は必ず失望に終わる。世界のあらゆる栄華を極め快楽を尽くしたソロモン王も、「われ身をめぐらし日の下にわが労してなしたるもろもろの働きのために望みを失えり」と言っている(伝道二・20)。救い主に対して肉的な望みを抱いていた弟子たちは失望に陥った(ルカ二四・21)。しかし肉とその情と欲とを十字架に釘づけ、この世に属する望みを全く捨てた我らは神によって

生ける望み

を与えられた者である。「讃むべきかな。イエス・キリストの死人のうちより甦りたまえることにより、我らを新たに生まれしめて生ける望みを抱かせ」(ペテロ前一・3)。我らのために全き贖いを成しとげ、敵を滅ぼし、死に勝ち、甦って永遠に生きたもうキリストの上に建てた我が望みを、何者も打ち壊すことはできない。「この望みは我らの魂の錨のごとく安全にして動かず、かつ幕の内に入る」(へプル六・19)。主イエス以外の物に望みを置いて失望せる者よ。今はただ生ける主のみを見上げよ。「ああ我が魂よ、汝なんぞうなだるるや。何ぞ我がうちに思い乱るるや。なんじ神によりて望みをいだけ」(詩四三・5)。ああ然り、「我はたえず望みをいだきて、いやますます汝をほめたたえん」。

なおここに必要なことは、我らが

信仰の望み

を堅く維持することである。我らは愚かにもたびたび自分や、人や、事情や、悪魔の働きを見て失望せんとする。しかし、我らの信仰の父なるアブラハムは決してかかることをしなかった。彼が年老いて子がいないために嘆いている時、神は彼に子を与え、その子より多くの国民の生まれて来ることを約束したもうた。この約束を与えられた後十余年間を経てもなお子は生まれず、アブラハムはもはや百歳に近く、妻サラは早くより毎月のこと止まっており、子を生むという一事については死人も同様全く望みのない身体であったが、「彼は望むべくもあらぬ時になお望みて信じたり。これ『汝のすえはかくのごとくなるべし』と言いたまいしに従いて、多くの国人の父とならんためなりき」(ローマ四・18)。兄弟姉妹よ、あなたとあなたの同労者がいかに弱く、卑しく、愚かであっても、また事情がいかに困難でも、決して失望するに及ばない。神があなたに与えたもうた約束の上に堅く立たれよ。主はあなたを召し、あなたを選び、あなたによって救いの力、あるいは潔めの力、あるいは神癒の力を現わさんとしていたもうが、悪魔は極力これを防害し、あなたを失望させ、神より離れさせ、御栄えを現さないようにしているのである。兄弟よ、神の約束を成就させるのはあなたの力ではない。「万軍のエホバのたもう、これは権勢によらず、能力によらず、我が霊によるなり」(ゼカリヤ四・6)。おお、全知全能の神、十字架の力、聖霊の御働きを信じ、望むべくもあらぬ時にも望んで大胆に進み働き、神をあがめられよ。次に我ら

愛の望み

を持ちたく願う。これは望みの秘訣である。多くの人々の失望は愛の欠乏より起きる。「愛はおおよそこと望むなり」(コリント前十三・7)。あなたの愛する者が大病にかかれば、危篤に臨んでもなお一条の望みをもって全快を願うではないか。しかし、愛なくぱすぐに見切って望みを捨てる。おお、我らの要するものは神に向かう、また魂に向かう、いっそう深い愛である。そうすれば我らはいっそうの望みをもって励み進むに至るであろう。終わりに最も幸福なのは

再臨の望み

である。「幸いなる望み、すなわち大いなる神、我らの救い主イエス・キリストの栄光の現れを待つべきを我らに教えたもう」(テトス二・13)。ハレルヤ。なつかしい我が主イエスは間もなく再び来て我らを迎え、栄光の御国に入れたもう。その時、先立ち行った我らの愛する聖徒は甦り来る。その時、我らも栄光の形に化せられ、共に天に昇るのである。その時、十字架は代わって冠となる。それより限りなく主と共に住むことができるのである。「この望みを身の杖とし、道に進みゆかん。あいまみえるまで」(救いの歌五十四番の譜)。