顔覆いのない生涯

笹尾鉄三郎

「されど彼らの心鈍くなれり。キリストにより顔覆いの廃るべきを悟らねば、今日に至るまで旧約を読む時、その顔覆いなお残れり。今日に至るまでモーセの書を読む時、顔覆いは彼らの心の上に置かれたり。されど主に帰する時、その顔覆いは取り除かるぺし。主はすなわち御霊なり。主の御霊ある所には自由あり。我らはみな顔覆いなくして、鏡に映るごとく主の栄えを見、栄光より栄光に進み、主たる御霊によりて主と同じ形に化するなり」(コリント後三・十四~十七)。

最初に顔覆いある生涯につき、終わりに顔覆いなき生涯につき味わいたい。

(一)顔覆いある生涯

ユダヤ人は異邦人と異なって真の神を知り、また聖書を読んでいたが、十四節のように彼らには顔覆いがあった。今日信者の中にもこのようなことが度々ある。兄姉よ、あなたはどうであるか。神を信じキリストを信じているものの、何だか神と我が魂との間に薄絹一枚の隔てがあって、明らかに聖顔と聖栄を拝することができず、主との交通が自由でないことを感じていないであろうか。また他の兄弟姉妹は不信者に対しても、直接に魂が相触れ相交わって全く一致するに至らない。ことにある人とあなたとの間には大きな隔たりがあるようなことはないか。このように顔覆いのある生涯は神より遠ざかり、人より離れて孤立するあわれな生涯である。

なお顔覆いのある原因は、第一に十四節にあるように頑固さである。もし我が心中に砕けない所があり、神の御旨、主の聖声と知りながら従わない点があるなら、もちろん顔覆いがあるはずである。次は不信仰である。理屈は良くわかっているから自分でももがき、また人を議していながらどうしても満足がない、安息がない、自由がない、力がない、また愛が欠乏している。そのままでいるなら信者という名あるのみで、昔のイスラエルのように荒野に屍をさらすに至るのである。

(二)いかにすればこの顔覆いが除かれるか

十四節、「キリストにより顔覆いの廃るべき」。十六節「されど主に帰する時、その顔覆いは取り除かるぺし」。人力ではどうしてもこの顔覆いを除くことができない。しかしキリストが我らのために十字架に釘づけられ肉を裂き血を流して死にたもうた時、エルサレムの宮の至聖所の前の幕が上より下まで裂けた(マタイ二七・五一)。これは十字架の功によって神と人との間の隔てが取り除かれたことを示しているのである。我らの心が自己や人や世の事物より離れてこの主に帰す時、たちまち顔覆いが除かれ、神と我と一致結合することができるのである(へブル十・十九)。私は信者になって後も顔覆いを持っていたが、十字架の主を黙示された時、たちまち我が心は潔められ、顔覆いは取り去られた。私はその恵みを忘れることはできない。以来主を愛し人を愛する者となった。神の御旨と知ったら一も二もなく喜んで従う者とされた。「我キリストと共に十字架につけられたり。もはや我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは、我を愛して我がためにおのが身を捨てたまいし神の子を信ずるによりて生くるなり」(ガラテヤ二・二〇)。おお兄姉よ、顔覆いをかぶり自由も満足も安息も愛も力もなきことを感ずる者よ、十字架に来たれよ。ただこの愛の主のみを見上げよ。生命を捨てるほどあなたを愛したもう彼を信ぜよ。いかなる困難があるにしても、十字架の血の功と聖霊の力でたくさんではないか。全き献身ができないとか、服従ができないのは、あなたがまだ真に主の愛を信じないからである。愛の主を見られれば喜んで一切を献げ、またどのようにもどこまでも彼に従うことができる。おお、全く心身を開放して主を迎え入れられよ。聖霊は十字架を通して来たりたもう。ハレルヤ、彼によって我らは

(三)顔覆いなき生涯

に入る。主の御霊ある所には自由あり(十七節)。神に対しても大胆に口を開くことができる。また真正の同情と心交があり、安息と喜楽と力とがある。「我らはみな顔覆いなくして、鏡に映るごとく主の栄えを見」。顔覆いを除かれた我らは鏡として地上に生きているのである。十字架の主、甦りの主、昇天祷告の主は、御自身の姿をこの鏡に写し込みたもう。かつこの鏡によって御自身を世人に現したもうのである。おお、我らがこの鏡を曇らすことなく、また主と我との間に何物も置かなければ、いつでも明らかに主を拝し得るのである。かつ覚えず知らずの間にも主を人に示しているのである(コリント後四・六、十)。加えるに「栄光より栄光に進み、主たる御霊によりて主と同じ形に化するなり」。聖霊は卑しい我が品性を片端から漸次変じて、高潔完美な主の御品性と同化せしめたもうのである。さすれば我らは喜んで時々刻々事々に聖霊に所を得させ、主の御跡を踏んで進もう。