(一)
責任の自覚。主イエスはその弟子らに向かい、「汝ら行きて、諸々の国人を弟子となし、父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し、わが汝らに命ぜしすべてのことを守るべきを教えよ」(マタイ二八・十九)と命じ置き、昇天したもうた。全世界の尊い魂の責任は弟子らの双肩にかかっていた。彼らが忠実に証しし救いの光を照らすや否やは、すなわち万人の救われるか否かを決することとなった。おお、恐ろしい大責任ではないか。我らのこの国における責任もその通りである。「我もし福音を宣べ伝えずぱわざわいなり」。我らはもちろん義務的に奉仕するのではなく、感恩と愛憐のあまり喜んで伝道する者である。しかし我らの記憶すべきは、自己の無能なことである。
人間の元気も、権勢も、知識も、弁才も、金も、方法も、魂を救うことができない。暗いこの世の夜半に憂いの旅路をたどる我が友に我は自ら供うべき物を持たず(ルカ十一・五)。煩悶、苦痛、悲哀、失望の叫びは左右前後より聞こえる。また、この世は凄まじい勢力で罪悪と滅亡の淵に魂を引き込みつつある。それなのに人間は誰一人彼らを救うことができない。
主の約束に「聖霊なんじらの上に臨むとき、汝ら力を受けん・・・・・・地の果てにまで我が証人とならん」(使徒一・八)とある。すなわち、弟子らを通して働きたもう聖霊の伝道である。これは必ず勝利成功する伝道である。弟子たちは無くてはならない物のただ一つ、この聖霊のバプテスマについて悟り、すべてを捨てて十日の間心を合わせて祈り続け、待ち望んでいた。我らもこの種の準備が必要である。汚れある心と力なき身をもって出て聖名を唱え伝道することほど大きな心得違いはない。これはただ主の名を辱かしめ、かつ人々を害してまわるのみである。おお、聖霊を受けよ。全く潔められ、上よりの能力をもって満たされよ。おお、祈れよ。
ペンテコステの経験。「激しき風の吹きたるごとき響き、にわかに天より起こりて、その座する所の家に満ち、また火のごときもの舌のように現れ、分かれて各人の上にとどまる。彼らみな聖霊に満たされ、御霊の宣べしむるままに異邦の言にて語りはじむ」(使徒二・四)。ハレルヤ。これは我らの功によらず、ただ十字架の功と、栄光を受けて神の右に祷告したもう主イエスの祈りの力によるのである。全き服従をもって主を信ずる者は誰でもペンテコステの経験を得る。聖霊はすなわち天来の風である。また炎である。彼は我らを風とし炎としたもう(へブル一・七)。この炎はあらゆる汚れを焼き尽くしまた潔めるのみならず、永遠の愛となって我が心中に燃え上る炎である。「いともはげしき炎なり。愛は大水も消すことあたわず、洪水も溺らすことあたわず」(雅歌八・六、七)。先日聖書学院でバックストン兄は厳かに「聖言の人たれ、祈りの人たれ、愛の人たれ、能力の人たれ」と励まされたが、我らをしてかかる人とならしめるものはただ聖霊のバプテスマのみである。兄弟姉妹よ、あなたはこの経験をすでに得、今も保っておられるや。
(二)
大将の親征。聖霊に満たされた者は大将となるのであろうか。否、その人は奴隷となって、あくまで大将イエスに服従するのである。「ヨシュア、目を挙げて見しに、一人の人剣を手に抜き持ちておのれにに向かいて立ち居ければ、ヨシュアすなわちそのもとに行きて言う、『汝は我らを助くるか、はた我らの敵を助くるか』。彼言いけるは『否、我はエホバの軍旅の将として今来たれるなり』と。ヨシュア地にひれ伏して拝し、『我が主なにを僕に告げんとしたもうや』とこれに言えり。エホバの軍旅の将ヨシュアに言いけるは、『汝の履を足より脱ぎされ(奴隷となれ)。汝が立ちおる所は聖きなり』と。ヨシュアしかなしぬ」(ヨシュア五・十三~十五)。勝利の秘密はここにある。「万軍のエホバのたもう。これは権勢によらず、能力によらず、我が霊によるなり」(ゼカリヤ四・六)。我らとしては全きへりくだり、全き信頼、全き服従あるのみである。
我らの武装。武装せずに戦いに臨む者はあるまい。全世界どころか空中の諸権まで握っている悪魔の軍勢と衝突する大戦争に参加する我らは、ぜひ神の完全な武具をもって装われねばならぬ。それならば各自その装いを調べよう。我は誠の帯を結んでいるか、義の胸当てを着けているか、福音の備えの靴、信仰の盾(これはことさら肝要である)、救いの兜、聖霊の剣、いずれも堅く我が心身に着ているか(エペソ六・十一~十七)。
神軍の士気。我が国の武士は日本魂をもって特色とし、君のため国のためならばいつでも死ぬ覚悟をしているが、我らはキリストの愛あるをもって特徴とするのである。「キリストの愛われらを励ませり」(コリント後五・十四)。尊貴無上な御身をもって我がために死に、我を救いたもうた主の御恩を思う時、また彼の御胸の重荷を思う時、主が彼らの救済を我らに託したもうたことを記憶する時、我らもパウロのように「我わが走るべき道のりと、主イエスより受けし務め、すなわち神の恵みの福音を証しすることとを果たさんためには、もとより生命をも重んぜざるなり」(使徒二〇・二四)と叫ぶに至るのである。
用意の爆烈弾。悪魔の堅城鉄壁を紛砕し、我が同胞の魂を罪より救う力、すなわち心の傷める者を癒し、囚人を解き、盲人の目を開き、押さえられた者を放ち得るものは、ただ十字架の福音のみである。ペンテコステの日に三千人を救った説教は、深遠な哲学や文学の演説でなくて、聖書的な単純な福音すなわちイエスの死と甦りと聖霊、悔い改めと信仰とを朴訥に説いたのみであった(使徒二章)。この聖言によって人々は心刺され、叫んで救いを求めるに至った。実に「十字架の言は亡ぶる者には愚かなれど、救わるる我らには神の力(原語爆烈弾)なり」、(コリント前一・十八)。ウエールスのリバイバルにおいて人々を砕き、溶かし、泣かしめ、励まし、救いつつある一つのものは、カルバリ山の歌である。種々な学説や異端により麻のように乱れた人心に向かう時、我らはへりくだって聖霊を我が力と頼むと同時に、いっそう確固たる信仰をもって十字架と甦りとを伝えるべきである。
(三)
我らの巨砲。歩兵が敵陣に突撃するには砲兵の援助を要する。我らが聖霊の剣すなわち神の言を取って悪魔軍に突撃するにも、祈祷という間接射撃によって砲弾がどしどし敵陣中に落下爆裂することを要する(エペソ六・十七、十八)。ペンテコステの聖霊は祈祷の霊である。「われシオンの義あさ日の輝きのごとくにいで、エルサレムの救い燃ゆるたいまつのごとくになるまではシオンのために黙さず、エルサレムのために休まざるべし」(イザヤ六二・一)。俗化と異端と不信仰の中に埋没している教会の中から、また未信者の中から、召し出されるべき主の民がある。おお、我ら力を尽くしてこの民のために祈るべきである。「正しき人の祈りは働きて大いなる力あり」(ヤコブ五・十六)。聖霊は我らが祈るのを待って働きたもう。「香の煙、御使いの手より聖徒たちの祈りと共に神の前に上れり。御使い(キリスト)その香炉を取り、これに祭壇の火を盛りて地に投げたれば、あまたの雷と声と稲妻と、また地震起これり」(黙示八・四、五)。
接戦奮闘。これはただ説教者が説教するのみでなく、聖霊に満たされた信者が各々その持ち場に立ち(士師七・二一)、曲がれる邪悪なこの世にあって、主の証しと潔い行いをもって光を照らすことである。「末の世に至りて、我が霊をすべての人に注がん。汝らの息子、娘は預言し、汝らの若者は幻を見、汝らの老人は夢を見るべし。その世に至りて、わが僕、はしために我が霊を注がん。彼らは預言すべし」(使徒二・十七、十八)。ハレルヤ。聖霊を受けた兄姉よ、家庭にも、学校にも、店頭にも、工場にも、道中にも、個人の間に伝道して、大いに接戦奮闘されよ。
主の勝利と捕虜。「英雄よ、汝その剣、その栄え、その威を腰に帯ぶべし。なんじ真理と柔和と正しきとのために威をたくましくし、勝ちを得て乗り進め。汝の右の手、汝に畏るべきことを教えん。汝の矢は鋭くして主の敵の胸を貫き、もろもろの民は汝の下に倒る」(詩四五・三~五)。しかり、主の勝利である。彼は我らのうちにいます聖霊の能力により、我らの求むるところ思うところよりもさらに優ることを行い得る御方である。父なる神は主イエスに大いなる分捕物を得させんと約したもうた(イザヤ五三・十二)。救われる者(使徒二・四七)、癒される者(使徒三・十六)、地所や家屋を売って伝道費にあてる者(使徒四・三四、三五)、潔められる者(使徒十五・九)等、続々起こった。
地上の天国。「彼らは使徒たちの教えを受け(謙遜、従順、進歩)、交わりをなし(愛)、パンを裂き(主を慕う)、祈り(信頼)をなすことをひたすらつとむ。信者はみな共に居りて諸々の物を共にし、日々心を一つにしてたゆみなく宮に居り、家にてパンを裂き、喜びと真心とをもて食事をなし、神を賛美してすべての民に喜ぱる」(使徒二・四二~四七)。何と美しい有様であろう。これが神の子の真相である。これがすなわち聖霊の大挙伝道の結果である。ハレルヤ。
(四)時のしるし
世の末期のしるしとして主の告げたもうは、「民は民に、国は国に逆らいて起たん。かつ大いなる地震あり、所々に疫病・飢饉あらん。恐るべきことと天よりの大いなるしるしとあらん。地にては国々の民悩み、海と波との鳴りとどろくによりてうろたえ、人々おそれ、かつ世界に来たらんとすることを思いて気を失わん。これ天の万象ふるい動けばなり」(ルカ二一・十、十一、二五)。これらのことは今や我らが現在見聞きしつつあることである。神は今まで長く忍びたもうたが、この奸悪な世を一掃したもうべき時となった。これらの天変地異はある意味において神の審判の始めであるが、また他方においては「汝ら目を覚まし悔い改めよ、この邪悪な世より救い出されよ」との大警告である。
驚くべき予告。今より十余年前、中国内地伝道会社総理故ハドソン・テーラー氏が上海において説教中、次の言を発せられたことを当時の筆記発行者がこの頃思い出し再び新聞にのせた。その言葉に、「兄弟よ、私はこの頃深く悟るところがあります。これは主の御示しと信じます。来たる十年間に世界の歴史中で最も惨酷な一つの戦争が起こりましょう。この戦争の一方はロシヤでその相手は東洋の一国でありましょう。その時、キリスト教国の一般の意見はロシヤに反対しましょう。この戦争のある頃、欧州西部のキリスト教会において未曽有のリバイバルが起こり、その火は延びて全世界に及び、多くの者を導いて義に帰せしめましょう。そして我が兄弟よ、私がなお感じていますことは、聖霊傾注の後すぐさま主は天から来たりたまいましょう」。
一般人情の状態。二、三年前と比較して、この頃は大いなる変化を見る。まさにウェールスやノルウェーやエジプトやインド等で大リバイバルが起こっているのみならず、わが国においても人々は実に飢え渇いて真面目に神の道を聞き、魂の救いを求めている。世の末期が近づきつつある。今は実に聖霊が全世界に向かって、また個人個人の心中に大挙伝道をなしたもう時である。浮世の波風に吹き荒され、名利の夢は破れ失せ、いたく聖霊に撃たれて己が罪を悟り、苦痛の煩悶と失望のうちに「われ救われんために何をなすべきか」(使徒十六・三〇)と叫びつつある魂はどこにも満ちている。
後の雨(ヤコプ五・七)。農夫は前の雨によって種を蒔き、後の雨によって刈り入れをする。神は教会を創立するために前の雨としてペンテコステの日に聖霊を下したもうたが、今はこの末の日にその変わりない愛をもって万人に福音を聞かせ、全世界の中より召し出さるべき教会すなわちキリストの体またキリストの花嫁たるべき者を集め、小羊の婚姻に備えさせるために後の雨として盆を覆すような聖霊を下したまいつつある(黙示十九・七、八)。おお、今は信者がただちに目を覚まし、すべての汚れを棄て、潔き光ある衣を着、主以外の物を愛していた姦淫罪を全く悔い改め、主イエスのみを慕いつつ、また主の御用に励みつつ、彼を待ち望むべき時である。「今は恩恵の時なり、今は救いの日なり」。しかしこの恩恵の時、救いの日は間もなく終わることであろう。これは異邦人の数満ちるに至る時までである(ローマ十一・二五)。あなたの導く魂はその最後の数を満たすかも知れぬ。
神と共に働く者(コリント後六・一)。世人の救いと花嫁の準備とのために、父なる神はすでにひとり子さえも犠牲に供し、キリストは今や天の中、地の上のすべての権を働かせ、聖霊は地上にいまして我らの求むる所、思う所よりもさらに勝ったことをなさろうとしていたもうが、神はその救いの霊力を現すにあたり、その器を求めたもうのである。主はこのために天使を選ばずに、贖われた罪人を選びたもうのである。喜んですべてを捨て、全くその心身を献げる人を待ちたもうのである。「我ひとりの人の国のために石垣を築き、我が前にあたりてその崩れ口に立ち、我をしてこれを滅ぼさしめざるべき者を彼らの中に尋ぬれども得ざるなり」(エゼキエル二二・三〇)。これは自己中心な信者らに対する神の御嘆声である。おお、主の同情者、神の同労者となろうとして自ら進み出る者は誰であろう。兄弟よ、姉妹よ、あなたは今日愛なる主を思い、「誠に王わが主いかなる所にいますとも、生き死に共に僕もまたそこにおるべし」(サムエル後十五・二一)。「主よ、我を潔め、我を用いたまえ」と祈られよ。おお、主と共に祈り、主と共に労し、主と共に悲しみ、主と共に苦しみ、主と共に喜び、主と共に栄光を受けることができるとは、何たる大きな特権であろう。