ピリピ三・九、十一。ここに甦りの力が三段に現れている。
(一)九節、義とする力
不義なる我らが義とされるのは甦りの能力によるのである(ローマ四・二五)。しかし、我らは甦りを味わう前にまず死を味わわねばならない。死がなければ甦りがない。そして死には深浅があって、甦りはその死の様に正比例するのである。死が浅ければ甦りもまた低く、死が深ければ甦りもまた高い。あたかも木が根を下ろすことの深ければ深いほど上に成長することのいよいよ大なるがごとくである。これは自然界の定めであって、また心霊界の法則である。
我らは前に神から離れておのが道に迷い出で、罪と咎に死んだ者、憎まれ呪われ捨てらるべき者であったのに、神はこのような我らさえも愛し、罪も咎もないキリストを下し、「我らすべての者の不義を彼の上に置きたまい」(イザヤ五三・六)て彼を罰したもうた。そして神は彼の死を見て我らの死と見倣したもう(コリント後五・十四)。これが神の勘定法である。このゆえに我らの罪と咎とは雲霧のように消えて跡なく(イザヤ四五・二二)、東と西と絶対に遠いように我らより罪を遠ざけたもう(詩一○三・十二)。我らのすべての罪は海の底に投げ沈められたのである(ミカ七・十九)。太平洋には富士山の高さより深い所があって、その深さを知ることができないという。けれども主はさらに深いところに我らの罪を葬り去りたもうたのである。かくて我らに残されたのは神のあわれみと恩恵とがあるのみである(詩一○三・十二)。こうして我らの罪が殺したこのイエスを神は甦らせたもうたのである。我らの信ずる主は死と悪魔とに打ち勝ちて甦り、今も天に生きています勝利者なる救い主である。我らはこの主の甦りによって神の義をまとい、父の前に出ることができるのである。我らの罪の汚衣は十字架のイエスに着せられ、かくしてイエスの義は我らに着せられたのである(コリント後五・二一)。
(二)十節、肉体のキリストと彼の甦りの力を知ること
これはさらに新しい経験である。物を水中に投ずればまたたくまに外部は湿らされるが、すぐさまその中まで水が浸み込むものではない。このように赦罪称義は瞬間のことであるが、甦りのイエスが内住し、その能力を知ることはその後に来ることで、これすなわち第二の恵みである。主は今ここにもいます。されど主がなお君の外にいますがゆえに、君はこのイエスを迎え入れて内に住ましめ、その能力に満たされねばならぬ。神はこれを望みたもう。ただ外部より感化を与えたもうのみならず、内住して神にふさわしからざるものを焼き尽くすために火のバプテスマを与えたもうのである。すなわち古い人が撲滅され、キリストがわが内に王となりたもうのである(ガラテヤ二・二〇)。この内住の生けるキリストとその甦りの能力を知るのである。我らは心と体にこの甦りの能力を経験したであろうか。この能力はまず古い人を焼き尽くしてすべてを新たにするのである(テトス三・五)。古きは全く去ってキリストのような新しい品性を得るのはただこの能力によるのみであって、これは我らを変貌せしむる能力である(ローマ十二・二英訳)。ある人は死んだおのれを表すことがあるが、死んだ者は葬られねばならぬ。
つぎにこの甦りの能力は我らの肉体にも超自然の働きを及ぼしたもうのである(ローマ八・十一)。処女マリヤの胎にイエスを造りたもうた驚くべき能力ある同じ聖霊は、今わが内に働きたもうのである。また死よりキリストを甦らせた能力は不思議な能力であるが、その同じ能力は我らの卑しきこの肉体の上にも加えられるのである(エペソ一・十九、二〇)。かく我らの霊肉共に超自然の能力を受くるは何のためであろうか。他なし、「その死の様に従いて彼の苦しみにあずからん」がためである。
「われは弱いゆえに強めたまえ。そしてただ汝のためにその能力を用いさせ、汝の御用を全うせんためにはいかようなりとも苦しませたまえ。汝は恵みと能力とを与えたまえば、われは喜んで働き、かつ苦しまん」とはわが祈りである。我らが真に神に奉仕するには、コリント後書一・九のように死より甦らせる神を頼む他はないのである。
(三)十一節、主再臨の日の甦りに達すること
「死したる者の中よりの甦り」(英改訳)。死人はみな等しく甦るのであるが、これはそれと異なり、その中から特に選ばれて甦ることである。これキリストの再臨の時、その花嫁なる聖徒のみがまず甦らせられ、空中に推挙されることである。「得んがため」とは「達する」または「進み入る」との意であって、放任しておいても甦るということではない。そこに届こうとして全力を尽くし、そのためにはすべての物を糞土のように思い、まっすぐに進み入る様を言うのである。信者は誰もがこの方向に向かって進んでいるが、届かぬ者が多いであろう。救われた者がみな花嫁になるというわけではない。ただピリピ三・十三のパウロのようにすべてを捨てて主のみを愛し、小羊の行く所どこなりとも従う者こそ花嫁なのである。我らもし彼と共に死なぱ、また彼と共に生くることを得るのである。願わくば我らこの一事を務めんことを(ピリピ三・十三)。