聖潔とその成就

笹尾鉄三郎

「されば愛する者よ、我らかかる約束を得たれば、肉と霊との汚れより全く己を潔め、神を畏れてその聖潔を成就すべし」(コリント後六・11~七・1)。

この言の中に二段ある。すなわち聖潔とその成就である。

第一、「肉と霊との汚れより全く己を潔め」

肉の汚れとはガラテヤ五・19、21、ローマ十三・13のようなもので、信者の中にもこの肉の汚れのあることがある。霊の汚れとはガラテヤ五・20にあるもの及び倣慢、薄情、怨恨、不平等を言う。聖なる神の前にこれらの中の一つなりとも存する時はそれが汚れである。しかるにこれらの肉の汚れや霊の汚れを多く持っている信者がある。神はこのような者に対して「肉と霊との汚れより全く己を潔めよ」と命じたもうのである。そしてなお今一つ大きな汚れがある(ローマ八・6「肉の思い」)。これ肉欲の塊り、神と正反対のものであって、この汚れのある所に死がある。このような汚れを有する者は現世においても神の民のために備えられた聖き大路を歩むことができないのである(イザヤ三五・8、黙示二一・27)。

汚れを全く去って自己を潔くした有様についてはコリント後七・10、11に示されている。コリントの教会は以前汚れで満ちていたのであるが、パウロが鋭い言をもって彼らを責めた結果として、彼らは神に従う大きな憂いを抱いたのである。神に従う憂いある者とは、第一、「勉励」、注意深い者を言う。いわゆる無頓着ではない。良からぬことに関してはごく小さいこと、また幾年前のことにも注意するに至る。「自訴」、自ら掃除する意味である。家屋に大清潔法を施行するようなものである。隅から隅まで掃除し、あらん限りの不潔を表わして訴え出で、裸になって神の前に出る。これこそ本物である。ある人はただ罪の結果を悲しみ、罪そのものを悲しまない。人の前に現われたもののみを悲しみ言い表わし、そして人に見られぬことは放任しておくのはまだ本物ではない。「忿怒」、悲しむ人は怒る人である。悪魔と罪に向かって忿怒が止まないようになる。「畏怖」、神を畏れて罪を捨てることである。「盲者蛇に怖じず」と言うように、先に暗黒の中にあった時には罪を恐れなかったが、今は神を畏れてこれを蛇蝎のように嫌うに至るのである。「恋慕」、聖潔と恩恵を慕う熱情。「熱心」、どんな困難が横たわるとも、救いを全うし聖潔を成就するためには全力を注ぎ出す熱心。「罪を責める心」、おのれの罪は言うまでもなく、他人の罪を責めることである。前には罪を責めずに人を責めたが、今はその人を愛し救わんためにその人の罪に対しては強硬の態度を取るに至るのである。コリントの人にはこれらのことがあってそれによって自ら潔きことを表わしたのである。

我らをして再び罪を責め、これを悲しむことについて学ばしめよ。かつて山陽鉄道列車中で盗賊のために殺害された士官がいたが、その盗賊の捕縛された後、かの士官の未亡人は「わが子の成長の後、せめて父の仇を覚えさせたい」と思ってかの囚人の写真を求めたということである。復讐はもとより主の御旨にかなわない。しかし我らはこの未亡人のようにわが夫なるイエスを殺した大敵である罪を責め、これを憎むことが切であろうか。ゼカリヤ十二・11以下はイスラエルに将来起こる大きな悲嘆である。十三・1に「その日、罪と汚れを潔める一つの泉開くべし」とあり、我らのためにも潔めの泉の開かれるのは、罪を責め、それを真に悲しむ時である。聖潔の教理について合点しても、真に神を畏れ己が罪を悲しむにあらざれぱ、その潔めの泉はその人に届かないのであろう。ヨエル二・28に聖潔に満たされる預言があるが、それは13節にある衷心より起きる真正の悲嘆のあった結果に他ならぬ。聖霊は裂かれた心に下り、血潮は砕かれた魂に来るのである。おお兄姉よ、自己の罪を深く悲しみ、聖潔の泉に投ぜられよ。

第二、「神を畏れてその聖潔を成就すべし」

潔められることは一瞬であるが、成就することは漸次である。そして各自の心がけ次第でその要する時日に長短の差がある。潔められる者は多くあるが、成就する人の誠に少ないことは実に悲しむべきまた警戒すべきことである。

ヨシュア記を見ると、神の御旨はすべてのイスラエルの支族がカナンに入ることであったが、ルベン、ガド、マナセの半支族はヨルダンの北方に落ち着いたのである。彼らは妻子をそこに残しておいてカナンに入り、神の民と共に戦ったが、後に帰って来た。後日、この二支族が度々異邦人に攻められて、ある時は全く敵の手に陥って始終イスラエル全部の厄介物となり、いつも騒動の原因となった。

ある人は一度戦いに加入して約束のカナンを踏んだが、逆戻りして荒野に落ち着いた。今日このような者が多いのである。熱心に伝道し、盛んに働く時は他の者と同じく働き、聖潔までも巧みに説くが、その家庭に帰ればすでにカナンを辞し去って荒野に落ち着いている有様である。またある者はカナンに入ったが、進んで占領すべき所を占領しないから、少しも進歩しないのである。我らが潔められたりと証しすれば、人が我らに期待するところ多く、また要求するところの大きなことを忘れてはならない。もしも我らが少しも進歩しないとすれば、かえって神の栄光を現わさないのであるから、大いに戒心せねばならない。

成就に二面ある。すなわち死の深所に入ることと、キリストの姿に変化することである。古い人の死は瞬間的であって漸次的ではない。ただし根の切られた樹もその後しばらくの間は枝葉の青いように、潔められて古い人が死んでもその枝である性状、性癖、習慣において依然たることがある。我らは全く枯れ、どこにも死が届かなければならない。死の届いた所にこそキリストの生命は入り来るのである。死がなければ甦りもなく、従って新しい生命が存しない。我らは生来の善美の性質にも死なねばならぬ。これは神の栄光を表わすものではない。これにも死んでこそ初めてキリストの生命が入り来たって聖霊の実を結ぶことを得るのである。

キリストの再臨の時、その御前に立ち得る者は、単に潔められたというだけでなく、また聖潔を成就した者であらねばならない。古い人の遺物を少しでも持っていてはならない。我らはなお深く責任をもって、我らが果たしてこのままでキリストの花嫁にふさわしいかどうか反省したい。

さて聖潔を成就する道の第一は神を畏れることである。多くの人の進歩せぬのは神を畏れぬからである。多くの人の進歩せぬのは、神への畏れなくして不真面目だからである。敬虔の念なく、ずるく構えて小事を放任して置きながら、これを大胆というのは誤っている。真正の大胆は神に向かう全き服従と信従とより出るのである。だから我らが気付いた罪はこれを深く悲しみ、どんな小さいことであっても血潮を受けて新たにされるまでは止まぬという精神がなくてはならない。多くの人の言行には表裏があるが、神を畏れる人には表裏は許されないのである。ピリピ二・12を見られよ。この畏れは奴隷的な恐れではなくて、孝子がその親に対し、あるいはきわめて敬愛する人に対するように、少しのことにも注意深く、その感情の損なわれることを恐れる誠の愛の結果として来る恐れである。我らはすでにおのが罪によって主イエスを十字架に釘づけたのである。罪はもうこれで充分である。そうすればこのうえ主を痛め奉ることのないようにと望むの念切であるから、小事にも注意深く敬虔な歩みをなすに至るであろう。

その第二は聖霊に信頼することである。コリント後書三・16~18。われはどんなに醜い有様であってもそのまま心を主に帰し、ただ主を仰ぎ見ていれば、聖霊はわが内に働いて主の形に変わらしめたもうのである。品性すでに変化すれば、言行の変化するのは当然である。

その第三は、神の言に立つことである。ヨシュア一・3、踏むだけ与えられるのである。多くの人は神の中に満てるものに満たされることについて、あまりに粗漏である。我らは一々おのが欠乏を訴え、神の約束に立ち、一々信仰をもって確実に握るべきである。