末世の警告

笹尾鉄三郎

「されど汝これを知れ、末世に苦しき時きたらん」(テモテ後三・一)。

我らは主の聖言により、現今世界の各地に起これる天変地異、社会いたる所に氾濫する罪悪、福音の普及、偽預言者の輩出、聖霊の傾注等により、今は末世の末世、異邦人時代の最末期で、主イエス御再臨の非常に切迫した時代であると信ずる者である。神はこの時代に生存している信徒の必要とするものを知りたもうがゆえに、種々の教訓と警告を与えたもうことを我らは感謝している次第である。これはどうにかして我らの心を堅くし、再臨の栄光の前に立たしめんとの御愛心によるものである。ここでペテロ後書三章に示された二、三の警告を学びたいと思う。

第一、嘲る者が出て来るを知るべきこと(ペテロ後三・三)

末世の今は聖霊著しく世界の到るところに御働きになり、悪魔の陣地を攻撃なさり、聖霊戦史のページを増加したもうがゆえに、悪魔も全力を尽くして応戦するのである。たとえば彼は咆哮する獅子のように神の子供を恐喝しに来たり、また温和な平和の天使のように誘惑してくるから油断ができない。ことに警戒せねばならぬことは、彼の最巧手段をもって嘲る者を多く起こしてくることである。不真面目の霊を注ぎかけ、敬虔の念を失わせ、理性と感情を混乱させ、聖書を批評させて信仰を突き崩そうと試み、キリストを論難して懐疑に陥らせ、十字架を無視し、復活を軽視する。なお進んで再臨を否定し、彼を待ち望む者を無知迷信の徒と罵倒する。かの嘲る者は主の約束を云々し、「その臨むことどこにあるか、すべてのこと開闢の始めと変わることはない。かの昔時、弟子たちが彼の来ること今、明日のように信じたのに、千八百有余年後の今日もまだなお来ないではないか。このような事柄を待ち望むことは二十世紀クリスチャンの本領ではない。我らはこのような迷信を捨て、自らを修め、社会の改善に尽くすべきである」と説きまわり、信念の堅くない者をおのれの同類とし、おのが欲に従って行く同行者とするのである。おお、主にあって愛する者よ、今は暗黒の勢いも強い時であるから、絶えず覚めて慎み、心の腰に帯して、このような誘惑に対する備えをしなければならない。

第二、愛より出る主の忍耐を知るべきこと(ペテロ後三・八)

主が「われ速やかに到らん」(黙示二二・二〇)と言いたもうてより十数世紀を経過したが、いまだ再臨したまわないのはかの嘲る者の口実のように空しいことであろうか。また使徒ヨハネの虚談であろうか。否、そうではない。これは全く滅びる罪人を愛し、一人でも衆人を悔い改めに至らせようとの愛より出る主の御忍耐によることである。しかし主はやがて盗人の夜来るように人々の思いもよらない時に突然来たりたもうのであるから、我らは称義、被聖の順序を経て絶えず聖霊に満たされ、汚れなく傷なき者となり、主の御前に完全になろうと努め、また主の御心に同情を表わして罪人を救いに導くことに全力を尽くし、光の子として歩いて主の栄光を輝かすことに働かねばならない。

第三、恵みに成長してイエス・キリストをますます知るべきこと(ペテロ後三・十八)

我らは神の恵みによりイエスを神の子として知り、わが救い主として知るようになったが、これで決して満足してはならぬ。ますます知らねばならないのである。これは神の御警告であると共にまた命令であるから務めねばならぬ。我らがますます深く主を知ることは、霊性の進歩と比例するものである。主イエスが羊のために生命を捨てたもうたのはつまり父なる神を深く知った結果である(ヨハネ十・十五)。キリストを深く知ることができれば、彼の名のために受けるそしり、苦難は世の名誉や貨財よりどれほど尊いものであるかを悟り、喜びに満たされるのである。そうして進んで彼のためにまた彼の愛する者のために生命も差し出すようになるのである。

使徒ペテロは三年半キリストと共にいたが肉であったから、彼は真の意味において彼を知ることができなかったので、祭司の長の庭で実状を白状したのであった。肉によってキリストを知り、その名について働いていても、聖霊によってキリストを知っていないならば、かの日、彼の御前に立つ時、「われかって汝を知らず、悪をなす者よ、われを離れ去れ」と宣告されるであろう。だから我らは精勧一番、このことを務めねばならない。

わがため主は、十字架の苦をさえ忍べり、みいつくしみ知れるわれは、おのれを捨て従わん。(救いの歌第二〇番)