神と共に歩むこと

笹尾鉄三郎

「エノク、メトセラを生みし後、三百年神と共に歩み、男子女子を生めり。エノク神と共に歩みしが、神彼を取りたまいければ、おらずなりき」(創世五・二二、二四)。

御承知のように、この章は人間が生まれては死に、生まれては死んだ記録であるが、その中にあって暗夜の一星のように、エノクのみが死なず神のもとに昇ったことを見るのである。そして次章には、ノアの時の洪水のことが記されている。この洪水は世の末期に来たるべき全世界の大艱難の型で、エノクはその前の主再臨の時、空中に携挙される聖徒の型、ノアとその家族は艱難の時代に生き残る信者の型である。

神がエノクを取りたもうたのは、彼が常に神と共に歩んでいたからである。このように再臨の時、空中に携え挙げられる者は、神と共にいる聖徒に限るのである。神と共に歩むこと、おお、いかばかりの幸福であろうか。神は我らの心、また口のみでなく、足をも見たもうのである(レビ十一・四)。肉と霊、闇と光、義と不義を明らかに区別して歩む者を聖しと呼びたもうのである。生きて甲斐ある生涯はすなわち神と共に歩む生涯である。

我らが神と共に歩むことは神の本願である。エデンの園において神は人と共に住み、共に歩みたもうた。人が堕落して遠く神から離れた時も、なお主イエスは我らのいるこの世に下り、自ら近づき、共に歩みたもうた(ルカ二四・十五)。さらに主は今や進んで聖霊をもって我ら各自の心の中に住み、かつ共に歩まんと言いたもうのである(コリント後六・十六)。されば我らがもし主と共に歩まぬなら、ただ我らが祝福を失うばかりでなく、また主に大なる失望を与えるのである。では我らはどうすれば主と共に歩みうるのであろうか。それには、

第一、まず主を知り、主と一致すること

「二人もし相会せずぱ(英訳、相一致せずぱ)いかで共に歩かんや」(アモス三・三)。

主が御伝道中、肉体の病を癒したもう間は、至るところ人々は群集し、ある時は数万の人々が互いに踏み合うほどであった。しかし主が十字架を説き、霊的に深いことを語り出したもうた時、「ここにおいて、弟子たちのうち多くの者帰り去りて、またイエスと共に歩まざりき」とある(ヨハネ六・六六)。彼らは肉によってイエスを知ったが、いまだ霊によってイエスを知らなかったのである。主は天のこと、霊のこと、永遠のことを思っておられるのに、我らがいたずらに地のこと、肉のこと、この世の目前のことを思っているなら、どうして主と相一致することができようか。共に歩むことのできぬのは当然である。あなたはあなたの中にあって主に逆らう性質、すなわち肉の心を十字架に渡して殺してもらうべきである。そしてあなたの全霊、全生、全身を開放して主を受け入れよ。

第二、一歩一歩信仰によって歩むこと

我らはおのが熱心や功徳によって主と共に歩むのではなく、自己の功なく、力なく、頼むに足らぬことを自覚して、ひたすら主に依り頼み、見える所はよしいかにあろうとも、一歩一歩主を信任して歩むのである。エノクが三百年神と共に歩んだ秘訣も、また死なずに移された秘訣もここにあったのである(へブル十一・五、六)。これはいかに卑しい者にもできるのである。

今福音唱歌の四八番を歌いたい。

エノクのごとくにわれをも上に
うつさせたもうまで日々主と歩まん
一あし、一あしイエスと共に
日々に日々にわれは歩まん

第三、へりくだって神と共に歩むこと

我らが自己の真相を知り、かつ神を知る時、自然にへりくだるようになる。いと高く至上なる神は、へりくだる者と共に住みたもうのである(イザヤ五七・十五)。

「人よ、エホバの汝に求めたもうことは、ただ正義を行い、あわれみを愛し、へりくだりて汝の神と共に歩むことならずや」(ミカ六・八)。

パウロが主と共に歩んだのも、彼が常に罪人の頭なること(テモテ前一・十五)を記憶して恩に感じ、かつ彼が弱くて取るに足らざる者(英訳、無き者)なることを知って切に主に従ったからである。(コリント後十二・九、十一)。主イエスもへりくだって自らを空しくし(マタイ十一・十九)、一歩一歩ただ主によって語り、かつ歩みたもうた(ヨハネ五・十九)。つまり、我らが常に幼子の心をもって主と共に歩むことである。

第四、光の中を歩むこと

「もし神と交わりありと言いて暗きうちを歩まば、我ら偽りて真理を行わざるなり。もし神の光のうちにいますごとく光のうちを歩まば、我ら互いに交わりを得」(ヨハネ第一書一・六、七)。これは明らかなことである。我らに暗い所はないであろうか。

第五、愛によって歩むこと

「キリストの汝らを愛し、我らのためにおのれを香ばしき香りの献物とし犠牲として、神に献げたまいしごとく、愛のうちを歩め」(エペソ五・二)。これは我らの特権である。神より受けたわが性質は自然にかく傾くのである。主は限りない愛をもって我らを愛し、常に我らを恵んで下さることを憶えて、常にその愛に励まされ、神のため、魂のために尽くすのである。かくする時に主と我との結合がいよいよ深くなり、どうしても離れぬようになり(ヨハネ第一書四・十六、十七)、喜んで十字架を負うことができるのである。これは実に幸福な生涯である(以下略)。