「キリストは子として神の家を忠実につかさどりたまえり。我らもし確信と望みの誇りとを終わりまで堅く保たぱ、神の家なり。もし初めの確信を終わりまで堅く保たば、我らはキリストにあずかる者となるなり」(へブル三・六、十四)。
ここで「あずかる者」とは配当を受ける者という意味で、父なる神が我らに与えたもうたキリストの品性の配当を受ける者となることを指すのである。キリストは無限の御方であるから、我らは永遠にこのキリストをわがものとして受け取ることができる。我らの受ける恵みはただ罪の赦しまた潔めだけではなく、キリストの品性を我が所有とすることができるのである。我らは罪の性質よりは潔められても、なお取り去るべき残り物がある。潔められたからといって、決してそれでキリストの形ができたのではない。それゆえ、潔められた後でもある煩悶があることがある。しかし信仰によってこれも除かれるのである。このゆえに我らとしては光の前に決して自らを隠さず、ありのままに表すべきである。
古い人の残り物には種々ある。ある人は自分の義を主張し、ある人は自分の意見を突張り、ある人は自分の長所を誇る。またある人は寛容の欠乏であるが、これは取り去られるべきものである。出エジプト記二五・二六、二七に幕屋の詳しい説明があるが、これはキリストの品性を表したものである。すなわち、キリストと一体なる我らの受くべき分である。
同二六章に板のことがあるが、この板について学ぶべきことがある。第一、この木はねむの木である。この木は荒野に生ずる刺のある木で、よく人間の品性を表している。これは我らの古い有様である。この木は根から切られた。これは称義を指すのである。また皮をむかれた。これは古い人を除かれることを指すのである。木は皮をむかずにおけば腐るが、信者もいつまでも古い人を取らずにおくと腐れてしまう。またこの木は割られた。神われらを情と肉から裂きたもうのである。神は聖言と逆境をもって裂く道具となしたもうのである。丸太のままでは家に使用することはできない。また切られても干される必要がある。神は聖言の光と逆境によってこれを枯らしたもう。枯れても削られる必要がある。他人に自分の欠点を指摘される時は鉋と思え。
この板にはほぞがある。信者にはこのほぞの必要がある。あの姉妹は、この兄弟は、と毛嫌いするのはほぞがないからである。賜物相異なる者が互いに一致するのは、このほぞによるのである。
その次に、この板には金が着せられた。これは実に感謝すべきことである。金とは神の性質である。聖霊は我らにこの性質を分与したもうのである。またここに五本横木があるが、一本の横木は端まで通っている。これはキリストを指す。キリスト御自身全世界の結びとなりたもう。これは何たる幸福なことであろうか。
以上は幕屋の外側であるが、次に覆いについて味わいたい。この覆いは最上部はまみの皮、次は山羊の皮を赤染にしたもので、第三は真白、第四は綾錦ともいうべき美麗な織物である。これもキリストの品性と我らの受くべき品性を指すのである。この頂上の表面がまみの皮であることは我らの注意すべきことである。キリスト信者は決して外形は美しくはない。パウロもキリストも同じことであった。とても周囲の人に愛矯をふりまくようにはならないのである。また無責任でいつも跳ねて歩く生活ではないのである。外形は必ず損われて見る影もなくなるが、しかしこの下には血染の衣がある。どこもかしこもキリストの血に染められた心である。
その次は純白である。これは神の義を指す。思う所、言う所、行う所、一点の汚れもない、傷もない神の義である。その下は美しい裏錦である。この表面には、白、青、紫、紅等の色でケルビムが織り出されたが、白は神の義、青は潔さ、紫は王、紅は人性を指す。我らには天的性質の他に人性がある。他人に対する同情がある。またケルピムのような天使の品性もある。かかる美わしい性質を聖霊は我らのうちに造りたもうのである。人間は中をまみにして表を錦にする。これは探られる言葉である。愛のあるように、天に属すように、正直であるように、人から思われたい。これは我らの有様である。そうして心の中の卑しい所を包むのである。けれども聖霊の光に照らされてこの身の卑しい有様を見るなら、中は美しくありたくなる。ここにおいて真正の満足と慰籍がある。またこの幕屋の聖所には金の燭台がある。それは外部より、世より来る光ではない。聖霊の光である。また至聖所には隠れたマナ、金の香炉、契約の箱がある。また上から来る人間の用いない光(シェキナ)がある。また契約の箱の上には恵みの座があって、高い神が身を低くして我らに語りたもう所である。ここで何人も神との親しい交通に入ることができる。かくして我らはキリストと共に囲いの外に行き、定まった住家のない時でもキリストと共に多くの人の光となり、生命となり、キリストと共に十字架に釘付けられる生涯に入り、遂にキリストと共に天の配当を受ける限りない栄光に入ることができるのである。