二重の罪悪

笹尾鉄三郎

「罪人よ、手を浄めよ、二心の者よ、心を潔くせよ」(ヤコブ四・八)。

これは実に恐ろしい言葉である。ヤコブはずいぶん烈しい言を言っている。それでもこれは意地の悪いあてこすりのような言葉ではない。ヤコブ四・五にある妬むばかりの愛をもって語りたもう聖霊の愛より出た鋭い言葉であるから、恐れずに受け入れよ。

第一、罪人よ、手を清くせよ。これは犯した罪を放って置くことを戒めたものである。そもそもこのヤコブ書は、すでに救われた信者に向かって送られたものである。けれども、神は信者の中にもかくのごとき者があるのを見たもうので、かく語りたもうのである。

次に二心の者。これは潔められていない信者に向かって言われた言葉である。神様の言葉は実際問題である。神は手と心を見たもう。頭ではないのである。我らが毎日何を愛しているか、その心を見たもう。「二心の者よ、汝の心を潔くせよ」。これは神の厳かな聖言である。

第一に、我らのうちに罪を犯してそのままになっている者はないか。罪の赦しが明確であるか。神が手を御覧になる時、その手が人を傷つけて血を流している未信者のような所があるならば、手は清くないのである。信者の中の手の清くない者は闇の中を歩く者である。主イエスは我らを暗きから離れさせ、サタンの様から離れさせるために来たりたもうた。しかし、罪を犯してそのままにしていれば暗いのである。エペソ書五章を見よ。そこに闇の中を歩まないように書いてある。おお、兄弟よ、我らが犯したもろもろの罪がことごとく神と人との前に持ち出され、そこに血潮が注がれているであろうか。ある時、私はある兄弟に何も知らずにこの言葉を話したところ、その兄弟は人の金を流用していたので涙をもって悔い改めた。また一つは悔い改めの実を結ばないことである。バブテスマのヨハネがパリサイ人を叱りとばしたように、たとえ殊勝らしくバプテスマを受けても神を欺くことは到底できない。神は悔い改めの実のない者を受け入れることはできない。悔い改めの実を結ぶ魂のみが神に歓迎されるのである。もう一つは神を恐れないことである。誰もみな罪の刑罰を恐れる。また、それを持ち出せばどうなるかと結果を恐れる。罪は悪いと思うが、神を恐れない。刑罰でなく、結果ではなく、ただ神を恐れよ。我らが神を恐れる時、結果も刑罰も当然である。十字上架の盗人を見よ。

それから言い表わすことである。神を恐れる恐れと悔い改めの実があるなら、言い表わすはずである。多くの人は内密に祈る。しかし、その実があるならば、関係ある人に言い表わさねばならないのである。そうでないとやはり闇の中を歩いているのである。このことについて幾度となく実例を見ている。ある兄姉はこの夏の休暇に他の人が遊ぶ間に聖書を学ぶために修養会に来た。この人は身分も学問もあり、人を教える地位にある令嬢であったが、何となくはっきりしない、どうしても心に勝利がない。言い表わさない恥ずかしい罪悪があったが、最後に聖霊に追い詰められて言い表わし、声をあげて泣いた。その時に真の勝利が来たのである。随分苦悶したが、闇より光に来るなら、イエスはそこに待っておられる。血潮はそこに流れている。暗きを離れない罪人に血潮は働くことはできない。神の全能もそこに働かない。苦痛ではあるが一瞬である。遂に勝利である。私はまた一人の姉妹を知っているが、この人は言い表わさなかったために取り返しのつかないことをしたのである。その姉妹はそのとき実はその罪から離れていたが、ただその罪を言い表わさなかった。言い表わそうかと思ったが、関係者が「今それを言い表わすならば大変だ」と言って止めたため、とうとう言い表わさず、そのまま他の所に嫁いだのであった。夫は非常に愛してくれるが、自分はどこか心に暗いものがあって十分夫を愛することができない。そのために夫を苦しめて苦しめて、夫は遂に病気になって死んでしまった。今その婦人は非常に悲んでいるが、いた仕方ない。自分の罪のために夫を殺した。嫁ぐ前に言い表わしていればそれを救うことができたのに、取り返しのつかないことをしたのである。苦しいけれども、神は我らを闇から離れさせて我らに勝利を得させるために、このことを話したもうのである。コリント後書七章十一節を見よ。コリント人は非常な罪を犯していたのであるが、勝利を得た後はこのような有様である。このような態度をもって罪の掃除をすべきである。罪人よ、汝の手を清くせよ。

次に二心の者よ、その心を潔くせよ。二つの心の者、すなわち一方では神の子供に相異ない。キリストを信じまた神を愛しているが、一方は未信者同様である。神を愛するが、また世をも愛する。これは姦淫の罪である。我らの甦った新しい人は姦淫を犯したくない。しかし別に悪魔がアダムの堕落時に投げ込んだ一物、すなわちおのれというものの性質があるために、またしても不貞にも姦淫して世と馴れ染み、肉について神に逆らうのである。一つの泉から甘い水と苦い水と一緒に出るはずはない。二つあるからである。おお、今神は「二心の者よ」と叫んでおられる。このままでどうしてわが愛する夫、主イエスの前に立つことができようか。どうか神の前に調べられよ。また一方では神を愛し、一方では世を愛し、神よりの誉れを求め、また人より栄えを願う。おお、二心の者よ、その心を潔くせよ。

「わが民はともすれば我に離れんとする心あり」(ホセア十・七)。しかり、始終神より離れようとする傾向がある。一方では神に仕えようとするが、他にともすれば世に仕えようとする。それが二心である。つまり敵である。神に敵し、わが魂に対して敵する。この敵がこのように存在する限り、すべての罪がここから出て来るのである。主イエスを殺したのもこの罪である。この罪が人から出てキリストを十字架に釘殺したのである。しかし、この十字架はあたかも罪に電気をつけたようなものである。十字架の光によって見れば、すべてのことが明らかに見えるのである。ルカ伝二・三五を見よ。「これは多くの人の心の思いの現れんためなり」。これはキリストが十字架にかかりたもう預言であるが、実にそうである。これによって多くの人の心が暴露されるのである。これまで外部を飾っていたが、今心の中が現れる。十字架に来る時、真の光を受けて実際の姿が見えて来るのである。私もこの十字架に来た時、「ただもう恐れ入りました」と言う他なかったのである。御承知のようにイエスを殺した者は種々の人々であったが、いかなる種類の人、またいかなる罪がイエスを十字架に釘付けたかを考えるなら、さらに我が姿がわかる。

第一にイエスを殺したのはユダヤ人である。その中に祭司の長、学者らもいた。その罪の一つは徹慢である。自ら高くする心である。もう一つは自ら義とする心である。それは我らにもないであろうか。光が来てもこれを拒み、光を憎み、闇を愛し、神の言を信じない。人の言を信じてもイエスの言を信じない。またイエスが殺されたもうたのは実に嫉妬のためである。これはピラトも知っていた。とかく自ら高くし自ら義とする心より嫉む。誰かが讃められ用いられると喜ばぬ。この心がイエスを殺した。この光の下で自らを探りたい。祭司、学者、ユダヤ人のうちにあったこの罪が、やはりわがうちにもある。これを認めたい。

次にイエスを殺したのはユダである。彼ゆえにキリストは殺されたもうたのである。これは金を愛することである。外から見ると信者は世の人よりも欲を離れたようであるが、心の中に実際少しも貧欲はないであろうか。ユダはこの罪がイエスを殺すとは思っていなかったので、後で彼は驚いた。しかし、キリストの目には早くからこれが見えていた。それゆえキリストは幾度か彼の良心に語りたもうたのに、彼はそれを言い表わさない。また悔い改めない。これがユダの罪である。その結果、ユダ自身も驚くほどのことができた。貧り!そこにサタンが入り込む罪が生じ、聖霊の宿りたもう所がなくなるのである。

もう一人はピラトである。彼はイエスに罪が無いことを知っていたが、自分の地位や名誉を失うことを恐れた。優柔不断の罪がイエスを十字架に釘付けた。ピラトの一言でイエスは救われることができたのである。この時イエスは彼の手の中にあったが、彼は遂に十字架に釘付けた。茨の冠をかぶらせたのは当時のユダヤ人、乱暴人であるが、我らは果たして彼に何をかぶらせているであろうか。我らは金の冠を差し上げるべきなのに、やはり茨をかぶらせてはいないであろうか。

イエスを十字架につけたもう一つのものはローマ兵の雷同である。不真面目で、軽卒で、不注意な、このような心をもってイエスを十字架にかける。十字架の下にあってもイエスの苦しみを思わず、イエスの衣を分けている。イエスの苦しみから離れて「ただ自分が恵みを受けて満足しさえすればそれでよい」という、イエスの苦しみを思わないこの心が主を苦しめるのである。ああ、この十字架の下でわが罪を見ると、実に耐えられないのである。

ゼカリヤ書十二・十に、「彼らはその刺したりし我を仰ぎ見、一人子のために泣くごとくこれがために泣き、長子のために悲しむがごとくこれがために痛く悲しまん」とある。我らの刺したイエスを仰ぎ見るとき、そこに起きる悲しみは言いようがないのである。おお、イエスよ、わが罪があなたを殺し、あなたを刺しました。しかし十字架の上より聞こえる答は、「父よ、彼らを赦したまえ」という声である。我らが槍をもってイエスを貫いた時、返って来たのは愛であった。我らは滅ぼされるべきであるが、この血が贖いとなった。「これは汝のために裂かれるわが体なり……汝のために流す新約の血なり」。この血によって恐ろしい罪人の頭が罪の赦しを受ける。この汚れた心がただ潔められる。それで潔めるために主は宿営の外に出て苦しみを受けたもうたのである。何といっても畏れ多い。兄姉よ、この大きな愛の前にもはや文句はない。十字架に来れば何も言うことはないのである。私はおのれを献げるのに苦しんでいた時、十字架を見た。主イエスが私のために御自身を犠牲にしてその栄光を棄て、苦難を忍んでその生命を捨てたもうた。これがわかった時、喜んで服従することができたのである。おお、兄姉らよ、叱られるのではない。「難しいことをせよ」と言われるのではない。ありのまま裸体になって全き服従をするのである。すべてを献げることである。邪魔になるものは一切捨てる。世と肉につく物いっさいを捨て、身と魂を主に献げるのである。やもめのレプタのように献げる。そこに十字架の上より火が下るのである。