再臨と切迫

笹尾鉄三郎

「いましばらくせば、来るべき者きたらん。遅からじ」(へプル十・37)。

千九百年前我らのために降臨したもうた主イエスは、もう一度天より下りたもうのである。主がこの世を去りたもう前、弟子たちをねんごろに慰め励まして言いたもうには、「われ汝らのために所を備えに行く。もし行きて汝らのために所を備えば、また来たりて汝らを我がもとに迎えん。わがおるところに汝らもおらんためなり」(ヨハネ十四・2~3)。先に主は我らのために御生命をさえ損いたまい、今は父の前にあって絶えず全力をあげて我らのために祈りたまい、かくて再び我らのため自ら来たりて御自身の御住所に迎え入れたもうとは。ああ、主はいかばかり我らを愛し、我らのために尽力したもうことであろうか。我らにとっては主イエスほど慕わしい者は他になく、彼の御再臨ほど楽しいことは他にないのである。誠に彼は我らの望み(テモテ前一・1)、すなわち栄光の望み(コロサイ一・27)である。「我らの国籍は天にあり、我らは主イエス・キリストの救い主としてそのところより来たりたもうを待つ」(ピリピ三・20)。我らの望む所の真正の幸福と光栄とは主の再臨にある(テトス二・13)。しかし、この再臨は準備のできた者のためには無上の幸福であるが、準備のできていない者のためには実に無比の災過である。

無上の幸福とは何か

(一)、主再臨の時、我らの弱く重い卑しいこの体も栄化されて、神の形に似るのである(ヨハネの第一書三・2)。主にあって死んだ者は甦り、その時生き残っている我らはエノクやエリヤのように死なないで天に昇るのである(テサロニケ前四・16、17)。弟子らの見る間に主イエスが挙げられて雲の中に入りたもうたように、我らのこの足この体が地を離れて空中に携え挙げられるのである。これは虚言のようであるが真実である。ハレルヤ。その時我らは有形的に悪魔と世と死とに打ち勝ち、永遠に朽ちず死なざるものを着、凱歌を歌って昇るのである(コリント前十五・51~55)。

(二)、その時、死別した愛する者とまた相まみえることができるのである(テサロニケ前四・16、18)。アダムにも、イザヤにも、パウロにも、ウェスレーにも、面会することができるのである。しかし何より嬉しいのは、目のあたり主イエスを拝することである。「我を贖う者は生く。後の日に彼必ず地の上に立たん。我がこの皮この身の朽ち果てん後、われ肉を離れて神を見ん。我みずから彼を見たてまつらん。我が目彼を見んに知らぬ者のごとくならじ。わが心これを望みて焦がる」(ヨブ記十九・25、27)。我らはかくてマリヤのように懐かしい主イエスの足に抱きついて喜ぼうではないか。主は我らを抱き上げて接吻したもうであろう。聖く楽しい結婚式は父なる神の御前で千万の天使の参列する御殿で挙行されるであろう(黙示十九章)。

(三)、その時、我らは無限の財産を受け嗣ぐようになるのである。「讃むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神・・・・・・我らを新たに生まれしめて生ける望みを抱かせ、我らのために天に貯えある、朽ちず汚れず萎まざる嗣業を継がしめたまえり」(ペテロ前一・3、4)。これは幾千年来我らのために神が貯え、あるいは建築したもうた財産である。世の王侯貴族の財産もこれに比してはただ糞土のみである。かく主はその忠実な僕、十字架を負って終りまで忍んだ者のために義の冠、栄光の冠、生命の冠を備えて待ちたもうのである。主再び現れたまわん時、未曽有の盛大な戴冠式が行われるのである(テモテ後四・8)。そして我らは主と共に栄光の中に現れるのである(コロサイ三・4)。何と驚くべき輝ける望みではないか。神よ、願わくは我らの目を明らかにし、永遠を目指して暮させたまえ。

無比の災過とは何か

主にわかに来たりたもう時、主に会う備えある者は天に取られ、備えなき者は地に残されるのである(マタイ二四・39、41)。「そのとき大いなる艱難あらん。世の初めより今に至るまでかかる艱難はなく、また後にもなからん」(マタイ二四・21)。災害に災害重なり来たり、人々は苦痛悲叫し、全地に身を置く所なきを感ずるに至るのである(黙示六・15~17)。ああ、恐るべき日はかくてこの世に来るのである。

再臨の切迫

「いましばらくせば、来るべき者きたらん。遅からじ」。真面目に神の言を受け入れず、おのれの欲に従って歩んでいる人は、主の再臨のことなど冷笑し去り、あるいはこれを否定するが、聖書は早くよりこれを預言している(ペテロ後三・3、4)。しかし、「愛する者よ、汝らこの一事を忘るな。主の御前には一日は千年のごとく、千年は一日のごとし。主その約束を果たすに遅きは、ある人の遅しと思うがごときにあらず、ただ一人の滅ぶるをも望みたまわず、すべての人の悔い改めに至らんことを望みて我らを永く忍びたもうなり」(ペテロ後三・8、9)。親の心、子知らず。慈愛に満ちた父なる神は、罪人の救いに熱中したもうて年月の過ぎるのも忘れ、千年も一日のように感じたもうのである。おお、人よ、いつまで神を苦しめるや。いつまで主をして待たしめるや。「されど主の日の来ること、盗人の夜来るごとくならん」。今や我らの眼前に世の末期のしるしは歴然として現れ来たりつつある。戦争、飢饉、疾病、地震、迫害、不法満ち、人情冷却し、また福音は万国に宣べ伝えられつつあるのである(マタイ二十四・7~14)。人知の発展と交通機関の驚くべき進歩も世の末期のしるしの一つである(ダニエル十二・4)。また、ユダヤ人は地の諸方より本国に帰国しつつあるのである。

主は近し、あなたの準備はいかん

「もし潔からずぱ、主を見ることあたわず」(へブル十二・14)。「もし人、主を愛せずぱ呪わるべし。我らの主きたりたもう」(コリント前書十六・22)。