後のものと前のもの

笹尾鉄三郎

「兄弟よ、われはすでに捉えたりと思わず、ただこの一事を務む。すなわち後のものを忘れ、前のものに向かいて励み、目当てを指して進み、神のキリスト・イエスによりて上に召したもう召しにかかわる褒美を得んとてこれを追い求む」(ピリピ三・十三、十四)。

兄弟姉妹にはこの年末に際し、多くの感謝があり、また懺悔があり、渇望があるであろう。されば真面目に心の準備を神に願い、来たるべき新年を栄光の年としていただこう。この聖言は最近私の心に響いた神の聖声であるから、御一緒に学ぼう。

第一、「後のものを忘れ」

多くの人が前に進み得ないのは、後にあるものに絡まれているためである。これから来るものに二種類ある。

(一)、罪である。すなわち世につき、肉についてることであって、前進することができないのは悲しむべき当然のことである。来年も同じように神の栄光を汚すしかない。おお、君をつないでいるのは何か。もし地と肉につくものなら、断然捨てられよ。

(二)、過去の善行である。多数の人はこれにつながれ、絡まれている。自己の義を誇り、人に讃められたこと、他人に親切を尽くしたことを心にとめて喜んでいる。それでどうしても前に進むことができない。パウロはすべての物を糞土のように捨てて、かく前進することを得たのである。今日の心霊界のかく停滞している一大原因は、人々が過去の経験に絡まれて、後のものに恋々としているためである。願わくは、目を前にある新しいものに転ぜられよ。

第二、「前のものに向かいて励み」

すなわち、キリスト・イエスを知ることである。これは金銀珠玉よりも優るもので、真の光に照らされる時、これ以外のものは皆糞土に過ぎない。あなたはこのキリストを知っておられるか。聖霊に満たされるとはすなわち、このキリストを知ることである。キリストを知り、聖霊の酒に酔わされる時、すなわち真正の自由と喜楽とを得ることができるのである。このキリストを知るということを細別すると、

(一)、キリストを得ることである(ピリピ三・九)。この「得る」という文字は英語のWinで、愛をもって奪うという意味である。キリストが我らのために生命を捨てたもうたその愛に、まず我らが奪われてキリストに従う者となり、次に我らの方よりキリスト御自身を奪うのである。元来愛は相互的なもので、両方の心が奪い合わなければ成立しない。ゆえに我らの心をまず奪われた主は、我らの小さい愛にその心を奪われたもうのである。雅歌四・九に、「わが妹、わが花嫁よ、汝はわが心を奪えり。汝はただ一目をもてまた首玉の一つをもてわが心を奪えり」。また同六・十二には、「思わず知らずわが心われをしてわが貴き民の車の中にあらしむ」と歌われている。ただ一目により、また我らの首玉すなわち服従によって、心奪われたもうのである。また雅歌に「民の車」とあるのは軍隊の意で、主は彼のために戦う彼の戦士のいる所に、知らず知らず引き付けられたもうのである。

(二)、神の義を持つことである。他人を裁くことは信者一般の流行病である。自己の義を誇ることは古い人の特色であるように、人を裁いて自己を義とすることは人間の本性である。これがあるゆえに人は聖霊に満たされ得ないのである。我らは自己の義ではなく、ただ信じて与えられる神の義、キリストによって来る義を持って、彼の中にあるべきである。

(三)、彼とその甦りの力を知ることである(ピリピ三・十)。恵みや経験を得ても、それは彼を知ったことではない。直接彼ご自身を知ることが大切である。次に必要なのは甦りの力を知ることである。私が今年特別恵みに感じるのは、この甦りの力である。昨年の病気以来、呼吸も以前とは違って十分ではなく、霊魂も弱さを感じて度々御足下に倒れて御憐憫を乞い、その都度立ち上らされたのはすなわちこの力による。私が今日あるのは事実キリストの力によるが、これははなはだ小さな分量に過ぎず、来年はさらにさらに多く、広く、彼の甦りの力を知りたいと願っている。

(四)、彼の苦しみにあずかることである。我らが甦りの力を受けるのは、決して安逸を貪るためではなく、キリストの苦しみにあずかるためなのである。我らが身体の神癒を求めるのは、この世を面白く暮らしたいからではなく、我らの最上の目的はむしろ殉教者となることである。来たる年はさらに大いなる苦難を主にあって味わいたいものである。我らが受けつつあるものは、いまだ本当の苦難とは言えない。主は神なることを捨ててこの世に来たり、三十三年間枕する所なく、人の僕となって食事する暇もなく、悲しみの人となって遂に十字架にさえ上げられたもうた。このことを思うと、何となく我らの奉仕はその主に届いていないように感じられる。されば来年はいっそう進んで彼に近付き、彼の苦しみすなわち死の有様にあって仕えたいものである。もちろん、必ずしも迫害は必要ではないが、彼の心をもって心としていれば、彼のように倒れることができよう。

(五)、死人の中より甦ることを得んためである。人間はどんな者でも必ず一度は甦るべきであるが、特に死人の中より甦る者の仲間に入ることが肝要である。これは実にパウロの唯一の望みまた願いであったが、だれでもこの仲間に入り得るのではなく、取り残される連中もいるのである。栄光をもって主が来たりたもう時に新婦として迎え取られる者は、真実キリストの苦しみにあずかった者のみで、信者がみな花嫁ではない。ただ一切万事を捨ててキリストと全く一つになった人のみ、「彼と共に苦しまぱ、彼と共に王となるべし」。種々の口実を設けて主の苦しみにあずからない者はみな落第生である。決して油断をして、いい加減な悪魔の騙しを食ってはならない。パウロでさえこのことを追い求めて一生懸命に走ったのである。幸福なことに、「キリストはこれを得させんとて我を捉えたまえり」。主は我らを捉えて御自身の速力に従って走らせ、我らの後髪を引く舳綱を絶ち切り、後より押しあるいは前より引きたもう。であれば、我らどうして進まずにおられよう。ハレルヤ!