聖書元日

笹尾鉄三郎

今日は聖書中の元日の主な五つについて学ぼう。

第一、創世八・13。「六百一年の一月の一日に水地に涸れたり。ノアすなわち方舟の蓋を除きて見しに、見よ、土の面は乾きてありぬ」。恐るべきかの大刑罰をわずかに逃れ得たノアの一族も、なおしばらくは恐怖の中に閉ざされていたが、ひとたび大胆に蓋を除いて外を見ると、審判の冬ははやすでに過ぎ去って恩恵の春は来たり、ちょうど雅歌二・1~11節そのままの光景であった。願わくは我らも速かに不信仰の蓋を除いて恩恵の主御自身を見よう。

第二、エズラ七・9。「すなわち正月の一日にバビロンを出で立ち」。七十年間異邦に捕囚となっていたイスラエルの民衆も、この正月の元日にはエズラに導かれて敵国を出立したが、我らの中にはバビロンなるこの世に客となっている者がないであろうか。もしもあるならば真のエズラなる主イエスに引かれて、今日そこより逃げ出すべきである。

第三、エズラ十・17。「正月の一日に至りてようやく異邦の婦人を娶りし人々をことごとく調べ終れり」。ようやく外部の汚れより離れてエルサレムに帰来したイスラエルの民は、さらに異邦の婦女を娶って多くの雑種児を持つに至り、はなはだしきは祭司の族中にすらそのことが行われていた。これを見たエズラは驚き悲しんで、神に叫び、早速手を下してこの大いなる日まで大清潔法を断行したのである。さればすでにバビロンより移し返された我らの中に、また身も霊も全く神に献げているという者の中に、その果実として雑種児を生みつつある者はいないか。今日まさに大清潔法を断行すべき時である。

第四、出エジプト四十・17。「第二年の正月に至りてその元日に幕屋建ちぬ」。昔、御自身臨在したもうべく至望所を幕屋に備えたもうた主は、今貴き血をもって卑しき我らを贖い、これを聖別して、御自身の新しい宮なる我らの中に住まわんとしたもうのである。しかしもし小さい一点一画でも明け渡さない所及び血と油の注がれない所が我らの中にあれば、主は栄光をもって臨み住みたもうことが不可能である。諸君の中に今栄光の主は御臨在したもうや。そうでなければこの日、聖き生ける礼物としてその身を全く神に献げよう。

第五、エゼキエル二九・17。「ここに二十七年の一月一日にエホバの言われにのぞみて言う」。先刻、祈祷の中にエリヤのことを持ち出した人がいたが、いかに壮烈でも地震や大風を見聞して得るものはない。かえって必要なのは静かな細い神様の聖声である。リバイバルという大騒ぎを求めるのでなく、静かに細いエホバの聖言を聞こうと待ち望むのである。お正月が来たからといっていわゆる年始の巧言を聞いて何になろう。今は各自に与えられる新しい使命の聖声を聞くべきである。