時を知れ

笹尾鉄三郎

「斥候よ、夜は何の時ぞ。斥候よ、夜は何の時ぞ」(イザヤ二一・10、11)。「夜ふけて日近づきぬ」(ローマ十三・12)。すなわち義の太陽である主イエスが、やがて地上に再臨し、義の光を放ち、背ける者を罰し、キリスト敵対者や偽預言者らを滅ぼし、サタンを底なき穴につなぎ、千年王国の礎を備えたもう。しかしその前に曙の明星として、目覚めている潔められた聖徒に御自身を現したもう。これがいわゆる空中再臨なのである。ゆえに目下の時を知ることは大切である。

今は恵みの時なり(コリント後六・2)

ある聖書学者は世界人類の歴史を時代別にして研究している。たとえば、無邪気の時代、良心の時代、律法の時代というように区別し、そして今の時代を恵みの時代であると言うのである。主イエスの十字架はすなわち律法の時代の分割線である。この時代は誠に幸福な時代で、世界中どこの人でもただ罪を全く悔い改めて主イエスの贖いに頼れば救われ、神の子とされ、聖霊の賜物すら受けることができるのであるから、実に大いなる恵みである。しかしながら、この恵みの時は際限なく続くのではない。今はこの時代の最末期で、世界開闢以来いまだかってなかったほどの大艱難の時がはなはだ接近しているのである。そしてこの恵みの時代の幕は、前述の主イエスの空中再臨という拍子木によって引かれるのである。

主イエスの空中再臨はテサロニケ前書五章13節以下とその他に明記されている事実で、世々の永眠している聖徒は復活し、また全く潔められて生き残っている者は瞬時にその肉体が霊化され、共に雲に携挙され、空中で主に会い、喜楽を共にする幸福な時である。これを小羊の婚姻の宴というのである。我らはこの宴に是非ともあずからねばならない。このとき地上では種々の大きな艱難が続発するから、取り残された信者は非常な艱難に遭遇し、多くの信者は迫害のために殺される。何という禍の時ではあるまいか。

その後、主は聖徒を引き連れて地上に顕現するのである。けれども憐れみに富む主はこのことを知りたもうがゆえに、どうにかしてその民を一人でも多くこの艱難から救出しようとして、「汝らみづからを心せよ。恐らくは飲食に耽り、世の煩いにまとわれて心鈍り、思いがけぬ時、かの日罠のごとく来たらん。これはあまねく地の面に住めるすべての人に臨むべきなり。この起こるべき事をのがれ、人の子の前に立ち得るよう、常に祈りつつ目を覚ましおれ」(ルカ二十一・34~35)と警告したもうのである。であるから、

今は眠りより覚むべき時なり(ローマ十三・11)

お互いに経験しているように、我ら朽ち果てる肉体を着ている者は実は言いようのないほど弱い者である。ある人はペテロやその他の弟子らが主と共にゲッセマネの園で祈った時、暗黒の権力に抵抗し得ないでたちまち昏睡したことを笑うのであるが、それはむしろ暗黒の権力と衝突したことが無いからで、悪魔の加減を知らないからである。また彼は六千年来の経験と非常な熱心をもって巧みに世と肉の快味娯楽を好餌として来るから、多数の人が脆くも彼の術中に陥り、信仰は冷却し、活動は止み、やがて堕落するのである。それならばこの際我らはいかにすべきか。精励一番、死力を出して悪魔の姦計を退け、信仰の馳場を勇往邁進すべきか。それ言うべくして、行いうることではない。「わが欲する所の善はこれをなさず、かえって欲せぬ所の悪はこれをなすなり。ああ、われ悩める人なるかな。この死の体より我を救わん者は誰ぞ」とは我らある者の絶叫ではあるまいか。そこで我らはいよいよ煩悶苦慮すべきであろうか、また失望落胆すべきか。否!否!否!

今はエホバを求むべき時なり(ホセア十・12)

これ機に合う聖霊の勧誘奨励である。我らこの聖言を聞く時、非常に勇気と希望が起こり、あたかも暗夜に難破し漂泊している船が灯台の光を見たような心地がする。だからもはや自己の無力さを見て失望し、また敵の強力さを考えて憂慮することなく、愛と力とに富む主御自身を求めれば良いのである。すなわち、全き認罪と献身をし、全き潔めを受け、主の御宝血を唯一の条件とし信仰をもってペンテコステの聖霊とその力に満たされることをただひたすら求むべきである。

主は御昇天の際、聖霊によってかの力なき不忠実な弟子らに命令したもうた。「エルサレムを離れずして、我より聞きし父の約束を待て。汝らは日ならずして聖霊にてバプテスマを施されん。聖霊なんじらの上に臨むとき、汝ら力を受けん。……我が証人とならん」(使徒一・4、8)。主は真実である。御自身の約束を違えることができない。果たせるかな、弟子たちはペンテコステの日にこのことを成就されたのである。我らも彼らのようにへりくだり、主の御前に静まり、熱心にこのことを求めるならば、彼らと同様の力に満たされることは間違いないことで、「さらば聖霊の賜物を受けん。この約束は汝らと汝らの子らと、すべての遠き者すなわち主なる我らの神の召したもう者とにつくなり」(使徒二・39)と証明されている。だから我らは時を知る。今は眠りより覚め、主を求め、彼の再臨を待ち望む時である。